伊沢修二
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伊沢 修二(いさわ しゅうじ、1851年6月30日(嘉永4年6月2日) - 1917年(大正6年)5月3日)は、日本の教育者である。明治から大正にかけて、近代音楽教育や、吃音矯正などを行う。
妻は徳島藩士の森重氏の娘ちよで、子に1男4女。幼名は弥八。 政治家の伊沢多喜男は弟(したがって劇作家の飯沢匡は甥)、教育者の遠藤隆吉は娘婿である。
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[編集] 略伝
信濃国伊那谷、高遠城下に高遠藩士の父・勝三郎、母・多計の子として生まれる。父は20俵2人扶持の下級武士のため極端な貧乏暮らしだった。
1861年(文久1)から藩校の進徳館で学び、1867年(慶応3)に江戸へ上京。京都へも遊学して蘭学などを学ぶ。同年には藩の貢進生として大学南校(のちの東京大学)に進学する。
1872年(明治5)には文部省へ出仕し、のちに工部省へ移る。1874年(明治7)に再び文部省にもどって愛知師範学校校長となる。1875年(明治8)には師範学校教育調査のためにアメリカへ留学、マサチューセッツ州ブリッジウォーター師範学校で学び、同時にグラハム・ベルから視話術を、ルーサー・メーソンから音楽教育を学ぶ。同年10月にはハーバード大学で理化学を学び、地質研究なども行う。聾唖教育も研究する。1878年(明治11)5月に帰国。
1879年(明治12)3月には東京師範学校の校長となり、音楽取調掛に任命されるとメーソンを招く。来日したメーソンと協力して西洋音楽を日本へ移植し、『小學唱歌集』を編纂。田中不二麿が創設した体操伝習所の主幹に命じられる。1887年には初の国産オルガンを持って上京した山葉寅楠(ヤマハ創設者)に調律の乱れを指摘し音楽論を教授している。1888年(明治21)には東京音楽学校、東京盲唖学校の校長となり、国家教育社を創設して忠君愛国主義の国家教育を主張、教育勅語の普及にも努める。
内閣制度が発足し、1885年(明治18)に森有礼が文部大臣に就任すると、教科書の編纂などに務める。1894年(明治27)の日清戦争後に日本が台湾を領有すると、台湾へ渡り台湾民生局の学務部長心得に就任。1895年(明治28)6月に、台北北部の芝山巌(しざんがん)に小学校「芝山巌学堂」を設立。翌1896年(明治29)1月、伊沢が帰国中に、日本に抵抗する武装勢力に同校が襲撃され、6名の教員が殺害される事件が発生した(芝山巌事件)。
1897年(明治30)には勅選貴族院議員。晩年は吃音矯正事業に務め、楽石社を創設。67歳で死去。
墓所は雑司ヶ谷墓地。
祝日大祭日唱歌「紀元節」や唱歌「皇御国」「来たれや来たれ(皇国の守)」などを作曲。『生物原始論』を翻訳し、進化論を紹介する。著作に『教育学』、『小学唱歌集』、『学校管理法』ほか。
アメリカ留学中の1876年には留学生仲間の金子堅太郎とともに日本人として初めて電話を使っている。
[編集] エピソード
- 芝山巌学堂の場所には、芝山巌事件で殉職した日本人教師6名を指す「六氏先生」を追悼して、伊藤博文揮毫による「学務官僚遭難之碑」が建立された。戦後、台湾が中国国民党政府に接収されると石碑は倒され、長く放置されていたが、台湾の民主化後、民進党の陳水扁台北市長時代に復元された。なお、台北市長は再び国民党にうつり、2006年に至って再び「学務官僚遭難之碑」の撤去を決めたとの事。
[編集] 参考文献
- 司馬遼太郎、1994年、「伊沢修二の末裔」『台湾紀行』街道をゆく40、朝日新聞社、239 - 252頁 ISBN 978-4022641489。
- 奥中康人、2008年、『国家と音楽 伊澤修二がめざした日本近代』、春秋社、ISBN 978-4393930236。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
最終更新 2009年9月14日 (月) 08:25 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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