佐藤次郎

佐藤次郎の最新ニュースをまとめて検索!

佐藤次郎

佐藤 次郎さとう じろう, 1908年明治41年)1月5日 - 1934年昭和9年)4月5日)は、群馬県北群馬郡長尾村(現渋川市)出身の男子テニス選手。旧制渋川中学校(現渋川高等学校)、早稲田大学卒業。1930年代前半に日本の男子テニス選手として空前絶後の世界的な活躍を残し、当時の世界ランキング3位にまで登り詰めたが、そのキャリアの途上で自らの命を絶った伝説の名選手である。

佐藤は4大大会で通算「5度」ベスト4に勝ち残ったが、これは現在に至るまで日本テニス史上の最多記録として残っている。1990年代に日本女子選手として世界的な活躍をした伊達公子でも「3度」であった。(伊達のベスト4進出記録:1994年全豪オープン1995年全仏オープン1996年ウィンブルドン)男子国別対抗戦・デビスカップでも際立った成績を残した。

目次

[編集] プレースタイル

佐藤次郎のテニスは粘り強いフットワークを最大の持ち味とし、フランス人選手アンリ・コシェのプレースタイルから大きな影響を受けた。モーリス・ブレディ編の『ローンテニス百科事典』(英語、1958年刊)が彼のプレーぶりを最も詳しく伝えているが、本書の118-119ページによれば、彼はフォアハンド・ストロークを早いタイミングで打ち、両足でジャンプすることもあったほどだという。鋭いボレーを、ベースラインから打つこともあり、攻撃のタイミングを見計らう試合巧者でもあった。いかつい容姿から、世界のライバル選手たちからは“ブルドッグ佐藤”と呼ばれた。

[編集] 世界トップ選手への道

1930年昭和5年)の全日本テニス選手権でシングルス優勝。1931年からデビスカップの日本代表となる。この年の全仏選手権で初の4大大会準決勝に進出し、世界ランキング9位に入る。この大会では、当時の男子テニス界でダブルスの第一人者だったジョン・バン・リンアメリカ)を準々決勝で破った。1932年昭和7年)、ウィンブルドン選手権大会の準々決勝で前年優勝者のシドニー・ウッドアメリカ)を破り、世界のテニスファンを驚嘆させた。続く準決勝で敗れた相手は、イギリスバニー・オースチン(フルネームは「ヘンリー・ウィルフレッド・オースチン」“Henry Wilfred Austin”というが、通称の“Bunny Austin”で呼ばれることが多い)であった。この年は年末の全豪選手権でも、シングルスでハリー・ホップマンとの準決勝まで進み、混合ダブルスではメリル・オハラウッド(パット・オハラウッドの夫人)とのペアで準優勝を記録した。

1933年昭和8年)は日本テニスの歴史を通じて、最も輝かしい記録が生まれた年になる。佐藤は全仏選手権ウィンブルドン選手権の2大会連続でベスト4に進出し、とりわけ全仏選手権の準々決勝でイギリスの英雄フレッド・ペリーを破った。ペリーは今日に至るまで“イギリスのテニスの神様”として祭り上げられている名選手である。そのペリーを破ったことで、佐藤の世界的な評価はさらに高まった。ウィンブルドンのダブルスでは布井良助神戸高商卒)とペアを組んで決勝に進み、フランスジャン・ボロトラジャック・ブルニョン組から第1セットを奪った。(ボロトラ&ブルニョンのペアは当時世界最強のダブルスで、佐藤&布井ペアを破ってウィンブルドン・ダブルス2連覇を達成している。彼らは当時のフランスのテニス界で「四銃士」と呼ばれた強豪選手だった。)この年はデビスカップの対オーストラリア戦で、当時の世界ランキング1位であったジャック・クロフォードを破ったが、本人はシングルス第2試合で当時17歳のビビアン・マグラスに敗れたことから、日本チームが2勝3敗で敗退したことで深い精神的なショックを受けた。全米選手権には1932年1933年の2度出場しているが、こことは相性が悪く、4回戦止まりで終わっている。

当時の男子テニス世界ランキングは、イギリスの『デイリー・テレグラフ』紙の評論家であったウォリス・マイヤーズ(Wallis Myers)が選んでいたもので、現在のようなポイント制とは大きく異なっていたが、1933年度の1位はジャック・クロフォード、2位はフレッド・ペリーで、佐藤は彼らに続く第3位にランクされた。佐藤などの活躍を受けて、日本でも1933年10月に「テニスファン」という月刊雑誌が創刊されるまでになった。この雑誌は、夏目漱石の娘婿である松岡譲が創刊したものである。ところが1933年10月後半から、佐藤の健康状態に異変が見え始める。彼は海外遠征に出始めた頃から、慢性の胃腸炎に悩まされてきた。しかし彼は日本のエースとしての責任感が強く、無理を押して試合出場を続行した。日本庭球協会で主導権争いをしていた早稲田派幹部からのプレッシャーも大きく、当時「デビスカップ選手派遣基金」を募集するにあたり、佐藤は必要不可欠な存在であったので、どうしてもデ杯出場を辞退することができなかったのである。

[編集] 投身自殺

1934年昭和9年)2月、佐藤は「テニスファン」記者の1人であった岡田早苗との婚約を発表した。この年の3月20日、佐藤はデビスカップの日本チーム主将として「箱根丸」でヨーロッパ遠征に出発するが、その帰途にあった4月5日に、マラッカ海峡にて投身自殺を遂げた。まだ26歳の若さだった。箱根丸の彼の船室には、数通の遺書が残されていた。ペリーやクロフォードなど、当時の男子テニス界の頂点にあった選手たちと互角に戦ってきた佐藤の突然の死は、世界のテニスファンにも大きな衝撃を与えた。5月6日、早稲田大学のテニスコートで日本庭球協会主催の慰霊祭が開かれた。

佐藤次郎はテニスについて「庭球は人を生かす戦争だ」という持論を語っていた。このような考え方は、1930年代の日本人の大半が持っていたものである。オーストラリアのテニス・ジャーナリスト、ブルース・マシューズは自著『ゲーム・セット・栄冠-オーストラリア・テニス選手権の歴史』(全豪オープンの歴史書)の20ページで、「当時の観客は(佐藤の試合を通して)生死をかけた闘いを見ていることに気づかなかった。(今となっては)探り得ない佐藤の心は(5度の準決勝敗退を)天皇と日本国民を失望させる、耐え難い屈辱とみなした」と詳しい説明を述べている。

現在に至るまで、日本の男子テニス界から世界レベルに近づいた選手は少なく、世界ランキング3位にまで登り詰めた佐藤はますます遠い伝説の存在になっている。

[編集] 佐藤次郎を扱った作品

佐藤次郎の生涯を扱った作品については、深田祐介著のノンフィクション『さらば麗しきウィンブルドン』(文芸春秋社)が最もよく知られている。集英社の「ヤングジャンプ・コミックス」で発刊された漫画作品『栄光なき天才たち』の単行本第17巻で読むこともできる。

[編集] 主な成績

[編集] シングルス準決勝の成績

[編集] 外部リンク

[編集] 参考文献

  • 深田祐介著『さらば麗しきウィンブルドン』(文芸春秋、1985年刊、ISBN 4163400400
  • 日本テニス協会発行『テニス・プレーヤーズ・ガイド』 2006年版(179ページより、4大大会成績表を参照)
  • Maurice Brady, “The Encyclopedia of Lawn Tennis”(ローンテニス百科事典) Robert Hale Ltd., London (1958 Ed.) 本書からは118-119ページを参照した。
  • Bruce Matthews, “Game, Set and Glory: A History of the Australian Tennis Championships” (ゲーム・セット・栄冠-オーストラリア・テニス選手権の歴史) The Five Mile Press, Victoria, Australia (1985) ISBN 0-86788-078-3 本書からは20ページを参照した。

最終更新 2009年5月12日 (火) 10:04 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【佐藤次郎】変更履歴

ご利用上の注意

もっと調べる!