伊藤智仁

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伊藤 智仁
東京ヤクルトスワローズ コーチ #84
基本情報
国籍 日本
出身地 京都府京都市中京区
生年月日 1970年10月30日(39歳)
身長
体重
183cm
76kg
選手情報
投球・打席 右投右打
守備位置 投手
プロ入り 1992年 ドラフト1位
初出場 1993年4月20日 阪神戦(神宮)
最終出場 2001年4月10日 阪神戦(甲子園)
経歴(括弧内は在籍年)
選手歴
コーチ歴
国際大会
代表チーム 日本の旗 日本
五輪 1992年
オリンピック
男子 野球
1992 野球

伊藤 智仁(いとう ともひと、1970年10月30日 - )はヤクルトスワローズに所属していた元プロ野球選手(投手)。現在はヤクルトの一軍投手コーチを務めている。青田昇に「プロ野球史上で本当のスライダーを投げたのは、藤本英雄、稲尾和久、伊藤智仁の三人だけ」と称された。

目次

[編集] 経歴

京都府出身。花園高等学校を卒業後、地元の三菱自動車京都に入社。

1992年バルセロナオリンピック野球日本代表に選出され、1大会27奪三振のギネス記録を作るなど、日本の銅メダル獲得に大きく貢献した。同年のドラフトではヤクルトスワローズ広島東洋カープオリックスブルーウェーブの3球団が1位指名、抽選の結果ヤクルトが交渉権を獲得し入団契約を交わす。入団時の背番号は20。当初は読売ジャイアンツも伊藤を指名する予定であったが、監督の長嶋茂雄松井秀喜の獲得を熱望したため松井指名に切り替えている。

1993年、開幕からローテーション入りする。150km/hオーバーのストレートと真横に滑るような高速スライダーを武器に投球回を上回る三振を奪い、前半戦だけで7勝2敗・防御率0.91の成績を挙げるが、7月中旬にひじ痛のため戦線離脱。シーズン終了まで復帰することはなかったが、実働3ヶ月ながら新人王を受賞。

1994年1995年の2年間はひじ痛とルーズショルダー(非外傷性肩関節不安定症)に悩まされ一軍登板はできなかったが、1996年後半に一軍に復帰。

1997年、ストッパーの高津臣吾が不調に陥ったため一時的に代理を務める。7勝2敗19セーブを記録しカムバック賞を受賞した。

1998年、再び先発に転向する。被安打が増え6勝11敗と負け越すが防御率2.72をマークする。

1999年、この年から背番号を21に変更。登板回数こそ少なかったが先発ローテーションに入り安定したピッチングを続け好成績を残すが、ひじ痛・肩痛は癒えておらず同年オフに肩の手術を受けている。2000年は前年より成績を下げた。

2001年、ひじ痛・肩痛が再発、登板数も1試合に終わる。オフに再帰を誓い、3度目となる右肩の手術を受ける。

2002年、秋季コスモスリーグに登板するも9球目に右肩を亜脱臼しリハビリに残りシーズンを費やす。同年オフに球団から引退勧告とヤクルト本社への入社を勧められるが現役続行を志願、過去最大となる88%減の年俸で契約した。

2003年、秋季コスモスリーグに登板し、打者3人を相手に内野ゴロ・四球・四球という投球内容で降板。かつて150km/hオーバーを記録したストレートは109km/hにとどまった。球団の引退勧告を受け現役引退を表明。実働期間こそ短かったもののその実力は非常に高く評価されており、全盛期に伊藤の球を受けていた捕手の古田敦也は「あの高速スライダーは捕手だからなんとか捕球出来ているが、もし自分が打者だったら絶対に打てない」と賞し、プロ野球評論家の青田昇は「プロ野球史上で本当のスライダーを投げたのは、藤本英雄稲尾和久、伊藤智仁の三人だけ」と評価し、そして当時の監督だった野村克也をして「長いこと監督をやってきたけど、あいつがNo.1だよ」(フルタの方程式7月号にて)と言わしめた。

2004年ヤクルトスワローズ二軍投手コーチに就任、背番号は84

2008年荒木大輔と共に一軍投手コーチに就任、練習指示やブルペンでの肩作りの指示を中心に行っておりマウンドに姿を出すことは滅多にない。

[編集] エピソード

  • プロ入り後の初めての春季キャンプで、監督の野村克也は伊藤のピッチングを見て江川二世! 江川二世!」と興奮気味に報道陣に語っていたという。後に野村はヤクルト監督9年間のドラフトで石井一久と伊藤智仁を獲得できたのが最大のヒットだったと語っている。
  • 1993年、伊藤の投球に他球団は歯が立たず、一時は「伊藤が登板すれば勝つ」状態であった為、監督の野村は伊藤を積極的に先発させた。また完投させる事も多く、中には1試合190球投じた試合もあった(初登板の4月下旬から7月中旬までの約3ヶ月間で12試合に先発し5試合完投)。だが伊藤がルーズショルダーである事は分かっていた為、コーチ陣は故障を危惧し登板回数・投球回を減らすよう促すが、野村はその助言を聞かずそれがシーズン中盤の故障に繋がった。この事に関し、野村は監督退任後に「積極的に登板させた事によって彼の選手生命を縮めてしまった。申し訳なく思っている。」とコメントしている。
  • 1993年6月9日石川県立球場での巨人戦、8回まで無失点、さらに当時のセリーグタイ記録である16奪三振をあげるが味方の援護もなく0-0のまま迎えた9回裏、篠塚和典にソロホームランを打たれサヨナラ負けを喫する。この後悔しさのあまり自軍ベンチに向かって自分のグラブを投げつけたことについて、ルーキーらしからぬ態度だと非難する声が上がる一方、それぐらい悔しがっていいと擁護する声もあった。なお「負け試合における」1試合16奪三振はこのケースが初めてである。
  • 1993年の7月中旬にひじ痛で戦線離脱した時点での投球回は109、防御率は0.91であった。仮に故障せずあと22回を投げていれば規定投球回に到達し、残りの自責点が3点以内であれば1970年村山実以来となる防御率0点台であった(この年の最優秀防御率は山本昌の2.05)。
  • あだち充原作のマンガ「H2」の主人公・国見比呂も高速スライダーを得意とするが、その国見が投げるスライダーは伊藤のスライダーがモデルとなっている。これは、あだち充がスワローズファンだというところにも起因していると思われる。

[編集] 年度別投手成績








































W
H
I
P
1993 ヤクルト 14 12 5 4 0 7 2 0 -- .778 426 109.0 70 3 35 1 2 126 5 0 11 11 0.91 0.96
1996 14 0 0 0 0 1 2 3 -- .333 77 15.0 16 3 14 1 3 15 1 0 9 9 5.40 2.00
1997 34 0 0 0 0 7 2 19 -- .778 172 47.2 23 3 10 3 1 53 0 0 8 8 1.51 0.69
1998 29 22 6 1 0 6 11 3 -- .353 648 158.2 114 14 57 3 9 154 8 3 53 48 2.72 1.08
1999 17 17 2 1 1 8 3 0 -- .727 455 114.2 92 6 30 0 6 91 4 0 31 29 2.28 1.06
2000 18 18 2 1 1 8 7 0 -- .533 449 109.0 102 10 30 1 2 107 6 0 38 38 3.14 1.21
2001 1 1 0 0 0 0 0 0 -- ---- 15 4.0 4 0 0 0 0 2 0 0 0 0 0.00 1.00
通算:7年 127 70 15 7 2 37 27 25 -- .578 2242 558.0 421 39 176 9 23 548 24 3 150 143 2.31 1.07
  • 各年度の太字はリーグ最高

[編集] タイトル・表彰

  • 新人王 1993年
  • カムバック賞 1997年

[編集] 背番号

  • 20 (1993年 - 1998年)
  • 21 (1999年 - 2003年)
  • 84 (2004年 - )

[編集] 関連項目

最終更新 2009年12月7日 (月) 19:26 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【伊藤智仁】変更履歴

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