佐々木道誉

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佐々木導誉/京極導誉
佐々木導誉像
時代 鎌倉時代末期 - 南北朝時代
生誕 永仁4年(1296年
死没 応安6年/文中2年8月25日
1373年9月12日
改名 高氏、峯方、導誉(道誉)
別名 四郎、佐渡判官
戒名 勝楽寺殿徳翁
官位 左衛門尉検非違使、佐渡守
幕府 鎌倉幕府 御相供衆
室町幕府 引付頭人評定衆政所執事
近江飛騨出雲若狭上総摂津守護
主君 北条高時足利尊氏
氏族 宇多源氏佐々木氏京極氏
父母 佐々木宗氏佐々木宗綱
佐々木貞宗
兄弟 貞氏高氏、貞満、秀信、時満、経氏
正室:二階堂時綱娘、きた、みま
秀綱、秀宗、高秀
  

佐々木 導誉(ささき どうよ)/京極 導誉(きょうごく どうよ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代武将。導誉は法名で、高氏(たかうじ)。一般的に「佐々木佐渡判官入道(佐々木判官)」や「佐々木道誉」[1]の名で知られる。官位左衛門尉検非違使、佐渡守など。

近江国地頭である佐々木京極家に生まれ、執権北条高時御相供衆として仕える。後醍醐天皇の綸旨を受け鎌倉幕府を倒すべく兵を挙げた足利尊氏に従い、武士の支持を得られなかった後醍醐天皇の建武の新政から尊氏と共に離れ、尊氏の開いた室町幕府において政所執事や六ヶ国の守護を兼ねた。

ばさらと呼ばれる南北朝時代の美意識を持つ婆沙羅大名として知られ、『太平記』には、謀を廻らし権威を嘲笑し粋に振舞う、導誉の逸話を多く記している。

目次

[編集] 生涯

[編集] 御相供衆

永仁4年(1296年)、近江国地頭である佐々木京極氏に生まれ、1304年に外祖父である佐々木宗綱の後を継いで家督を継承する。1314年に左衛門尉、1322年(元亨2年)には検非違使となる。検非違使の役目を務めて京都に滞在していたと考えられており、後醍醐天皇の行幸に随行している。鎌倉幕府では北条高時御相供衆として使え、高時が出家した際には供に出家して導誉と号した。

[編集] 倒幕

1331年に後醍醐天皇が討幕運動を起こし、を脱出して笠置山に拠った元弘の乱では幕府が編成した鎮圧軍に従軍し、主に京都において事後処理を担当している。捕らえられた後醍醐天皇は廃され、供奉する阿野廉子千種忠顕らが隠岐島へ配流された際には道中警護などを務める。後醍醐配流後も河内国楠木正成らは反幕府活動を続けて幕府軍と戦い、北条氏が下野国足利尊氏(高氏)らを討伐に派遣するが、導誉は鎌倉の北条氏討伐を決意した尊氏と密約して連携行動を取ったともされ、軍事的行動に参加した形跡は無いが、1333年5月9日、近江国番場で東国へ退却中の北条仲時の軍勢を阻み、蓮華寺で一族432人と共に自刃させた。その際光厳天皇花園上皇を捕らえ、天皇から三種の神器を強奪している。足利尊氏、上野国新田義貞らの活躍で鎌倉幕府は滅亡し、入京した後醍醐天皇により建武の新政が開始されると、雑訴決断所の奉行人となる。

[編集] 南朝との戦い

尊氏が政権に参加せず、武士層の支持を集められなかった新政に対しては各地で反乱が起こった。1335年には、信濃において高時の遺児である北条時行らを擁立した中先代の乱が起こり、尊氏の弟の足利直義が守る鎌倉を攻めて占領した時行勢の討伐に向かう尊氏に導誉も従軍している。時行勢を駆逐して鎌倉を奪還した尊氏は独自に恩賞の分配を行うなどの行動をはじめ、導誉も上総国や相模国の領地を与えられている。後醍醐天皇は鎌倉の尊氏に対して上洛を求めるが新田義貞との対立などもありこれに従わず、遂には義貞に尊氏・直義に対する追討を命じた綸旨が発せられるが、建武政権に対して武家政権を樹立する事を躊躇する尊氏に導誉は積極的な反旗を勧めていたともされる。尊氏は箱根・竹下の戦いなどで新田軍を破り京都へ入るが、奥州から下った北畠顕家らに敗れた足利勢は一時的に兵庫から九州へ逃れた。このとき導誉は近江に滞在して九州下向には従っていないともされる。

九州から再び東上した足利勢は湊川の戦いで新田・楠木軍を撃破して京都へ入り、光明天皇が即位して北朝を成立させ武家政権(足利幕府、室町幕府)を樹立し、後醍醐らは吉野へ逃れて南朝を成立させる。

[編集] 足利幕府

導誉は近江・飛騨出雲若狭上総摂津の守護を歴任した。1337年勝楽寺(現滋賀県甲良町)に城を築き、以降没するまで本拠地とした。1340年には子の秀綱とともに白川妙法院門跡亮性法親王の御所を焼き討ちし、山門宗徒が処罰を求めて強訴すると朝廷内部でもこれに同情して幕府に対して導誉を出羽国に、秀綱を陸奥国配流するように命じた。ところが、幕府では朝廷の命令を拒絶、結果的に導誉父子は上総国に配流[2]となるが、その後幕政に復帰している。幕府においては導誉は引付頭人、評定衆や政所執事などの役職を務め、公家との交渉などを行っている。また、1348年(正平3年/貞和4年)の四條畷の戦いなど南朝との戦いにも従軍している。

足利幕府の政務は将軍尊氏と弟の直義の二頭体制で行われていたが、両者の関係の悪化により1350年からの観応年間には観応の擾乱と呼ばれる内部抗争に発展する。導誉は将軍尊氏側に属したが、南朝に属し尊氏を撃破した直義派が台頭すると、尊氏に南朝と和睦して後村上天皇から直義追討の綸旨を受けるよう進言する。尊氏がこれを受けた結果正平一統が成立し直義は失脚、急逝する。正平一統は北朝上皇が南朝に奪われて破綻すると後光厳天皇を擁立しての北朝再建、将軍権力の強化に尽力する。1358年に尊氏が薨去し、子の2代将軍足利義詮時代の室町政権においては政所執事などを務め、幕府内における守護大名の抗争を調停し、一方で幕府執事(のちの管領職)の細川清氏斯波高経斯波義将親子の失脚には積極的に関与する。また、南朝とのパイプを持ち交渉も行い、1367年に幕府が関東統治のために鎌倉に設置した鎌倉公方足利基氏が卒去すると、鎌倉へ赴いて事後処理を務める。同年には導誉の推薦を得た細川頼之が管領に就任する。1373年に卒去、享年78。戒名は勝楽寺殿徳翁。

墓所は京極氏の菩提寺である滋賀県米原市清滝の徳源院、滋賀県甲良町の勝楽寺。

[編集] 人物

導誉は南北朝時代の社会的風潮であるばさらを好んだとされ、古典『太平記』においては下克上的風潮には批判的であるが、失脚した細川清氏が南朝の楠木正儀らと京都を占拠した際には、自邸に火をかけずに立花を飾り、宴の支度をさせた事や、幕府内で対立していた斯波高経の花見の誘いを無視し、大原野(京都市西京区)で大宴会を催した事など導誉の華美な行動が記されている。

また和歌連歌などの文芸や立花茶道香道、さらに近江猿楽の保護者となるなど文化的活動を好み、幕政においても公家との交渉を務めていることなどから文化的素養を持った人物であると考えられている。連歌師の救済関白二条良基が撰した『莵玖波集』には数多くの作品が入集している。

皇族・公家に対しても人を食った態度や木で鼻をくくる態度を取ることもあり、変わり者であることは否めない。

肖像画
三男の高秀が描かせたといわれる法体の肖像画が滋賀県甲良町勝楽寺にあり、現在は京都国立博物館に保管されている。

[編集] 系譜

京極宗氏
京極宗綱
義父
京極貞宗
兄弟
京極貞氏
京極導誉
京極貞満
京極秀信
京極時満
京極経氏
二階堂時綱娘
きた
みま
京極秀綱(母不詳)
京極秀宗(母二階堂時綱娘)
京極高秀
赤松則祐
斯波氏頼
六角氏

[編集] 脚注

  1. ^ 自署は「導誉」であるが、同時代の文書に「入道々誉」と記されたものが多いため。
  2. ^ 羽下徳彦によれば、上総国は建武年間に高師直が守護を務め、正平年間に導誉とともに流された息子・秀綱が守護を務めているが、導誉配流期の守護については記録に残っていない。このため、佐々木氏による上総守護の上限が正平年間以前であったことも考えられ、実は導誉父子は流刑と銘打って自分の領国に帰されただけであった可能性があるという。

[編集] 関連書籍

  • 渡辺守順 『京極道誉 バサラ大名の生涯』(新人物往来社)
  • 北方謙三 『道誉なり』(中央公論新社)
  • 羽生道英 『佐々木道誉』(PHP研究所)
  • 林屋辰三郎 『佐々木道誉 南北朝の内乱とばさらの美』(平凡社)
  • 山田風太郎 『婆沙羅』(講談社)
  • 森茂暁 『佐々木導誉』(吉川弘文館)

[編集] 関連項目

先代:
佐々木宗綱
佐々木氏 (京極家)歴代当主
佐々木導誉
次代:
佐々木高秀

最終更新 2009年12月2日 (水) 04:13 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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