保良宮

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保良宮ほらのみや)は、奈良時代近江国滋賀県)に淳仁天皇が営んだで、平城京北の都北京」(ほくきょう)とされた。保良京保良離宮とも呼ばれた。

目次

[編集] 背景

[編集] 行幸と廃都

761年(天平宝字5年)

  • 1月21日、保良京で諸司の役人に宅地を班給する。
  • 10月11日、保良遷都のためとして、藤原仲麻呂らに稲束を支給。
  • 10月13日、淳仁天皇と孝謙上皇が保良宮に行幸。
  • 10月28日、天皇は平城宮の改作のため、しばらく保良宮に移るとし、更に「朕思う所有り、北京を造らんと議る」として、都に近い2郡(滋賀郡栗太郡と見られる)を割いて永く畿県とし、を停めて平城京に準じた調を納めるようにした。これは陪都北京太原府」を意識したものとみられる。

762年(天平宝字6年)

  • 1月1日、保良宮が未完成のため朝賀の儀をとりやめる。
  • 3月3日、保良宮の西南に新しく池亭を造り、曲水の宴を設ける。
  • 3月25日、保良宮の諸殿と屋垣の工事を諸国に分配して一時に完成させる。
  • 5月23日、淳仁天皇と孝謙上皇の不仲で平城宮に戻ることになり、淳仁天皇は中宮院に、孝謙上皇は出家して法華寺に入る。前年に孝謙上皇が病気に倒れ、弓削道鏡の看病を受けて平癒。二人の関係を批判した淳仁天皇と上皇が対立していた。

764年(天平宝字8年)、このころ、孝謙上皇と関係が深い吉備真備が台頭。藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)勃発。仲麻呂の敗退により造営中止。廃都。

[編集] 遺跡

  • 琵琶湖から流れ出す瀬田川右岸に位置し、滋賀県大津市の石山国分遺跡の周辺に比肩する説が有力。ここからは築地塀の跡や平城京と共通の760年前後の瓦が出土しており関連した施設の跡であると考えられる。周辺には石山寺や近江国分寺、瀬田川対岸には近江国庁があり環境も整っており、国分2丁目には「へそ石」とよばれる保良宮の礎石の一つと伝えられている石が残っている。さらに関津遺跡の幅18mの道路跡も関連する遺跡であると考えられる。
  • 紫香楽宮跡近くの玉桂寺(滋賀県甲賀市信楽町勅旨)を跡とする説がある。同寺には「保良宮跡に空海が一堂を建立した」との言い伝えがある。
  • 琵琶湖の北部にある伊香郡西浅井町管浦の須賀神社がこれに当たるとの伝承がある。神域は裸足で参拝しなければならないとの慣わしが現在も厳しく守られている。また、この神社では50年ごとに「淳仁天皇祭」が斎行されており、次は平成25年(2013年)に1250年祭が奉祀される予定になっている。

[編集] 関連項目

最終更新 2009年7月31日 (金) 04:23 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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