佐々木多門
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佐々木 多門(ささき たもん、慶応2年4月3日(1866年) - 昭和12年12月3日(1937年)は、日本の銀行家・経済学者。高橋是清や床次竹二郎の政策顧問を務める一方で、ロンドン・タイムス東京通信員(1921年 - 1937年)として数多くの記事を執筆した。
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[編集] 人物
第二高等学校(仙台二高、現在の東北大学)で教鞭をとっていた際、高橋是清にその経済に関する専門性と英語力を認められ、日本銀行に招き入れられる。高橋是清が第一次山本内閣で蔵相に就任してからは、その後およそ23年間にわたって私設顧問を務める。また、日本人として初めて海外主要紙の通信員(ロンドン・タイムス東京通信員)となり、日本の政治、経済に関する記事を世界へ発信した。特に満州事変以降、国際世論が日本に対して厳しい論調を強めていく中、紙面において切実な日本の立場を主張した。また、日増しに勢いを強めていく軍国主義勢力に対しては痛烈に批判を浴びせ、国内の良識人の意見を代弁した。当時、日本人の書いた記事が海外主要紙に掲載されることは極めて稀なことであったが、多門はロンドン・タイムスに自分のコラムを構え、実に16年の長きにわたって日本の実情を世界に伝えた。その英文は、英国人文学者をして「秀逸」と言わしめた。
[編集] 生い立ち
- 1866年(慶応2年):4月3日、青森県平内町小湊の山伏修験道「日光院」佐々木家の13代目として生を授かる。
- 1879年(明治12年):地元の公立小湊小学校を卒業する。青森県師範学校に入学する。
- 1881年(明治14年):青森県師範学校の校長・藤田勝利に才能を見いだされ、ともに上京する。
- 1884年(明治17年):麻布高等学校の前身である東洋英和学校に第一期生として入学する。
- 1886年(明治19年):麻布教会に於いて、小林光泰牧師から洗礼を受ける。
- 1891年(明治24年):帝国大学法科大学政治学科撰科を修了する。
- 1892年(明治25年):同志社普通学校で英語科及び歴史科の教授となる。カナダ・メソジスト教会の大演説家ジョージ・カックランの通訳を務める。山路愛山に依頼され、メソジスト紙“護教”に執筆する。
- 1894年(明治27年):宇佐八幡宮神職、清永公敬の令嬢・キミエと結婚する。奈良県尋常中学校で教員心得となる。
- 1897年(明治30年):沢柳政太郎に招かれ、第二高等学校(東北大学)の英語、経済学の教授となる。
- 1899年(明治32年):文部省において、「中等教育に経済学を設置すべし」の意見を述べるも退けられる。
- 1901年(明治34年):第二高等学校法学及経済科主任となる。フレデリック・アロー著『経済学教科論』と、リチャード・イーリー著『最近十年間に於ける経済学説』を編訳出版する。
- 1904年(明治37年):高橋是清に請われ、日本銀行検査局に特別採用となる。日本銀行の海外代理店監督役(ロンドン・ニューヨーク)の日本担当となる。
- 1907年(明治40年):日本銀行理事の木村清四郎とともにおよそ半年にわたって海外視察をする。アメリカではセオドア・ルーズベルト大統領と公式謁見を遂げる。『経済学派比較評論』を六盟館より上梓する。
- 1911年(明治44年):床次竹二郎の国際政治・経済の私設顧問に就任し、世間からは「床次の懐刀」と呼ばれる。
- 1912年(大正元年):床次とともに、神道、仏教、キリスト教関係者が一堂に会する三大宗派会同を実現する。
- 1913年(大正2年):高橋是清が蔵相に就任するとともに、高橋の国際政治・経済の私設顧問に就任する。
- 1915年(大正4年):「The Recent Economic Development of Japan」を上梓し、ロンドン・タイムスが「日本に関する最も有益且百科事典のような名著」という書評を載せる。
- 1921年(大正10年):日本人としては初めて海外主要紙の通信員(ロンドン・タイムス東京通信員=Our Tokyo Correspondent)となる。「日本銀行の沿革」を英文にて上梓する。
- 1923年(大正12年):関東大震災後、一戸兵衛と協力し、東京青森県人会から募った寄付金50万円を東京市に寄付する。
- 1926年(大正15年):日本銀行を退職するも、当面嘱託を受ける。高橋是清からは、私設顧問料として日銀在職時と同額の報料が支払われることとなる。
- 1927年(昭和2年):金融パニックに対応するために、高橋是清とともに連日対応策を練る。貴族院で法案が通過するように阪谷芳郎を説得する。
- 1928年(昭和3年):金融パニックの際の活躍が認められ、学士会の会長を務めていた阪谷芳郎の誘いで学士会会員となる。「論客」(阪谷氏の言葉)として名を馳せる。
- 1929年(昭和4年):ロンドン・タイムスに満州における日本の立場を掲載し始める。「Resource of Japan」が社説ページ主要欄に掲載され、反響を呼ぶ。
- 1931年(昭和6年):日本興業銀行の相談役となる。
- 1932年(昭和7年):前年の12月に蔵相として金輸出再禁止を決定した高橋是清とともに、その後の対応策を練る。この頃より、ロンドン・タイムス紙上で国家主義者や軍部を痛烈に批判するようになる。自宅周辺には常に陸軍関係者が張り付くようになる。
- 1937年(昭和12年):病気のためロンドン・タイムスの執筆を11月に中止する。12月3日、病気のために死去する。享年72歳。
[編集] 逸話
- 当時のロンドン・タイムスは世界で最も権威のあるクオリティー・ペーパーと評され、世界の言論界をリードしていた。若い頃からタイムスの愛読者だった多門は、誇りをもって執筆活動に取り組んだ。
- 高橋是清は、多門の論文がタイムスに掲載されるのを楽しみにしており、掲載後には必ず感想を寄せていた。
- 多門は紅茶を愛飲していた。よく「紅茶哲学」を講釈し、周囲からは「紅茶博士」とも呼ばれていた。
- 長男・高明は、童謡作家としてラジオ、新聞等で活躍していた。友人には童謡作家・野口雨情や詩人・吉井友海などがおり、たびたび作品交換していた。野口が個人的に高明に贈った作品は、今でも青森県平内町日光院に残っている。
- 自宅には、無求荘と呼ばれるおよそ1千坪からなる庭園があり、多くの学者や実業家、詩人などが集い、語らいの場としていた。
- 多門は、反目し合う高橋是清と床次竹二郎の間を取り持とうと努力するが、床次の度重なる心変わりに何度も煮え湯を飲まされた。
- 佐々木、高橋、床次は、それぞれ文箱を介して頻繁に手紙のやり取りをしていた。それらの文箱は現在も残されている。
[編集] 著作
- 『経済学教科論』(ウィスコンシン大学教頭博士リチャード・イーリー著、佐々木多門訳、1901年、東京吉川半七蔵版、絶版、国立国会図書館所蔵)
- 『最近十年間に於ける経済学説』(フレデリック・アロー著、佐々木多門訳、1901年、東京吉川半七蔵版、絶版、国立国会図書館所蔵)
- 『経済学派比較評論』(佐々木多門著、1907年、六盟館、絶版、国立国会図書館所蔵)
- 『The Recent Economic Deveopment of Japan』(The Bank of Japan、1915年)
- 『日本銀行の沿革(英語版)』(The Bank of Japan、1921年)
[編集] 参考文献
- 『日本銀行職場百年』上巻(昭和57年、日本銀行職場百年史編纂委員会)
- 『追憶』(大正9年、日本銀行調査局有志)
- 『若き明石・桜井成明』(川崎司著、1989年、弘隆社)
- 『ただ思うだに』(佐々木高明著、1932年、絶版)※佐々木高明は多門の長男
- 『父、倉永巍の手記』P37(倉永眞編註、1981年)
- 『The new chivalry in Japan: Methodist golden jubilee』(John W. Saunby、1895年、絶版、同志社大学所蔵)
- 護教40号、41号(1892年発行)
- 東京朝日新聞、経済面記事(1908年6月27日)
- 高橋是清書簡3通(佐々木多門宛、青森県平内町小湊日光院所蔵)
- the times "THE JAPANESE VIEW / VITAL CLAIMS IN MANCHURIA / A PLEA FOR PATIENCE"(ロンドンタイムズ、1932年12月1日記事)、"JAPAN IN MANCHUKUO"(ロンドンタイムズ、1934年9月14日記事)等、1920年から1937年にかけて東京通信員(Tokyo correspondent)の記事約70本
- 日本メソジスト時報、記事「佐々木多門氏を悼む」(1938年1月14日発行)
- その他多数
[編集] 外部リンク
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最終更新 2009年11月23日 (月) 01:31 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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