会津観光史学

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会津観光史学(あいづかんこうしがく)とは、戊辰戦争において会津藩を正義の被害者、長州藩薩摩藩などを悪の加害者とする歴史観を揶揄するネットスラングの一種。又、郷土贔屓の引き倒しから史実を隠蔽し、捏造する研究者や郷土史家の姿勢を嘲笑する皮肉の一つとして扱われる。 現在では、福島県山口県は仲が悪いなどと語られる場合など、怨念的な想いについてネット上での戯評として使われる事もある。ただし、近年では「怨念史観」「観光史学」としての精神史研究の対象に扱われ始めている例もある。[要出典]

目次

[編集] 概要

明治維新以降、会津を賊軍ではないとする雪冤運動から始まり、旧会津藩士からなる「七年史」「京都守護職始末」などの出版による会津からの意見陳述がなされた。昭和期にジャーナリストの徳富蘇峰やその秘書で会津出身である早川喜代治などによる「会津藩は朝敵にあらず」といった戦意昂揚的なプロパガンダなどにも絡んできた。その中で、大正年間より白虎隊終焉の土地である飯森山を観光施設として喧伝しようとした動きが、「観光客を目的とした歴史の利用」の先鞭を告げる。当時より飯森山の観光化に対しては批判があり、朝日新聞は墓地整備の観光化に関して厳しく批判している。これに対して、元白虎隊士でもあった山川健次郎は「国威発揚に効果がある」と反論している。[要出典]

[編集] 第二次大戦中まで

戦前の国威発揚の一環として、会津武士道が注目されるようになり、実際に白虎隊精神がファシズム軍国主義に利用された。1935年(昭和10年)に駐日ドイツ大使フォン・エッツドルフが飯盛山を訪れた時に、白虎隊の少年たちの心に深い感銘を受けて個人的に寄贈した記念碑や、1928年(昭和3年)にベニート・ムッソリーニが白虎隊の精神に感心して元老院とローマ市民の名で寄贈したという古代ローマ時代のポンペイから発掘された宮殿の石柱による記念碑がある。
また、戦時中には保科正之がブームになった時期もあったが、会津関連著作の多い作家で有名な中村彰彦は「明治以降殆ど闇に埋もれてしまった」[1]と述べている。

[編集] 戦後から現在に掛けて

戦後に「軍国主義的である」という理由で上記のような運動が顧みられなくなり、国威発揚に利用された点が会津観光へのマイナスイメージになる事を恐れ、会津観光史学の元では「薩長の謀略(勝者による歴史改竄)」によって、明治維新以降、会津が顧みられなくなったと戦前の国威発揚に利用された事を隠蔽しようとする。[要出典]

やがて地方史の視点で明治維新を再検証する姿勢が出てくるようになる。これに戦後復興からくる観光ブームから、白虎隊が観光資源として扱われるようになってくる。その後、日本テレビのドラマ「白虎隊」(1986年)や、司馬遼太郎の講演会による薩摩・長州を勧善懲悪に見る事から、地元研究家による「歴史上で会津に正義がある」と語られるようになる。[要出典]これより、会津は観光資源が「会津の自然」より「会津の歴史」にシフトされるようになる。また、1957年には戊辰戦役90年祭として会津まつりが行われるようになり、白虎隊のパレードを見られるようになった。

会津若松市の商工観光部長であった宮崎十三八が、会津若松のスポークスマンとなってから観光と歴史のセッティングが始まる。宮崎は戦後日本により皇国史観の鎖が断ち切られた事により「それまで自分たちが(痛み)に耐えつつ無実を訴えつづけてきた壁が、一夜にして取り払われた」[2]と主張し、次々に会津より作品を発表を始める。宮崎自身は「幕末だけでなく、上杉、加藤、保科と、鶴ヶ城をめぐる各時代の“時代劇散歩”をおいかけてゆきたい」[2]。と語り、歴史のロマンを語る、即ち「歴史」としてのロマンと地域の観光も含む「観光歴史」を語るようになる。

[編集] 脚注

  1. ^ 中村彰彦『保科正之―徳川将軍家を支えた会津藩主』中央公論社,1995年,ISBN-13: 978-4121012272
  2. ^ 宮崎十三八『私の城下町 会津若松』国書刊行会,1985年,ASIN: B000J6V8EC

[編集] 参考文献

  • 会津若松史 第7巻 近代 第2 会津若松史出版委員会∥編,(1967)

[編集] 関連項目

最終更新 2009年11月13日 (金) 01:38 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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