佐藤琢磨
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| 佐藤 琢磨 | |
|---|---|
2005年F1アメリカGP
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| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | 東京都新宿区 |
| 生年月日 | 1977年1月28日(32歳) |
| F1での経歴 | |
| 車番 | - |
| 所属チーム | - |
| 活動時期 | 2002 - |
| 過去の所属チーム | '02ジョーダン '03~'05B・A・R '06~'08スーパーアグリ |
| 出走回数 | 91 |
| 優勝回数 | 0 |
| 通算獲得ポイント | 44 |
| 表彰台(3位以内)回数 | 1 |
| ポールポジション | 0 |
| ファステストラップ | 0 |
| F1デビュー戦 | 2002年オーストラリアGP |
| 初勝利 | - |
| -年順位 | -位(-ポイント) |
| タイトル | 0 |
| (記録は2008年第4戦終了時) | |
佐藤 琢磨(さとう たくま、1977年1月28日 - ) は、東京都新宿区生まれの元F1ドライバー。日本人。身長164cm、体重59kg。20歳からレーシングカートを始めた。
「琢磨」と下の名前で呼ばれる事が多い。英語圏での愛称は"Taku"。血液型はRH+ A型。早稲田大学人間科学部中退。
目次 |
[編集] プロフィール
[編集] デビュー
和光学園高等学校卒業後、早稲田大学人間科学部スポーツ科学科に入学。10歳の時に鈴鹿サーキットで初めてF1を観戦したことからモータースポーツに対して強い憧れを抱きつつも、19歳までは自転車競技に身を投じていた。インターハイ制覇、大学選手権優勝などの記録を残している。
1996年、ホンダと鈴鹿サーキットがフォーミュラカーを用いたレーシングスクール、鈴鹿サーキット・レーシング・スクール・フォーミュラ(SRS-F)を設立したことを知ると、モータースポーツの世界に飛び込むことを決心。大学を休学してまずはカートを始め、モータースポーツ歴わずか半年で、選抜方法を変えさせてまでして[1]競争率10倍の難関を突破してSRS-Fへ入学した。時には講師陣さえ上回る速さを披露し、1997年首席で卒業。
[編集] 全日本F3選手権
前年のSRS-Fを首席で卒業して獲得したスカラシップにより1998年は名門チームの無限×童夢プロジェクトから全日本F3選手権へのデビューを果たしたが、わずか2戦に参戦したのみでスカラシップを放棄しモータースポーツの本場・ヨーロッパのレースに参戦すべくシーズン半ばに渡英した。これについて佐藤は後に「F1ドライバーを目指す上で最短の道を選択した」と語っている。
ただし渡英当時、佐藤は日本で道路交通法違反による免許停止[2]処分を受けていて、モータースポーツライセンスの前提として有効な運転免許の所持を要求する日本自動車連盟(JAF)管轄下のレースに出走することができなくなっていたとされる[3]。このため「佐藤がレース活動を継続するためには海外のレースに活路を求めるしかなかった」と指摘する関係者も多い。
[編集] イギリスF3選手権
イギリスでは、F1関係者も注目するイギリスF3で失敗すれば二度と取り返すことができないと考え、まずはF3より格下のジュニア・フォーミュラであるフォーミュラ・ボクスホールJr.にダイヤモンド・レーシングより参戦し、その後に満を持してカーリン・モータースポーツより2000年と2001年にイギリスF3選手権にフル参戦。
2000年前半はミスやクラッシュが目立っていた。また、チームのミスもあり冴えない結果に。しかし、スタートとタイヤが冷えた状態やウェットコンディションでのドライビングは他のドライバーを圧倒する場面も見られた。(2000年マカオGP初日ウエット状態でのフリー走行で2位以下を2秒引き離してのトップタイムをマークした。予選2位、決勝リタイア)2000年の後半は2000年王者であるアントニオ・ピッツォニアをも引き離し、結果、2000年度イギリスF3においてシリーズ3位でシーズンを終えた。また、英オートスポーツ誌で2000年度最速ドライバーとして評価されるなどして、2001年イギリスF3チャンピオン最有力候補とされた。
2001年には前評判通り日本人初のイギリスF3チャンピオンを獲得し、国際F3レース(マールボロマスターズ、マカオGP)も制してF3ドライバーとして世界の頂点を極めた。 また英オートスポーツでF3、2シーズンでイギリスF3+国際F3+スポット参戦フランスF3の通算19勝を挙げて、F3史上最も成功したドライバーとして紹介された。
[編集] F1
[編集] ジョーダン・ホンダ
[編集] 2002年
2001年10月に、ジョーダンのレギュラードライバーとして2002年シーズンのF1に参戦することが決定し、史上7人目の日本人フルタイムF1ドライバーとなった。初めてレーシングカートに乗ってから僅か5年でF1のシートを獲得するのは奇跡に近い快挙であると言われたが、資金不足に悩むジョーダンチームではシーズン中のテストもままならず、加えてクラッシュやアクシデントも多かった。F1デビューを飾った開幕戦、メルボルンで行われたオーストラリアGPでは、フリー走行中のクラッシュに加え、予選中もマシントラブルや天候悪化などに見舞われてまともな走行ができず、当時の予選通過基準であったポールポジションタイムの107%以内のラップタイムを満たすことができなかったが、事実上アタックできなかったのと同じであると判断され、フリー走行のタイムを基に決勝出場は認められた。
1年目のシーズンはけっして順風満帆と呼べるものではなかったが、日本GPで予選7位、決勝5位の成績を残し、2002年唯一のポイントを獲得した。シーズン終了後、ホンダが翌年のエンジン供給をB・A・Rのみに絞ることを発表したことから、ジョーダン・グランプリはホンダエンジンを使えなくなった。よってジョーダンは琢磨を起用する必要がなくなり放出。わずか1年でレースドライバーからの離脱を余儀なくされた。
[編集] B.A.Rホンダ
[編集] 2003年
2003年シーズンは、翌2004年以降のレギュラー・ドライバー昇格のオプション付でリザーブ兼テスト・ドライバーとしてB・A・Rホンダに移籍。リザーブドライバーの立場ではレースチームに全戦に帯同し、レースの合間にはテスト走行をこなすこととなった。最終戦日本GPでは、翌年のシートを失うことが確実になっていたレギュラー・ドライバーのジャック・ヴィルヌーヴがモチベーションを失って急遽参戦を取り止めたために代役で出走。約1年ぶりの実戦となったが、6位入賞を果たす。この入賞で獲得した3ポイントによってB.A.Rはコンストラクターズランキングでザウバーを逆転した。また、この年にはF1以外の活動として、自転車選手だった経歴を活かして「ツール・ド・フランス」の一般参加部門である「エタップ・ド・ツール」にもゲストとして出場している(アキレス腱痛により途中リタイア)。
[編集] 2004年
2004年はB.A.Rのレギュラードライバーに昇格。この年のB.A.Rのマシン「006」が速さを見せたこともあり、ヨーロッパGPで日本人初のセッションリーダー(予選1回目)、フロントロー獲得、ラップリーダーを記録、さらにアメリカGPで日本人最高位タイの3位フィニッシュを果たした。しかしシーズンを通してトラブルが連続するという不運や自身のミスも多く、チームメイトのジェンソン・バトンは表彰台に10回上ったのに対して、琢磨は1度のみ。獲得ポイントではバトンの85ポイントに対し琢磨は34ポイントに留まった。
[編集] 2005年
この年にイギリスからモナコに移住した。 このシーズンは前年とは打って変わって苦難の連続であった。開幕のオーストラリアGPでは最後尾スタートから決勝14位に留まり、巻き返しを期したマレーシアGPではウィルス性の発熱により欠場の憂き目にあった。第4戦サンマリノGPでは5位入賞でシーズン初ポイントを獲得したはずがマシンの重量不足でレギュレーション違反の裁定を下されリザルトを取り消された。加えてB.A.RはスペインGP、モナコGPの2レースの出場停止処分を科されたため、ほとんどまともにレースができないままシーズン序盤を浪費してしまった。後半になっても調子は戻らず、最終的にドライバーズポイントはバトンの37ポイントに対してハンガリーGPでの8位入賞による1ポイントのみと、デビュー以来最低の成績に沈んだ。
2005年は琢磨はもとより、B.A.Rというチーム全体が混乱したシーズンとも言えたが、サーキット以外の部分でもそれは収まらず、琢磨自身ももそれに巻き込まれていった。ウィリアムズに移籍するはずだったバトンが突如残留。もうひとつのシートについても、バリチェロのフェラーリからの移籍が決定していたことから、05年のパフォーマンス不足も相まって佐藤は2006年シーズンのB.A.Rでのレギュラードライバーの座を失うことになる。チーム(特にホンダ)からはサードドライバーとしてチームに留まる契約を提示されるも、あくまでレギュラードライバーにこだわるとしてこれを拒否、移籍先のあてもないままチームを去ることになった。
[編集] スーパーアグリF1
[編集] 2006年
B・A・Rを出た2006年シーズンは、元F1ドライバーの鈴木亜久里がオーナーを務め、ホンダがエンジンを供給する新規参戦チーム スーパーアグリF1チームから参戦することとなった。
新規参入チームのうえ、前半戦はホンダエンジンこそ搭載しているものの基本的には4年落ちのアロウズのシャシーを現行レギュレーションに合致するように改良した「SA05」を使用していたために、チームメイトの井出有治と共に後方集団からも大きく離されて最下位を走ることが殆どだった。ニューマシンの「SA06」が登場してからもマシンの熟成が進むまでSAF1以外で最も遅いMF1レーシング(2006年第15戦イタリアGP以降はスパイカーMF1レーシングにチーム名称変更)からも離されたが、鈴鹿・日本GPでは、MF1の前でチェッカーを受け、さらに、最終戦ブラジルGPでは、チーム最高位の10位という結果を出すと共にチームメイトの山本左近とのダブル完走を果たした。
[編集] 2007年
2007年シーズンも同チームからファーストドライバーとしてエントリーし、イギリスF3時代のチームメイトであるアンソニー・デビッドソンとともに新型マシンの「SA07」をドライブする。
新型マシンであるSA07の戦闘力はSA06とは比較にならない程高く、オーストラリアGPの予選ではチーム創設後初のQ3進出を果たし、予選10位を記録した(デビッドソンは11位)。その後のレースでも、ワークスホンダと同等以上の成績を収めており、第4戦スペインGPでは、チーム創設後初のポイント(8位・1ポイント)を獲得した。また、この結果は完全日本製パッケージ(日本のコンストラクター・日本人ドライバー・日本製エンジン・日本製タイヤ)で記録した、初のチャンピオンシップ・ポイントであった。第6戦カナダGPでは、荒れたレース展開の中でまずラルフ・シューマッハを、更にタイヤを傷めてペースの上がらない前年度王者のフェルナンド・アロンソもオーバーテイクして6位(3ポイント)でフィニッシュし、スペインGPで記録したチームの最高記録を塗りかえている。このグランプリではルイス・ハミルトンが初優勝を遂げているが、レース後に彼の母国イギリスで行われた最も活躍したドライバーを集計するアンケートではそのハミルトンを超えて半数以上の支持を獲得し、1位に輝いた。
ただしシーズンも後半になるとチームの資金不足で開発が進まずマシンの戦闘力が相対的に下がりSA07はライバルとの競争から後れ始め、また自身も予選でスピードを見せるデビッドソンの後塵を拝するようになった。その後ポイント獲得こそ果たせなかったものの、第11戦ハンガリーGP〜第17戦ブラジルGPまで7戦連続の完走を果たした。
2007年現在、日本人ドライバーの中で最もポイントを獲得したドライバーである。ポイント制度は2003年に改正されているため、仮に過去の成績すべてを2003年以降の制度で計算すると、中嶋悟52ポイント、佐藤47ポイントとなる。逆に1991〜2002年の制度で計算すると、中嶋16ポイント、佐藤21ポイントとなる。
[編集] 2008年
2008年に入るとスーパーアグリF1チームの資金難が深刻化。ホンダが発表した参戦リストにスーパーアグリチーム及び佐藤琢磨の名前がなく、2008年シーズンに参戦できない状況に陥ったが、開幕直前の3月10日に当座の資金の目処を付けて参戦を表明し、スーパーアグリのファーストドライバーとしてエントリーした。しかし資金難によりマシン開発がほとんどできておらず、前年後半のような戦闘力の劣るマシンでのレースを余儀なくされた。開幕戦のオーストラリアGPでは予選のQ2へ進出することもできず、決勝もトラブルでリタイアした。だが、次戦のマレーシアGPからは予選のパフォーマンスは優れないものの、決勝では完走した。
2008年5月6日、スーパーアグリF1チームがF1からの撤退を表明したため所属チームを失った。その後、ル・マン24時間レースやALMS、インディなどからオファーを受けるも全て断り、2009年以降もあくまでF1レギュラーシートを獲得する方向で交渉を進めている。佐藤自身もF1を引退する考えはまったくないことを表明している[4]。英「F1 RACING」が行った歴代ドライバー100傑では、唯一の日本人ドライバーとして78位と評価された。
8月26日、来季F1復帰を目指しスクーデリア・トロ・ロッソとの交渉に入ったことが発表された。その後トロ・ロッソから、佐藤とセバスチャン・ブエミが9月17日からスペイン・ヘレスにて行なわれたテストに参加し、来期のレギュラードライバーとしてのテストを行った。シーズン終了後の11月17日および、18日の午前中にも再びトロ・ロッソのテストでステアリングを握り、初日、2日目の午前といずれも全体のトップタイムをマークした(2日目の午後にレッドブルから出走したセバスチャン・ベッテルに更新された)。12月10日、11日にも、へレスで行われたテストにトロ・ロッソから参加し、2日ともセバスチャン・ブエミに次ぐ2番手タイムをマークした(ただし、各チームがそれぞれ目的のデータ取りをする為に参加するテストの性格上、高順位である事がすなわちドライバー、あるいはチームの実力を示すとは限らない事は心に留めておかなければならない)。
[編集] 2009年
2月6日、2008年の3回のテストの後、レギュラードライバー決定を待っていた琢磨だったが、スクーデリア・トロ・ロッソは2009年のドライバーラインナップをセバスチャン・ブエミとセバスチャン・ボーデの2人に決定した。琢磨はF1への残留をあきらめずにレッドブル・レーシングと、テストおよびリザーブドライバーとしての契約に関して交渉していたが、それも叶わなかった。[5]
3月13日の読売新聞において、9月19日に開催される予定のインディジャパン300への参戦の可能性があるとの報道がされ、マネージャーであるマシュー・ウインターも来日しホンダに支援を仰いだが、実現しなかった。[6]
2009年7月3日にイギリスのボーリューにある国立自動車博物館で2004年に琢磨がドライブしたB・A・R 006が披露された[7]。これは、第9戦アメリカグランプリにおいて自身初めての表彰台を獲得した時のマシンであり、新たに博物館の収蔵品に加えられることが決定したことによる。この披露会には琢磨自身も参加した[7]。
[編集] 家族
- 父親は弁護士の佐藤和利、母親は元舞台女優。
- 2005年7月31日に自身の公式サイトで、長年にわたって彼を支えてきた「パートナー」である女性(のちに入籍)との間に子供が生まれる事を報告。12月23日に男児が誕生し父親になった。2008年9月30日に第2子となる女児が誕生した。現在はモナコに在住する。
[編集] 年譜
- 1977年1月28日 - 東京都新宿区戸山に生まれる。
- 1987年 - 鈴鹿でF1日本GPを観戦し、アイルトン・セナに感激。モータースポーツに憧れを持つ。
- 1989年4月 - 町田市立町田第二中学校に入学。陸上競技部に所属。
- 1992年4月 - 町田市の私立和光高等学校に入学。
- 1992年初春 - 自転車競技を開始。地元のサイクルスポーツ店「たかだフレンド」のクラブに参加する。
- 1993年8月 - 鈴鹿ロードで自転車レースデビュー。
- 1994年3月 - 高校に自転車競技部がなかったため、担任を顧問に独力で部を立ち上げる(部員は琢磨本人だけ、後に廃部)。
- 1994年8月10日 - 第45回インターハイの自転車競技ポイントレースで優勝。
- 1995年4月 - 早稲田大学人間科学部スポーツ科学科に特別選抜枠で推薦入学。自転車部に所属。
- 1995年9月 - 全日本大学対抗選手権の自転車競技で2位。
- 1996年4月 - 早稲田大学人間科学部を休学。
- 1996年6月 - 第37回全日本学生選手権の自転車競技男子4km速度競走で優勝。
- 1996年初夏 - アルデックス・ジャパンでカートレーシングを開始。
- 1997年 - 鈴鹿サーキット・レーシング・スクール・フォーミュラ(SRS-F)に入学。
- 1997年 - カート地方選手権FA-2関東・西でシリーズ1位、カート地方選手権FA-2関東・東でシリーズ3位。日本カートチャンピオンに。
- 1997年10月 - 中谷明彦主宰の中谷塾(ドライビング理論アカデミー)を受講、首席卒業。
- 1997年12月23日 - SRS-Fを首席で卒業。全日本F3選手権参戦のスカラシップを獲得。
- 1998年3月 - 無限×童夢チームから全日本F3選手権に参戦。
- 1998年7月 - 無限×童夢チームから離脱。早稲田大学人間科学部を退学し渡英。ストラトフォード・アポン・エイヴォンで寄宿生活を始める。
- 1998年7月 - イギリスのフォーミュラ・ボクスホールJr.に参戦。
- 1998年10月 - イギリスのフォーミュラ・オペル・ウィンターシリーズに参戦。シリーズ3位。
- 1999年3月 - フォーミュラ・オペル・ユーロカップに参戦。イギリス選手権で2位。
- 1999年3月 - フォーミュラ・オペル・ユーロシリーズに参戦。シリーズ6位。
- 1999年3月 - most improved driver of the yearを受賞。
- 1999年7月 - ダイヤモンド・レーシングからイギリスF3選手権ナショナルクラスに参戦。6戦中3勝を挙げる。
- 1999年11月20日 - マカオGPエリクソン・フォーミュラ・チャレンジで優勝。
- 2000年3月 - カーリン・モータースポーツからイギリスF3選手権に参戦。当時日本人史上最多の4勝、シリーズ3位。
- 2000年3月 - フランスF3選手権にスポット参戦し、優勝。
- 2000年12月 - ジョーダン・無限-ホンダのテストに参加。F1初ドライブ。
- 2001年1月 - B.A.Rホンダのテスト・ドライバーに就任。
- 2001年3月 - 前年に引き続きカーリン・モータースポーツからイギリスF3選手権に参戦。12勝で日本人初のイギリスF3チャンピオンに輝く。
- 2001年7月 - F3インターナショナル・インビテーション・チャレンジで優勝。
- 2001年8月 - マールボロマスターズF3で優勝。
- 2001年10月 - 2002年ジョーダン・ホンダのレギュラードライバーとしてF1参戦発表
- 2001年11月18日 - マカオGP・F3レースで日本人として初の優勝。
- 2002年3月 - ジョーダン・ホンダからF1世界選手権に参戦。シリーズ15位。
- 2002年10月13日 - 日本GPにてF1初入賞(5位)。
- 2003年1月 - 2003年B.A.Rホンダのリザーブ兼テストドライバーに就任。
- 2003年10月12日 - ジャック・ヴィルヌーヴのチーム離脱を受け、F1日本GPにスポット参戦し6位入賞。シリーズ18位。
- 2004年3月 - B.A.RホンダからF1フル参戦に復帰。
- 2004年4月3日 - バーレーンGPで1994年片山右京に並ぶ予選日本人最高位タイ(5位)を記録。
- 2004年5月8日 - スペインGPで予選日本人最高位を更新(3位)。
- 2004年5月29日 - ヨーロッパGPで予選日本人最高位を更新(2位)し、日本人初のフロントロー獲得。翌日日本人初のラップリーダーも記録した。
- 2004年6月20日 - アメリカGPで日本人最高位タイ(3位)。F1の表彰台に上った日本人ドライバーは、1990年日本GPで鈴木亜久里が3位に入って以来、2人目。
- 2005年7月31日 - 同年12月中旬に第一子誕生の予定を発表(この後、入籍を済ませる)
- 2005年9月20日 - 2006年のB.A.Rホンダのドライバー体制が、ジェンソン・バトン、ルーベンス・バリチェロの2人となることが正式に決定。これを受けた日本GP前の記者会見で、琢磨はホンダが技術支援して2006年に新規参入するチームからオファーを受けていることが明らかに。その後そのチームは鈴木亜久里が代表を務めるスーパーアグリF1であることが判明した。
- 2006年2月15日 - スーパーアグリF1へ移籍することが発表された。
- 2007年5月13日 - 第4戦スペインGPでチーム創設後初のポイント(8位・1ポイント)を獲得した。
- 2007年6月10日 - 第6戦カナダGPで6位入賞を果たし、3ポイントを獲得した。
[編集] 自転車競技成績
[編集] 戦績
- 1994年5月 - 全国高等学校総合体育大会自転車トラック競技第一次大会・第二次大会 ポイントレースで総合優勝
- 1994年8月 - 第45回全国高等学校対抗自転車競技選手大会(インターハイ) ポイントレースで優勝
- 1995年9月 - 全日本大学対抗選手権 2位
- 1995年11月 - 国民体育大会 6位
- 1996年6月 - 第37回全日本学生選手権 男子4km速度競走 優勝
[編集] 記録
- 男子4km速度競争 - 5分2秒30(1995年7月7日・石川県内灘町)
- 男子1Km速度競争 - 1分9秒298(1995年9月1日・青森県八戸)
- 男子フライング200m - 11秒442(1996年9月25日・静岡県修善寺)
[編集] 自動車レース成績
[編集] F1デビュー以前
- 1997年 - カート地方選手権FA-2関東・西 シリーズ1位
- 1997年 - カート地方選手権FA-2関東・東 シリーズ3位
- 1998年 - 全日本F3選手権にスポット参戦 (チーム:童夢) (マシン:ダラーラF398無限)
- Rd.1 鈴鹿 19位 /予選6位
- Rd.2 筑波 欠場 /予選15位
- 1998年 - フォーミュラ・ボクスホールJr.(イギリス)
- 1998年 - フォーミュラ・オペル・ウィンターシリーズ 3位(チーム:ダイヤモンド・レーシング)
- 1999年 - フォーミュラ・オペル・ユーロカップ シリーズ2位
- Rd.1 (ドニントンパーク)1位 /予選2位
- 1999年 - フォーミュラ・オペル・ユーロシリーズ 6位
- 1999年 - イギリスF3スカラシップ参戦 (チーム:カーリン・モータースポーツ)
- 1999年7月 - イギリスF3選手権(ナショナル・クラス) 3勝
- 1999年11月 - マカオGPエリクソン・フォーミュラ・チャレンジで優勝
- 2000年 - イギリスF3選手権(ナショナル・クラス) シリーズ3位 (チーム:カーリン・モータースポーツ) (マシン:ダラーラF300無限)
- Rd.1 スラクストン リタイア /予選7位
- Rd.2 クロフト 5位 /予選3位
- Rd.3 オウルントンパーク リタイア /予選11位
- Rd.4(R1) ドニントンパーク リタイア /予選1位
- Rd.4(R2) ドニントンパーク 9位 /予選25位
- Rd.5 シルヴァーストーン 1位 /予選1位
- Rd.6 ブランズハッチ 2位 /予選4位
- Rd.7(R1) ドニントンパーク 3位 /予選7位
- Rd.7(R2) ドニントンパーク 9位 /予選5位
- Rd.8 クロフト 1位 /予選1位
- Rd.9 シルバーストン 1位 /予選1位
- Rd.10 スネッタートン 6位 /予選6位
- Rd.12 シルバーストン 1位 /予選2位
- Rd.5(R1) スパ・フランコルシャン 1位 /予選8位
- Rd.5(R2) スパ・フランコルシャン リタイア /予選2位
- 2000年8月 - マルボロ・マスターズF3(ザントフールト)28位 /予選2位
- 2000年11月 - マカオGP・F3レース(ギア・サーキット)リタイア /予選2位
- 2001年 - イギリスF3選手権 シリーズチャンピオン (チーム:カーリン・モータースポーツ) (マシン:ダラーラF300無限)
- Rd.1(R1) シルバーストン 12位 /予選3位
- Rd.1(R2) シルバーストン 4位 /予選4位
- Rd.2(R1) スネッタートン リタイア /予選4位
- Rd.2(R2) スネッタートン 2位 /予選3位
- Rd.3(R1) ドニントンパーク 1位 /予選2位
- Rd.3(R2) ドニントンパーク リタイア /予選3位
- Rd.4(R1) オウルトンパーク 1位 /予選1位
- Rd.4(R2) オウルトンパーク 1位 /予選4位
- Rd.5(R1) クロフト 失格 /予選2位
- Rd.5(R2) クロフト 1位 /予選3位
- Rd.6(R1) ロッキンガム 1位 /予選2位
- Rd.6(R2) ロッキンガム 1位 /予選2位
- Rd.7(R1) キャッスルクーム 2位 /予選1位
- Rd.7(R2) キャッスルクーム 2位 /予選4位
- Rd.8(R1) ブランズハッチ 9位 /予選1位
- Rd.8(R2) ブランズハッチ 1位 /予選4位
- Rd.9(R1) ドニントンパーク 12位 /予選1位
- Rd.9(R2) ドニントンパーク 1位 /予選1位
- Rd.10(R1) ノックヒル 1位 /予選2位
- Rd.10(R2) ノックヒル 1位 /予選3位
- Rd.11(R1) スラクストン 2位 /予選2位
- Rd.11(R2) スラクストン 8位 /予選3位
- Rd.12(R1) ブランズハッチ 2位 /予選2位
- Rd.12(R2) ブランズハッチ 1位 /予選2位
- Rd.13(R1) シルバーストン 18位 /予選3位
- Rd.13(R2) シルバーストン 1位 /予選1位
- 2001年6月 - ヨーロッパF3選手権 リタイア /予選4位
- 2001年7月 - F3インターナショナル・インビテーション・チャレンジ(シルヴァーストーン) 1位 /予選1位
- 2001年8月 - マールボロ・マスターズF3(ザントフールト) 1位 /予選1位
- 2001年9月 - エルフF3マスターズ(スパ・フランコルシャン) 3位 /予選2位
- 2001年11月 - マカオGP・F3レース(ギア・サーキット)1位 /予選2位
[編集] 2002年
- 2002年 - F1世界選手権 シリーズ15位(2ポイント) (チーム:ジョーダン) (マシン:ジョーダンEJ12ホンダ)
- Rd.1 オーストラリアGP リタイア /予選22位
- Rd.2 マレーシアGP 9位 /予選15位
- Rd.3 ブラジルGP 9位 /予選19位
- Rd.4 サンマリノGP リタイア /予選19位
- Rd.5 スペインGP リタイア /予選18位
- Rd.6 オーストリアGP リタイア /予選18位
- Rd.7 モナコGP リタイア /予選16位
- Rd.8 カナダGP 10位 /予選15位
- Rd.9 ヨーロッパGP 14位 /予選16位
- Rd.10 イギリスGP リタイア /予選14位
- Rd.11 フランスGP リタイア /予選14位
- Rd.12 ドイツGP 8位 /予選12位
- Rd.13 ハンガリーGP 10位 /予選14位
- Rd.14 ベルギーGP 11位 /予選16位
- Rd.15 イタリアGP 12位 /予選18位
- Rd.16 アメリカGP 11位 /予選15位
- Rd.17 日本GP 5位入賞 /予選7位
[編集] 2003年
- 2003年 - F1世界選手権スポット参戦 シリーズ18位(3ポイント) (チーム:B・A・R) (マシン:B・A・R005ホンダ)
- Rd.16 日本GP 6位入賞 /予選13位
[編集] 2004年
- 2004年 - F1世界選手権 シリーズ8位(34ポイント) (チーム:B・A・R) (マシン:B・A・R006ホンダ)
- Rd.1 オーストラリアGP 9位 /予選7位
- Rd.2 マレーシアGP 15位 /予選20位
- Rd.3 バーレーンGP 5位入賞 /予選5位(1994年片山右京に並ぶ予選日本人最高位タイ)
- Rd.4 サンマリノGP 16位 /予選7位
- Rd.5 スペインGP 5位入賞 /予選3位(予選日本人最高位)
- Rd.6 モナコGP リタイア /予選8位
- Rd.7 ヨーロッパGP リタイア /予選2位(予選日本人最高位更新、日本人初のフロントロー獲得、日本人初のラップリーダーを記録)
- Rd.8 カナダGP リタイア /予選17位
- Rd.9 アメリカGP 3位入賞(1990年鈴木亜久里に並ぶ日本人最高位タイ) /予選3位
- Rd.10 フランスGP リタイア /予選7位
- Rd.11 イギリスGP 11位 /予選9位
- Rd.12 ドイツGP 8位入賞 /予選9位
- Rd.13 ハンガリーGP 6位入賞 /予選3位
- Rd.14 ベルギーGP リタイア /予選15位
- Rd.15 イタリアGP 4位入賞 /予選5位
- Rd.16 中国GP 6位入賞 /予選9位(エンジン交換で10グリッド降格)
- Rd.17 日本GP 4位入賞 /予選4位
- Rd.18 ブラジルGP 6位入賞 /予選6位
[編集] 2005年
- 2005年 - F1世界選手権 シリーズ23位(1ポイント)(チーム:B・A・R) (マシン:B・A・R007ホンダ)
- Rd.1 オーストラリアGP 14位 /予選19位
- Rd.2 マレーシアGP ウイルス感染に伴う発熱のため、欠場 サードドライバーのアンソニー・デビッドソンが代わりに出走
- Rd.3 バーレーンGP リタイア /予選13位
- Rd.4 サンマリノGP 車体の最低重量規定違反のため失格(5位入賞 /予選6位)
- Rd.5 スペインGP B・A・Rの出場停止処分により欠場
- Rd.6 モナコGP B・A・Rの出場停止処分により欠場
- Rd.7 ヨーロッパGP 12位 /予選16位
- Rd.8 カナダGP リタイア /予選6位
- Rd.9 アメリカGP リタイア /予選8位
- Rd.10 フランスGP 11位 /予選5位
- Rd.11 イギリスGP 16位 /予選8位
- Rd.12 ドイツGP 12位 /予選8位
- Rd.13 ハンガリーGP 8位入賞 /予選10位
- Rd.14 トルコGP 9位 /予選タイム抹消(14位)
- Rd.15 イタリアGP 16位 /予選5位
- Rd.16 ベルギーGP リタイア /予選11位
- Rd.17 ブラジルGP 10位 /予選19位
- Rd.18 日本GP 失格(13位完走もヤルノ・トゥルーリとの接触事故が危険行為とされたため) /予選5位
- Rd.19 中国GP リタイア /予選17位
[編集] 2006年
- 2006年 - F1世界選手権 シリーズ23位(0ポイント) (チーム:スーパーアグリ) (マシン:SA05ホンダ/SA06ホンダ/SA06Bホンダ)
- Rd.1 バーレーンGP 18位 /予選20位
- Rd.2 マレーシアGP 14位 /予選21位
- Rd.3 オーストラリアGP 12位 /予選21位
- Rd.4 サンマリノGP リタイア /予選21位
- Rd.5 ヨーロッパGP リタイア /予選21位
- Rd.6 スペインGP 17位 /予選20位
- Rd.7 モナコGP リタイア /予選19位
- Rd.8 イギリスGP 17位 /予選20位
- Rd.9 カナダGP リタイア(15位完走扱い) /予選21位
- Rd.10 アメリカGP リタイア /予選18位
- Rd.11 フランスGP リタイア /予選21位
- Rd.12 ドイツGP リタイア /予選19位
- Rd.13 ハンガリーGP 13位 /予選20位
- Rd.14 トルコGP リタイヤ /予選22位
- Rd.15 イタリアGP 16位 /予選21位
- Rd.16 中国GP 失格(14位完走も青旗無視のためレース後に失格) /予選21位
- Rd.17 日本GP 15位 /予選20位
- Rd.18 ブラジルGP 10位 /予選19位
[編集] 2007年
- 2007年 - F1世界選手権 シリーズ15位(4ポイント)(チーム:スーパーアグリ) (マシン:SA07ホンダ)
- Rd.1 オーストラリアGP 12位 /予選10位
- Rd.2 マレーシアGP 13位 /予選14位
- Rd.3 バーレーンGP リタイア /予選17位
- Rd.4 スペインGP 8位入賞 /予選13位
- Rd.5 モナコGP 17位 /予選21位
- Rd.6 カナダGP 6位入賞 /予選11位
- Rd.7 アメリカGP リタイア /予選18位
- Rd.8 フランスGP 16位 /予選19位(アメリカGPのペナルティで22番グリッドに降格)
- Rd.9 イギリスGP 14位 /予選21位
- Rd.10 ヨーロッパGP リタイア /予選16位
- Rd.11 ハンガリーGP15位 /予選19位
- Rd.12 トルコGP18位 /予選19位
- Rd.13 イタリアGP16位 /予選17位
- Rd.14 ベルギーGP15位 /予選19位
- Rd.15 日本GP15位 /予選21位
- Rd.16 中国GP14位 /予選20位
- Rd.17 ブラジルGP12位 /予選18位(シリーズ17位)
[編集] 2008年
- 2008年 - F1世界選手権 (チーム:スーパーアグリ) (マシン:SA08Aホンダ)
- Rd.1 オーストラリアGP リタイア /予選18位
- Rd.2 マレーシアGP 16位 /予選20位
- Rd.3 バーレーンGP 22位 /予選17位
- Rd.4 スペインGP 22位 /予選13位
[編集] 関連項目
- モータースポーツ
- 日本人ドライバー一覧
- F1ドライバーの一覧
- アンドリュー・ギルバート=スコット(元レーシングドライバーで現在琢磨のマネージャー)
[編集] 脚注
- ^ 当初予定になかった面接試験を行わせた。
- ^ 「免許取消」だという説もある。
- ^ 公式プロフィールではこのことは記載されていないが、童夢社長の林みのるが自社ホームページのBBSに記述している。
- ^ F1 : 琢磨、「F1をやめるつもりはない」
- ^ F1速報2009年開幕直前号(4月2日号)佐藤琢磨インタビュー「琢磨の日々」
- ^ 。http://f1-gate.com/sato/f1_3140.html F1 : 佐藤琢磨、インディカーのシート獲得を目指し活動中」]
- ^ い ろ [to appear at Goodwood, Beaulieu”]. Yahoo (UK and Ireland) Sport. (2009-06-16) 2009-06-16 閲覧。
[編集] 参考文献
- 佐藤琢磨 『GO FOR IT! Takuma Sato』 二玄社 2002年 ISBN 4-544-04076-0
- 佐藤琢磨 『佐藤琢磨2002F1ダイアリー:GO FOR IT! 2』 二玄社 2002年 ISBN 4-544-04083-3
- 佐藤琢磨 『佐藤琢磨2004F1ダイアリー:GO FOR IT! 3』 二玄社 2004年 ISBN 4-544-04096-5
- 佐藤琢磨 『佐藤琢磨2005F1ダイアリー:GO FOR IT! 4』 二玄社 2005年 ISBN 4-544-40004-X
- 佐藤琢磨 『佐藤琢磨2006F1ダイアリー:GO FOR IT! 5』 二玄社 2006年 ISBN 4-544-40012-0
- 佐藤琢磨 『佐藤琢磨2007F1ダイアリー:GO FOR IT! 6』 二玄社 2007年 ISBN 4-544-40023-6
- 佐藤琢磨 『FORMULA TAKUMA』 講談社 2008年 ISBN 978-4063788822
- 原富治雄 『AURA Takuma Sato』 二玄社 2002年 ISBN 4-544-04130-9
- 西山平夫 『君が代が聴きたい:佐藤琢磨とホンダF1の戦いを追って』 双葉社 2004年 ISBN 4-575-29739-9
- 西山平夫 『続・君が代が聴きたい:佐藤琢磨とホンダF1の戦いを追って』双葉社 2005年 ISBN 978-4575298406
- 『F1CLUB特別編集 佐藤琢磨-優勝へのカウントダウン。』 双葉社 2004年 ISBN 4-575-47684-6
[編集] 外部リンク
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最終更新 2009年11月14日 (土) 09:59 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【佐藤琢磨】変更履歴




