会沢正志斎
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会沢 正志斎(あいざわ せいしさい、天明2年5月25日(1782年7月5日) - 文久3年7月14日(1863年8月27日))は、日本の武士・江戸末期の水戸藩の儒者。水戸学の代表的思想家。父は会沢恭敬で長男、母は根本重政の娘。名は安(やすし)。字は伯民。通称は恒蔵。号は正志斎。
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[編集] 生涯
寛政3年(1791年)、藤田幽谷の青藍舎へ入門する。享和元年(1801年)、20歳のときには国防問題に関する『千島異聞』を著わす。享和3年(1803年)に藩校の彰考館に入門。文化4年(1807年)には徳川斉昭に近侍する。文政8年(1825年)には遭難したイギリス船員と会見し、海外情報を聞き記した『新論』を表すが、内容が過激であるという理由で発禁処分となる。
文政10年(1827年)には幽谷が死去し、彰考館の総裁となる。文政12年(1829年)、斉昭を水戸藩主に擁立する運動に参加し、斉昭から取り立てられ、藤田東湖や武田耕雲斎らと共に藩政改革を補佐し、郡奉行などを歴任している。天保11年(1840年)には弘道館の初代教授頭取に任じられ水戸学発展に貢献した。
弘化2年(1845年)、仏教界が政治に介入することを苦々しく思って斉昭に仏教徒を弾圧することを進言し、これが原因で斉昭は幕府から隠居を命じられる。このとき、正志斎も蟄居を命じられた。嘉永2年(1849年)に斉昭が復帰すると同時に復帰した。
安政5年(1858年)、幕府の条約締結に関して、朝廷から水戸藩に戊午の密勅が下る。会沢は密勅返納を主張し、藩内の尊皇攘夷派と対立する。斉昭が安政の大獄で永蟄居処分となると、藩内は分裂し、正志斎はその両派の収拾に努め、文久2年(1862年)には一橋慶喜(徳川慶喜)に対して、開国論を説いた『時務策』を提出する。82歳で死去。
正志斎は神道と水戸学を合わせて大義名分論を唱えた人物としても有名であるが、彼の著作や尊皇攘夷運動は、長州藩の吉田松陰らに影響を与えた精神的指導者であった。
[編集] 著書
- 『千島異聞』(1801年・寛政13年)
- 『新論』(1825年・文政8年)
[編集] 全集
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
最終更新 2009年3月23日 (月) 12:52 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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