伊勢貞宗
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伊勢貞宗
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| 時代 | 室町時代中期 |
| 生誕 | 文安元年(1444年) |
| 死没 | 永正6年(1509年) |
| 改名 | 七郎(通称)。金仙寺・常安全室(号) |
| 官位 | 兵庫頭。備中守。伊勢守 |
| 幕府 | 室町幕府政所執事 |
| 主君 | 足利義政→義尚 |
| 氏族 | 伊勢氏 |
| 父母 | 父:伊勢貞親 |
| 子 | 貞陸 |
伊勢 貞宗(いせ さだむね)は、室町時代中期の武将。室町幕府の幕臣。伊勢流故実の大成者である。
[編集] 生涯
文正元年(1466年)に父の貞親が足利義視暗殺計画に失敗して季瓊真蘂、斯波義敏、赤松政則と共に京都から出奔したため(文正の政変)、将軍・足利義政の命令で家督を継いで政所執事となった。応仁2年(1468年)に父が京都に戻ってくると、執事職を父に返還したが、文明3年(1471年)に父が出家すると再び執事となった。
専横の振る舞いが目立った父・貞親と違って温和な性格だったことから義政の信任も厚く、足利義尚の養育係に任じられ、義尚が将軍に就任すると幕政全般を統括するまでに至った。応仁の乱終結後に起こった山城国一揆では息子の貞陸が山城守護に任じられて、貞宗はその補佐にあたっている。しかし義尚、そして義政らが相次いで死去すると、延徳2年(1490年)、家督と執事職を貞陸に譲って隠居し、以後は「貞宗聞書」、「伊勢兵庫頭貞宗記」などの著作・文芸活動に専念した。ただし、明応の政変で足利義澄が将軍に就任すると、日野富子の意向もあってその後見人的な立場に就いており、政変で幕府の実権を握ったとされる管領細川政元も貞宗の存在を無視することは不可能であったという。
永正6年(1509年)に死去した。享年66。
[編集] 人物像・エピソード
- 斯波氏の内紛に介入したり、足利義視の暗殺計画を企てたりした父の振る舞いを快く思っておらず、父に泣いて諫言し、かえって父に幽閉させられたと伝えられている。
- 応仁の乱で滅んでいてもおかしくなかった幕府を守った幕臣といってもよい。文明17年(1485年)には奉公衆と奉行衆の抗争の調停役、義政と義尚が対立した際の仲介役、諸大名との交渉役、そして山城国一揆で混乱する山城守護輔任など、単なる政所執事職にしてはあまりに大きすぎる権限を将軍親子から任されているからである。
- 貞宗の隠居の背景には父が暗殺を企てた足利義視の子義材が新将軍に就任したために、身の危険を感じたからとも言われている。また、細川政元・日野富子が義材を廃した明応の政変では、伊勢貞宗が「謀書」を送って奉公衆や奉行衆に新将軍足利義澄を支持するように勧めたことが近衛政家の日記『後法興院記』明応2年6月11日条に記されている。『鹿苑日記』明応8年8月22日条には義澄が「我今若年、委政於伊勢(我は若年にして、政治を伊勢(貞宗)に任せている)」と述べたと記している。[1]
[編集] 脚注
- ^ 山田康弘「明応の政変以後の室町幕府政治体制に関する研究序説」(初出『学習院大学人文科学論集』(1993年)/改題・補訂「明応の政変直後の幕府内体制」 所収:山田康弘『戦国期室町幕府と将軍』(吉川弘文館、2000年) ISBN 978-4-642-02797-7 第一章)
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最終更新 2009年9月20日 (日) 12:06 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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