伊勢盛定

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伊勢 盛定(いせ もりさだ、生没年不詳)は室町時代武将伊勢氏の一族の備中伊勢氏。父は盛経。妻は政所執事伊勢貞国の娘。子に北川殿(今川義忠室)、盛時(北条早雲)など。通称は新左衛門尉、別名は盛次、官位は備中守・備前守か?。

長年、北条早雲の出自は不明で一般には伊勢素浪人と考えられていたが、近年の研究で北条早雲の前身が幕臣伊勢盛時であることが定説化している。伊勢盛時の研究の過程でその父の盛定についても次第に明らかになってきている。

目次

[編集] 生涯

[編集] 出自

備中伊勢氏は室町幕府政所執事を出す京都伊勢氏の支流で、備中国荏原郷(岡山県井原市)を領し将軍の近習や申次衆を出していた。

系図によると盛定は備中伊勢氏惣領盛経の四男で長男の盛富が惣領と推定され、盛富は父と同じ肥前守となり、盛定は兄と所領を分かち高越山城主となっている。

『室町殿行幸記』の永享9年(1437年)10月の記事に将軍足利義教の帯刀を勤める「伊勢新左衛門尉盛次」の名が見え、文安年間(1444年 - 1449年)の『文安番帳』(奉公衆の名簿)の一番衆申次に「伊勢新左衛門尉」の名がある。家永遵嗣学習院大学助教授)は諸史料と照合してこの人物が盛定と論考している。享徳元年(1452年)に盛定は所領の荏原郷の法泉寺に寺領を寄進している。

[編集] 幕臣としての活動

享徳3年~康正元年頃(1454年 - 1455年)に備中守に任官。『今川記』や『今川家譜』に今川義忠の室・北川殿について「京都侍所(政所の誤記)伊勢守殿姪」と記されている。このことから、北川殿の父の盛定が政所執事伊勢貞親(伊勢守)の姉妹(伊勢貞国の娘)を妻としていたことが分かる。貞親は享徳3年(1454年)に備中守から伊勢守に転じており、家永遵嗣は義兄弟になった盛定に伊勢氏にとって重要な意味のある備中守を譲ったと推定している。長禄4年(1460年)頃に備前守に転じている。備中守は貞親の弟・貞藤江戸時代以来、早雲の父と考えられていた)が継承している。盛定は備中伊勢氏惣領の兄盛富と並んで将軍申次を勤め、幕府の高級官僚的な地位にあった。

盛定の名は畠山義就との交渉(享徳4年(1455年))や近江守護六角政尭追放事件(長禄4年(1460年))、幕府から追討命令を受けた信濃国人高梨政高の赦免の交渉(寛正4年(1463年))などの記録に見える。これらの記録から、盛定は将軍足利義政の時代に幕政の中枢にあった貞親を外交交渉の面で補佐する立場にあったと考えられる。

文正6年(1466年斯波義廉の廃嫡問題を巡って貞親は将軍継嗣の足利義視と対立し、義視暗殺を企てたと糾弾されて季瓊真蘂斯波義敏赤松政則らと共に京都を出奔する事件が起きた(文正の政変)。盛定はこれに同行している。家永遵嗣は斯波義廉の廃嫡問題に盛定が深く関与していると論考し、斯波氏が守護に就いていた遠江国の国人の堀越今川氏や横地氏、勝間田氏の申次として連絡を取っており、そのため応仁の乱が起こると遠江は早々に貞親が支持する斯波義敏の支配下になったと指摘している。

[編集] 今川氏との関係

その後、貞親は将軍の赦免を受けて京都へ復帰し、応仁元年(1467年)に応仁の乱が起こる。駿河守護の今川義忠は上洛して花の御所に入り、東軍に属した。義忠は貞親の屋敷をしばしば訪れており、盛定は本宗家と今川氏との申次を務めた。その縁で盛定の娘の北川殿が義忠の妻となったと考えられる。早雲が伊勢素浪人と考えられていた時期は北川殿は側室とされていたが、将軍近臣の備中伊勢氏と今川氏とは家格に遜色がなく、現在では北川殿は正室と考えられている。小和田哲男静岡大学教授)は結婚の時期を応仁元年頃と推定している。北川殿は文明3年(1471年)に嫡男龍王丸(今川氏親)を生んでいる。

文明3年(1471年)に備中国荏原郷で発給された文書に盛時の署名があり、この時期、盛時は京都で活動する父に代わって所領の荏原郷の支配を行っていたようだ。

文明8年(1476年)今川義忠は遠江国で横地氏、勝間田氏と戦い勝利するが、帰路に残党に襲われて討ち死にした。従来、横地氏、勝間田氏は西軍の斯波義廉に内応したために義忠がこれを討ったとされていたが、近年の研究によって、これ以前から義忠は東軍の斯波義寛の遠江の被官の国人と戦っていることが明らかになっており、義忠は同じ東軍と戦っていたことになる。家永遵嗣は盛定は義忠ではなく横地氏、勝間田氏を支援していたと推定している。

[編集] 盛時の活動

幼少の龍王丸に対して不安を持った家臣の一部が義忠の従兄弟の小鹿範満を擁立して家督争いが起こった。北川殿の弟の伊勢新九郎(盛時)が駿河に下向して、龍王丸成人まで小鹿範満を家督代行とすることで調停を成功させている。後の北条早雲の最初の活躍とされる事件だが、盛時の父の盛定が幕府の重要な地位にあったことが近年明らかになってきており、盛時は盛定の代理として幕府の意向を受けて駿河下向したという説が有力である。

家永遵嗣は幕府(東軍)と敵対関係にあった義忠の子の龍王丸だが、小鹿範満は関東管領上杉氏の一族(上杉政憲)の娘を母としており、関東管領の影響力が駿河に及ぶのを嫌った幕府が龍王丸支持に切り替えて、龍王丸の叔父にあたる盛時を派遣したという説を出している。一方、この今川氏の家督争いについて記した『鎌倉大草紙』に伊勢新九郎の活動が見られないことから、黒田基樹(駒澤大学講師)は伊勢新九郎の調停の実在に疑問を呈している。

その後、盛時は京へ戻り、文明15年(1481年)に将軍足利義尚の申次衆になっている。文明19年(1487年)に盛時は再び駿河へ下向して小鹿範満を討ち龍王丸を家督に就かせた。

明応4年(1493年)、宗瑞(盛時が出家)は伊豆へ乱入して堀越公方足利茶々丸を討っている。戦国時代の幕開けとされる事件だが、近年の研究では、この事件は中央で起こった明応の政変管領細川政元が将軍足利義材を追放して茶々丸の弟の義遐を将軍に据えた)に連動したものとする説が有力で、伊勢宗瑞(北条早雲)の一連の行動の背景には幕府の高級官僚だった父・盛定の存在があったと考えられている。

[編集] 参考文献

[編集] 関連項目

最終更新 2009年11月21日 (土) 12:31 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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