住田正二
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住田 正二(すみた しょうじ、1922年(大正11年)5月26日 - )は、日本の官僚。元運輸事務次官。元JR東日本社長。兵庫県神戸市生まれ、広島県広島市育ち[1]。
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[編集] 来歴
父は東京都副知事や呉造船所社長を務めた広島県呉市出身の海運研究学者・住田正一[2]。 広島高等師範附属中学(現・広島大学附属高校)-東京大学法学部卒業後、運輸省入省。1960年(昭和35年)に法政大学より法学博士の学位を取得。大臣官房長、鉄道監督局長等を経て、1978年(昭和53年)運輸事務次官に就任。
翌1979年(昭和54年)森山欽司運輸大臣と対立して退官。退官後は財団法人運輸経済研究センター理事長就任。1981年(昭和56年)第二臨調専門委員として国鉄分割民営化に尽力。また、社長候補として全日空に入社したが若狭得治会長と意見があわず退社。1983年(昭和58年)国鉄再建管理委員会、1986年(昭和61年)運輸経済研究センター会長を経て、1987年(昭和62年)JR東日本社長に就任。1993年(平成5年)同社会長、1996年(平成8年)同社最高顧問、2000年(平成12年)同社相談役。
[編集] 逸話
- 1981年(昭和56年)国鉄改革(分割民営化)問題では、第二臨調の主戦場だった三公社(国鉄、電電公社、専売公社)と特殊法人見直し問題を扱う第4部会の部会長代理として加藤寛会長をサポート[3]。後の日本道路公団民営化問題でも抵抗は激しく、キャピトル東急ホテルでの会合で、住田が加藤に助け舟を出そうとすると自民党道路族の議員から「役人は黙っていろ」と重い石の灰皿を投げつけられ、これ以来このホテルでは、議員の会合は軽いアルマイト製の灰皿に取り換えるようになったという[4]。
[編集] 略歴
- 1946年(昭和21年) 東京大学法学部政治学科卒業
- 1947年(昭和22年) 運輸省入省
- 1949年(昭和24年)9月20日 近畿海運局運航部港運課長
- 1952年(昭和27年)1月1日 運輸省港湾局港政課
- 1955年(昭和30年)8月1日 防衛庁防衛局第一課
- 1960年(昭和35年)3月31日 「船積貨物の受渡に関する研究――一般港湾運送事業者の責任を中心として」により法学博士(法政大学)
- 1960年(昭和35年)8月20日 関東海運局運航部長
- 1961年(昭和36年)7月15日 運輸省船員局労働基準課長
- 1963年(昭和38年)6月7日 運輸省海運局総務課長
- 1964年(昭和39年)7月16日 運輸省海運局外航課長
- 1966年(昭和41年)7月13日 運輸省航空局監理部監督課長
- 1968年(昭和43年)6月13日 運輸省大臣官房文書課長
- 1970年(昭和45年)6月19日 運輸省航空局監理部長
- 1972年(昭和47年)6月30日 運輸省鉄道監督局国有鉄道部長
- 1974年(昭和49年)6月7日 運輸省大臣官房長併任運輸研修所長
- 1975年(昭和50年)7月18日 運輸省鉄道監督局長
- 1978年(昭和53年)6月27日 運輸事務次官
- 1979年(昭和54年)7月27日 退官
[編集] 脚注
- ^ 住田は官僚時代に出版した書籍の著者略歴は全て広島県出身としていた(『船員法の研究』、成山堂書店、1973年、『港湾運送と港湾管理の基礎理論』、1967年他)。人名録では兵庫県とするもの(講談社『日本人名大辞典』、2001年、1027頁他)、広島県とするもの(平凡社『現代人名情報事典』1987年、1027頁他)があるが、東京都とするものがある(『鉄路に夢をのせて』、東洋経済新報社、1992年他)のは戦時中、本籍を呉市から東京に移したため(『鉄路に夢をのせて』、203頁)と思われる。
- ^ 神戸大学附属図書館 デジタルアーカイブ 【 住田文庫 】
- ^ 讀賣新聞、2007年2月19日9面
- ^ 讀賣新聞、2007年3月6日9面
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最終更新 2009年10月27日 (火) 05:40 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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