佐々木誠 (野球)

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佐々木 誠
基本情報
出身地 日本岡山県倉敷市
生年月日 1965年10月3日(44歳)
身長
体重
181cm
85kg
選手情報
投球・打席 左投左打
守備位置 外野手
プロ入り 1983年 ドラフト6位
初出場 1985年
最終出場 2000年
経歴(括弧内は在籍年)
選手歴
監督・コーチ歴

佐々木 誠(ささき まこと、1965年10月3日 - )は、元プロ野球選手外野手)。現役時代は南海ホークス・福岡ダイエーホークス西武ライオンズ阪神タイガースで活躍した。

目次

[編集] 来歴・人物

水島工業高校(岡山県倉敷市)時代は投手だったが、打者としての才能を見込まれて南海に入団。ドラフト6位入団ながら、2年目の1985年には早くも54試合に出場。その後も順調に成長を続け、日米野球本塁打を放った頃から「メジャーに一番近い男」と呼ばれるようになる。1989年からのホークス福岡移転後は、弱いチームでアクの強い選手が多い中、唯一スマートで三拍子揃った選手であったことから、福岡移転後初の「ミスターホークス」と呼ばれる選手となり、現在に至る九州・福岡でのホークス人気定着の礎を築いた功労者の一人である。

1991年に初の打率3割。1992年には首位打者盗塁王を獲得するなど、走攻守三拍子揃った外野手として活躍。パ・リーグを代表する選手となっていたが、1993年オフ、世紀の大トレードと呼ばれた大型トレードで村田勝喜橋本武広両選手とともに西武に移籍した。[1][2]

西武初期には主に3番として清原和博とSK砲を組み、優勝に貢献した後期には6番として活躍。1994年には盗塁王を獲得したが、1998年に腰痛などの故障の影響による衰えや、東尾修監督との確執もあり、1998年オフ、2億円を越えていた高額年俸がネックになり阪神に金銭トレードで放出された。このトレードにより、年俸は3分の1以下に削られている。

阪神・野村克也監督は「練習面などで若手の手本になる」と言う理由で獲得に動いている。濱中おさむらに熱心にアドバイスを送るなど実質コーチ兼任であった。選手としては持病の腰痛によって満足にバットを振れないことや、故障により俊足が衰えたことなどで往年の輝きは取り戻せず、2000年退団。
その後も現役の夢を捨てきれずメジャーリーグに挑戦。数球団から合格通知を受けたものの、ビザの関係で入団には至らず、独立リーグのソノマ・カウンティ・クラッシャーズに入団した。当時同チームではケビン・ミッチェル古賀英彦がコーチを務め、監督は元広島ティモシー・アイルランドであった。かつてからアメリカ志向であった佐々木は、「もっと早くこういう環境で野球がしたかったが、初めて野球をやった感覚でプレーしていた。1番楽しかった1年間だった」と語っている[3]

プロ野球マスターズリーグ(当時は大阪ロマンズ)参加中の2001年、完全引退を発表。その後、サンテレビ解説者、西日本スポーツ評論家、古巣・ダイエーの2軍コーチ、オリックスブルーウェーブコーチ及び同球団2軍サーパス神戸のコーチを務めた。2005年からはマスターズリーグ・福岡ドンタクズに移籍している。2006年からは西日本スポーツ評論家に復帰するとともに青島健太が監督を務めるセガサミー硬式野球部のコーチに就任し、2008年シーズンからは青島の監督退任に伴い、セガサミー2代目監督に就任。第79回都市対抗野球への出場を果たしている。2009年から九州朝日放送プロ野球解説者をつとめる。

[編集] エピソード

  • 一本足打法に変えたのは、バッティングコーチ竹之内雅史との議論の結果、やけくそで足を上げたのがきっかけであるという。やけくそで打ったその試合は4打数4安打1本塁打の大活躍だった。
  • 南海時代の背番号が0だった。当時は背番号0は珍しく、同じく0番の長嶋清幸(広島)、1番の愛甲猛(ロッテ)と3人でKDD国際電話(「001」がKDDの事業者識別番号)のTVCMに出演している。
  • 日米野球に強く、特に1988年のシリーズでは、翌年からダイエーの本拠地球場となる平和台球場での試合で、当時のメジャーNo.1投手であり、ワールドシリーズでMVPを受賞したオーレル・ハーシハイザーから劇的なHRを放ち、グレッグ・マダックスから二塁打を放つなど打棒を爆発させた。このことからアメリカ側の選手達から「連れて帰りたい」と言われ、そのことが「メジャーに一番近い男」と呼ばれるきっかけとなった。モントリオール・エクスポズから高額オファーがあったが、当時、子供がまだ幼稚園児であったため断念する。
  • 南海ホークスが福岡に移転し福岡ダイエーホークスが誕生した際に(1989年3月)博多駅の井筒屋の壁面に、同僚の将来のエース候補で先発ローテーションピッチャーとして頭角を表しつつあった(同い年で同期入団)加藤伸一と共に「福岡の、新しい顔です」というコピーと共に2人の新球団の真新しいユニフォームに身をつつんだ大きな全身写真の垂幕が飾られ、九州の玄関口の博多駅前の通行人に絶大なインパクトを与えていた。
  • 1992年の対西武戦(平和台球場)において、レフトに打った打球がワンバウンドした後で外野フェンスと上部の金網部との間に挟まってしまい、左翼手(安部理)が嵌った打球の処理にまごつく間に3塁まで激走したものの、打球がボールデッドになったという判定で2塁に戻るよう塁審から指示が出され、思わず3塁ベース上でへたり込んだ。このプレーは、塁審が両手の指で2塁打を示すピースのポーズと相まって、「プロ野球珍プレー・好プレー大賞」でもよく流された。
  • 1993年に行われたファン感謝デーでは、最後の球場一周の際に隣を歩いていた藤本博史のグラウンドコートをスタンドに投げ込んだ。焦る藤本に対して佐々木は「どうせトレード要員なんやからこんなん要らんでしょ」と言い放ったが、皮肉にもその2日後、佐々木の方がトレードでホークスを去ることになった(プロ野球aiの記事より)。
  • 西武ライオンズへのトレード成立後、急遽ライオンズカレンダーの写真モデルに起用され、村田と共に背番号のないユニフォームを着て撮影に臨んだ。
  • バッターボックスに入る時の自分のテーマ音楽に自らの希望で「デビルマン」を選択した。
  • ホークス時代の応援歌は「打て佐々木ホームラン、打て我らの核弾頭(=1番打者)」だが、長打力を買われて3番打者として起用されることも多かった。
  • ライオンズ時代、森監督は佐々木加入直後は1番辻発彦、2番に佐々木という布陣で「辻の出塁を機に佐々木の長打でチャンスを拡大し、あわよくば得点を狙う」といった構想をたてた。この構想は、バントの名手として知られた平野謙が佐々木加入と入れ代わりに千葉ロッテマリーンズに移籍したため、「辻が出塁して平野が送る」という従来の攻撃パターンを修正することを迫られたためである。実際には佐々木が2番を打つ試合は数試合のみで、辻を1番に置き一人おいて3番の佐々木というオーダーが定着する。佐々木は自らを「猪突猛進型」と語っており、最適の打順は1番だと考えていたようである。
  • 東尾監督時代は、5番から7番を打つことが多くなった。

[編集] 年度別打撃成績

  • 表中の太字はリーグ最高
年度 チーム

試合 打数 得点 安打 二塁
三塁
本塁
塁打 打点 盗塁 犠打 犠飛 四死
三振 打率(順位)
1984年 南海
ダイエー
57 1軍出場なし
1985年 54 103 19 30 5 0 2 41 15 5 1 2 8 21 .291
1986年 79 160 14 26 3 1 2 37 4 5 5 1 16 43 .163
1987年 0 125 451 67 130 22 2 11 189 33 15 7 2 39 72 .288(9)
1988年 97 373 55 106 14 1 16 170 58 13 5 5 28 59 .284(15)
1989年 3 124 489 63 115 20 1 15 182 45 12 9 2 42 97 .235(33)
1990年 130 516 69 141 33 4 14 224 52 19 13 4 36 76 .273(16)
1991年 130 519 82 158 32 7 21 267 71 36 3 0 52 64 .304(4)
1992年 126 509 83 164 26 2 21 257 54 40 2 2 35 64 .322(1)
1993年 113 444 38 123 24 1 7 170 41 23 3 3 38 84 .277(9)
1994年 西武 1 126 527 92 150 23 1 20 235 84 37 2 4 35 85 .285(12)
1995年 130 535 63 145 27 2 17 227 55 18 3 1 40 89 .271(11)
1996年 105 374 33 91 11 0 9 129 40 7 9 2 30 56 .243(30)
1997年 121 450 56 137 26 1 13 204 57 5 3 1 26 77 .304(8)
1998年 75 251 17 65 8 0 1 76 21 6 1 1 18 30 .259
1999年 阪神 8 30 55 3 15 5 1 1 25 6 1 0 0 3 12 .273
2000年 16 19 1 3 0 0 0 3 2 0 0 0 1 4 .158
通算成績 1581 5775 755 1599 279 24 170 2436 638 242 66 30 447 933 .277

[編集] タイトル・表彰

  • 首位打者 (1992年)
  • 盗塁王:2回 (1992年、1994年)
  • ベストナイン:4回 (1991年~1994年)
  • ゴールデングラブ賞:4回 (1991年~1994年)
  • オールスターゲーム出場:6回 (1988年、1991年~1995年)
  • 通算1000試合出場 1994年5月4日(317人目)

[編集] 背番号

※ダイエー発足時のユニフォーム発表時に、0番のユニフォームを着用したが、その後すぐ3番に変更し、0番は坂口千仙に譲渡した。

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

  1. ^ 1993年当時の秋山幸二は、一時は40本塁打40盗塁を期待されたものの、成績は打率2割5分、本塁打は30本前後に停滞し5番6番を打つことが多くなっていた。そのためファンからは、「世紀のトレード」が発表された直後「森祇晶監督との確執」も叫ばれるほどであった(後年互いにそれを否定)。3対3のトレードの主役は西武側が秋山、ダイエー側は秋山と同ポジションで28歳と働き盛りであり、3割20本20盗塁を安定して期待できる佐々木と、(西武では結果的に活躍できなかったが)若きエース村田勝喜であり、トレード発表の直後、メディアには「圧倒的ダイエー不利」の文字が躍った。
  2. ^ 佐々木自身は前年に福岡に新居を構え、翌年から選手会長に就任する予定になっていたなど、福岡に愛着があったとされる。放出となった際、当時の中内功オーナーから「配置転換だと思って、西武でも頑張って欲しい」と労いの言葉をかけられた。トレード移籍する選手にオーナーが直々に言葉をかけることは当時異例だったこともあって、佐々木他2選手も感激したが、実際は中内オーナーにもこのトレードのことが決定まで知らされていなかった。このトレードは、根本陸夫監督主導(根本は当時、球団の代表取締役専務も兼任していた)による完全なる密室トレードであり、だからこそ、佐々木と秋山幸二といった「スター選手同士」のトレードが成功したと言っていいだろう。
  3. ^ 翌年も同チームでのプレー続行を最後まで悩み、古賀から「お前がもし来年もここでプレーしたいのなら俺も付き合うぞ。日本の家族への仕送りが心配なら、一緒にぶどう畑をたがやしながらプレーしようや」と言われたこともあったが、結果日本に帰ることになった。

[編集] 外部リンク

佐々木誠・プロフィール

最終更新 2009年11月24日 (火) 22:04 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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