佐東銀山城

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佐東銀山城
広島県
佐東銀山城遠景
佐東銀山城遠景
通称 銀山城、金山城
城郭構造 連郭式山城
天守構造 なし
築城主 武田信宗
築城年 不明
主な城主 安芸武田氏毛利氏
廃城年 1600年(慶長5年)
遺構 曲輪、堀切、石垣、井戸
指定文化財 県史跡
  

佐東銀山城(さとうかなやまじょう)は、安芸国佐東郡(現在の広島市安佐南区)にあった山城である。

目次

[編集] 沿革

1221年(承久3年)の承久の乱の後、恩賞として安芸国佐東郡を得た、武田氏当主・武田信光は、この武田山の麓に守護所を建て、安芸国佐東郡の経営に乗り出した。しかし、時代が下り、元寇や幕末の政情不安によって戦乱の雰囲気が高まると、所領の防衛に適した地に城郭を構える必要に迫られ、安芸国に下向した武田氏の当主・武田信宗によって、鎌倉時代末期に建てられたとされる。

室町期には、安芸国へと進出を図る周防国戦国大名大内氏との激闘の舞台となり、幾度と無くこの城を巡って攻防戦が繰り広げられた。

1517年永正14年)、安芸武田氏当主・武田元繁は、毛利氏の西隣の吉川氏を攻めた。元繁は安芸国有田にて、毛利元就率いる毛利軍と吉川軍と安芸武田軍は戦い、この戦いで元繁は討死を遂げ、これ以降武田氏は弱体化に歯止めがかからなくなった。

1541年(天文10年)、吉田郡山城の戦いにて、尼子軍が敗北。同年、銀山城を攻めて攻略した。この時、元就は、夜間に火を点けた草鞋(わらじ)千足を太田川に流し、佐東銀山城に籠る武田氏に動揺を与えたという伝承がある(この伝承を裏付けるように、広島市東区戸坂町の太田川の川岸には、「千足」の地名が現在も残っている)。

1551年天文20年)毛利元就は「厳島の戦い」の前哨戦として、佐東銀山城を攻略。

以後、銀山城は関ヶ原の戦いまで毛利氏の支配下に置かれた。毛利元就の隠居城として使う予定があったものの、現実にそれが実行されることはなかった。後に広島城が築かれると、その重要性は低下して、毛利氏が「関ヶ原の戦い」後に移封されると廃城となった。

[編集] 逸話

安芸武田氏滅亡の際、残党が再起するための資金として、武田山中の洞窟に先祖伝来の純金の茶釜を埋め、目印として白南天を植えたという伝説が残っている。元々この山は金銀を産出したとされ、「銀山」の名もこれに由来するものだと言われている。奇しくも武田山の真北には、かの石見銀山が位置しており、また真南には、武田氏が甲斐より勧請した宇品・神田神社が位置している(当初は東区。戦中、軍用地として徴用され、現在地に移転)。

現在、この山城の登山道口には広島経済大学広島県立祇園北高等学校がある。 なお、祗園北高校の校章には武田菱があしらわれている。

[編集] 略年譜

[編集] 関連項目

最終更新 2009年6月13日 (土) 16:04 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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