伊賀越え
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伊賀越え(いがごえ)は、畿内より東国へ行く際に伊賀国(伊賀市)を経由して行くことを指す。
[編集] 神君伊賀越え
天正10年6月2日(1582年6月21日)の本能寺の変に際し、徳川家康が明智光秀の軍や混乱に乗じた落武者狩りなどとの遭遇を回避するために、堺(大阪府堺市)見物後の滞在先であった河内国四条畷から本多忠勝らわずかの供回りを連れて山城国宇治田原、近江国甲賀の小川城に辿り着いた。その後、天正伊賀の乱の地・伊賀国の険しい山道を経て加太峠を越え、伊勢国津(三重県津市)又は伊勢国白子(三重県鈴鹿市)又は伊勢国浜村(三重県四日市市)の何れかから海路で領国の三河国大浜(愛知県碧南市)へ戻り、岡崎城へ帰還した。
当時、家康に随行していた供廻は、以下の僅か34名であった。
本多忠勝、井伊直政、榊原康政、酒井忠次、石川数正、本多正盛、石川康通、服部正成、高木広正、大久保忠隣、菅沼定政、久野宗朝、本多信俊、阿部正勝、牧野康成、三宅正次、高力清長、大久保忠佐、渡辺守綱、森川氏俊、酒井重勝、多田三吉、花井吉高、鳥居おます、内藤新五郎、都筑亀蔵、松平玄成、菅沼定利、永井直勝、永田瀬兵衛、松下光綱、都筑長三郎、三浦おかめ、青木長三郎
これらは徳川四天王をはじめとする徳川家の重鎮が揃っており、光秀の配下や一揆等に襲われていたら徳川家への大打撃は必至であった。家康は本能寺の変の報に際して取り乱し、一度は、光秀の支配下にある京都に上り松平家にゆかりのある知恩院(浄土宗鎮西派総本山)に駆け込んで自刃することを決意したが、本多忠勝を始めとする部下たちに説得され、三河へ帰ることとした。この時、行く先々で銀子を渡してトラブルを避けた徳川家御用商人である茶屋四郎次郎や、落ち武者狩りを回避するために惣村(集落)の乙名(村長)に道案内させた本多忠勝、敵地伊賀の只中でその伊賀出身を活かした服部正成等の配下の功も大であった。
家康主従には(信長から堺案内の為に付けられた)長谷川秀一、西尾吉次および武田方の穴山信君(梅雪)らも同行していた。長谷川秀一は安全圏の尾張熱田まで家康一行に同行して逃げ、無事窮地を脱した[1]。西尾吉次は、無事に伊賀越えを成し遂げた後そのまま家康の家臣になった。だが梅雪は相楽郡山田から別の道をとることになった。『三河物語』によれば家康主従に金品を奪われることを恐れたためであるという。しかし山城国綴喜郡草内村あたりで土民たちに討ち取られてしまい、明暗を分けた。一説によれば、家康と間違われたため討たれたという。
なお隆慶一郎の小説「影武者徳川家康」では、本多正信がこの行程の途中で徳川家に帰参したという設定になっている。
[編集] 出典
- ^ 『信長公記』
[編集] 参考資料
『真説 本能寺』桐野作人著 学研M文庫 ISBN4-05-901042-1
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最終更新 2012年5月14日 (月) 07:38 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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