伊土戦争

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伊土戦争

リビアを爆撃するイタリア飛行船
戦争:伊土戦争
年月日1911年9月29日 - 1912年10月18日
場所リビア
結果:イタリアの勝利、リビアドデカネス諸島の獲得
交戦勢力

イタリア王国

オスマン帝国
指揮官
カルロ・カネヴァ エンヴェル・パシャ
ケマル・パシャ
戦力
20,000人(増援後8,0000人) 28,000人
損害
死者3,380人
負傷者4,220人
死者14,000人
負傷者5,370人
装甲艦1隻
水雷艇2隻

伊土戦争(いとせんそう、イタリア=トルコ戦争リビア戦争: Italo-Turkish War, Turco-Italian War)は、1911年9月から1912年10月の間にイタリア王国オスマン帝国の間で戦われた戦争

目次

[編集] 背景

他の列強と同様にアフリカでの植民地獲得を進めていたイタリアは1896年エチオピアへ侵攻したが、装備の近代化に成功していたエチオピアを侮りアドワの戦いでその目論見を崩された。追い討ちを掛けるようにイタリア社会党をはじめとした左翼勢力の反対や経済の疲弊などが起き、植民地戦争は一時中止された。

しかし1908年から始まった青年トルコ人革命によりオスマン帝国内が混乱すると、以前からトルコと緊張関係にあったイタリアはリビアの領有を巡ってトルコと開戦する。

[編集] 勃発

1911年9月、リビア領内のイタリア人に対するトルコ官憲の圧迫があったことを理由に小さな衝突事件が発生した。ドイツがトルコ支援を明確に表明したが、イタリア首相のジョリッティは世論に押される格好で衝突事件を理由にオスマン帝国にリビアを割譲するよう最後通牒を提示した。期限の24時間を過ぎても帝国からの回答が無かったため、翌日にイタリアはオスマン帝国に正式に宣戦布告し、伊土戦争が勃発した。

イタリアの新聞各紙は「リビアは理想の大地であり、オスマン軍との戦いは軍の散歩に過ぎない」と世論を煽ったが、実際にはリビアは不毛の大地でイタリア陸軍は予算不足に苦しめられていた。一方、オスマン軍は脆弱なリビア駐屯軍を補強する為に、勇猛で知られた現地のベドウィン兵を組織化する事に着手した。

[編集] イタリアの攻勢

まず制海権確保に動いたイタリア海軍が在リビアの水雷艇2隻を撃沈するなどオスマン海軍を一蹴し、10月には地中海の制海権を獲得してアナトリアからの増援を遮断した。劣勢なオスマン帝国海軍は本国を動かず戦闘を回避する消極策に出るのみだった。海軍が揚陸した1200名の水兵部隊は沿岸部のオスマン軍を追いやって上陸地点を確保した。続いてイタリア海軍は月末までに約2万名の陸軍部隊をトリポリベンガジなどの主要都市に上陸させた。オスマン軍の守備部隊による多少の重火器による反撃もあったが然したる問題ではなく、トルコ軍を内陸の砂漠地帯に追いやり主要都市を占領した。

この戦いでイタリアは2隻の飛行船に加えて28機の航空機を投入、偵察の他に爆撃も行った。航空機が初めて戦場に現れた戦争で、少数ながら装甲車両も投入されたが、これらの新型兵器は数の少なさもあり戦略的な効果は薄かったと考えられている。

[編集] 長期戦化

伊土戦争の戦況(1911年)
トリポリに進出したイタリア陸軍は、トルコ軍のゲリラ戦に苦しめられた

砂漠地帯に逃げ込んだオスマン軍は外国軍に不信を抱く民衆を煽り、また自らも非正規戦闘を仕掛けた。イタリアは占領地の治安維持とゲリラ対策に追われ、進軍を継続する事が難しくなった。またムスタファ・ケマルが20000名のベトウィン騎兵と8000名のトルコ兵をもってベンガジで強襲攻撃を仕掛けてきた際に蒙った打撃も軽視できないものであった。国内の厭戦感情もあり、早々に決着を付ける必要があると判断したイタリア陸軍は本国から増援を得て戦力を8万名とし、オスマン軍の主要拠点の一つであったアインザラに進軍し、オスマン軍の主力に決戦を挑んだ。

しかし攻勢を察知したオスマン軍は勝ち目の薄いイタリア陸軍との正面決戦を避け、都市から退却してしまった。早期決着を望むイタリア陸軍の思いとは裏腹に後方に下がったオスマン軍は再び不正規戦を開始し、際限の無いゲリラ狩りが続けられていった。1912年8月までに海軍の優位によってリビア全域の沿岸部が占領下に置かれたが、内陸部の獲得にまでは至らなかった。

[編集] 停戦

1912年に入ってもこの状況は変わらなかった。無駄に戦費がかさむ事を嫌ったイタリアは、海軍を積極的に動かして外交的圧力をかける戦略へ切り替える。2月にはベイルート装甲巡洋艦2隻で襲撃し装甲艦アヴ・ニッラー(Avni Illah)と水雷艇1隻を撃沈した。夏にはその一部をアナトリアに振り向けイスタンブールを砲撃して圧力を加えた。この攻撃はオスマン海軍によって退けられたが、それまで静観していた列強各国が戦火が拡がりバルカン半島情勢に悪影響を与えることを危惧して戦争の調停に乗り出し始めた。列強国は自らが多くの植民地を保有していることからイタリアの植民地政策に理解を示す立場にあり、イタリア側に有利な形で調停は進められていった。

オスマン政府はこれを不服とし戦争を継続する意思を見せたが、オスマン帝国がイタリアの進出に忙殺されている状況を好機と捉えたバルカン同盟がオスマン帝国領内に侵攻を開始(第1次バルカン戦争)。イタリアとの戦争に戦力の殆どを投入していたオスマン帝国はバルカン方面に十分な兵力を送れず、首都陥落、ひいては国家存亡の危機に立たされる。かくしてイタリアとの継戦が不可能と判断したオスマン政府は10月18日にローザンヌ条約を締結、トリポリタニア、キレナイカの領有権をイタリアに割譲した。戦争に勝利したイタリアは併合地をリビアと改め、自国の新たな植民地とした。

[編集] 戦後

両国間の講和が成立した後も、キリスト教徒による統治に対してリビア人の抵抗は続いた。特にキレナイカの内陸部では現地を本拠とするスーフィー教団である、サヌースィー教団を軸とした強力な抵抗運動が起こり、イタリア陸軍の駐屯軍はこの鎮圧に大きな労力を割く事になった。

[編集] 関連項目

[編集] 参考文献

[編集] 外部リンク


最終更新 2009年11月19日 (木) 08:04 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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