信濃国

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曖昧さ回避 この項目では、令制国の信濃国について記述しています。長野県歌については「信濃の国」をご覧ください。

令制国一覧 > 東山道 > 信濃国

信濃国(しなののくに)は、かつて日本の地方行政区分だったの一つで、東山道に位置する。領域は現在の長野県とほぼ同じ(旧神坂村・旧山口村岐阜県中津川市に編入される等の微妙な差異はある)。信州(しんしゅう)と呼ぶこともある。『延喜式』での格は上国、中国。『万葉集』での枕詞は「みすずかる (水薦苅)」。

目次

[編集] シナノの由来と変遷

元は「シナヌ」であったとされ、後に「科野」の字が当てられた。『古事記』中巻には「神八井耳命者科野国造等之祖也」と記され、大国主命の子健御名方命が諏訪に入国する際にも、「科野国之洲羽海」に至ると記される。

科野」の語源については諸説あるが、江戸時代国学者である谷川士清は『日本書紀通證』に「科の木この国に出ず」と記し、賀茂真淵の『冠辞考』にも「(一説では)ここ科野という国の名も、この木より出たるなり。」と記しており、「科の木」に由来する説が古くから有力とされている。また賀茂真淵は「名義は山国にて級坂(しなさか)のある故の名なり」とも記しており、山国の地形から「段差」を意味する古語である「科」や「級」に由来する説を残している。他に「シナとは鉄に関連する言葉」とする説もある。

「科野」は和銅6年(713年)の『風土記』を境に、「信野」を経て「信濃」へと移り変わっていく。長野県で最も古い「信濃国」の文字は、平成6年(1994年)に千曲市屋代遺跡群から発見され、現在は長野県立歴史館に所蔵されている8世紀前半(715~740年)の木簡となる。

[編集] 成立時の沿革

7世紀の令制国発足により佐久、伊那、高井、埴科、小県、水内、筑摩、更級、諏訪、安曇の十郡を以って成立し、現在の長野県のうち木曽地方を欠く大部分を領域にした(当初は科野国)。

養老5年(721年6月26日に南部を諏方国として分置した。天平3年(731年3月7日に合併して元に復した(この頃には信濃国)。

平安時代から鎌倉時代に、美濃国から木曽地方を編入し、筑摩郡の一部としたが、その正確な時期はわかっていない。また戦国時代には、南信州を支配下に治めた武田信玄によって三河国加茂郡から現・根羽村の地域を編入し伊那郡の一部とした。

[編集] 国府・国分寺など

歴史的文献に現れる国府の所在地として、『和名類聚抄』、『拾芥抄』、『易林本』の節用集のいずれにも全て筑摩郡と記述されている。現在の松本市にあたる。

ただし諸説として、国分寺及び総社のひとつである科野大宮社が上田市にあること、東山道のルートや宿駅の配置(小県郡亘理(曰理)駅)などから推測して、『和名抄』編纂以前には小県郡に国府があったとする学説もあるが[1]、1次史料による証明・裏付けは今のところ皆無であるため、憶測の域を出ない。2007年現在において、遺跡からの有力な出土物や遺構も発掘されていない。

また一時的に信濃国から分立した諏方国の国府も未詳である。

平安中期の944年、天災により国衙が倒壊し国司が圧死した記録が残る。

鎌倉初期には善光寺近傍に「御庁」(長野市後町)が建てられ、国司目代が置かれた。1335年には、建武の新政に反旗を翻した諏訪頼重が国衙を襲撃し戦火で消失、以後再建されることがないまま、守護を務める武家にその権能が委譲され、次第に形骸化していった。

守護所の位置は守護の交代によって移り変わるが、水内郡善光寺後庁、小県郡塩田、埴科郡船山、水内郡平芝、筑摩郡井川などに置かれた。

[編集] 歴史

[編集] 原始

有史以前、県内には縄文時代遺跡が多数分布し、この時代の中心地のひとつであった。とくに小県郡長和町和田峠は日本における黒曜石の代表的な産地であった。

続く弥生文化は、まず東海地方から長野県南西部へと伝わり、その後日本海側の北陸地方から北部へと伝わったと考えられている。この2ルートでの波及が原因かは不明であるが、中野市の柳沢遺跡からは、東日本では唯一となる一緒に埋葬された銅鐸銅戈が出土している(銅鐸と銅戈が一緒に出土したのは日本全国でも数例しかなく、また大阪湾型と九州型の銅戈が混在していることも極めて稀なケース)。

古墳時代前方後方墳は、弘法山古墳松本市)や姫塚古墳(長野市)、瀧の峯古墳群(佐久市)など県内各所で発見されており、時期については概ね古墳時代前期(4世紀始めから中葉)のほぼ同時期とされている。その後前方後円墳が県内各所に築造され、特に長野市南部から千曲市北部にかけての一帯には、森将軍塚古墳や川柳将軍塚古墳、倉科将軍塚古墳など県内最大級の前方後円墳が集中している。古墳時代後期には高井郡を中心に高句麗式の積石墳が多数分布する。

神代の時代、出雲の国譲りに反対していた大国主の長男建御中主尊が大和方の武甕槌神相撲をとって敗れ、助命されて科野国諏訪郡に住まわされたと伝わる。その地には諏訪神社が建立され、信濃国一之宮の格式を誇り武芸の神として尊崇を集めた。

[編集] 古代

弥生時代から古墳時代にかけての科野は、更級・埴科を中心とした千曲川流域であり、県内最大の前方後円墳で「科野の大王」の墳墓と目されている森将軍塚古墳を筆頭とした埴科古墳群が残されている現在の千曲市(旧更埴市)から川柳将軍塚古墳のある長野市南部(旧更級郡)にかけての一帯が中心(科野国造)であったとされる。645年大化改新科野国が設置され、721年から731年まで諏方国が分置されたこともある。

飛鳥時代には、本多善光の開基による善光寺長谷寺などが建立され、特に善光寺は諏訪大社と並び今日においても全国的な信仰の拠り所となっている。

奈良時代には官営による16の勅旨牧と、それを統括するための牧監庁が置かれた。768年には朝廷から褒美を得た全国9人の内に信濃国は水内郡刑部智麻呂と倉橋部広人や更級郡建部大垣伊那郡他田部舎人千世売と4人までもを占めた。

平安時代初期には桓武平氏平将門が、東山道を京に向かう平貞盛に追撃の兵を差し向け、小県郡国分寺付近で貞盛に助勢した滋野氏や小県郡の郡司他田氏と合戦に及ぶなど、信濃は平安時代初期における平氏内紛の舞台ともなった。888年千曲川仁和大水と言われる大洪水を起こした。

院政時代には院分国として白河法皇鳥羽法皇の知行国となり、その後は公卿に引き継がれた。

平安時代末期に入ると、河内源氏源義賢の遺児木曾義仲後白河法皇の第三皇子以仁王による平家追討の令旨に呼応し、挙兵するなど信濃の兵が信越地方から京都にかけて活躍をしたが、後に河内源氏の嫡流源頼朝と対立し、その弟範頼義経らに討たれた。

[編集] 中世

鎌倉時代初期には関東御分国の1つとして鎌倉幕府の知行国であった。その後の知行権は公卿興福寺東大寺などの手に移るが、在庁官人や国人関東御家人化が進んで在京の遙任国司や知行国主の影響力は薄れ、「国司その用あてざる国」と揶揄された。戦国時代まで存在した守護には比企氏執権北条氏小笠原氏斯波氏武田氏らがいた。(初代は比企能員、末代は武田勝頼

またこの時代の仏教の信者で多いのが臨済宗、曹洞宗などの禅宗と一向宗、浄土宗(禅林寺派)などである。

鎌倉時代末期、後醍醐天皇鎌倉幕府追討の宣旨を下し、足利尊氏新田義貞らの有力御家人が寝返った。得宗北条高時を討って、幕府を滅ぼすと北条氏の御内人であった諏訪頼重らが高時の遺児北条時行を奉じて鎌倉を奪還するなど(中先代の乱)、信濃においては朝廷方と北条方による抗争が繰り広げられた。後醍醐天皇が建武の新政により公家中心の政治に武士の不満が高まった。足利尊氏の新帝擁立で朝廷が二つに分かれた南北朝時代に入ると、南朝方の諏訪氏仁科氏香坂氏らと北朝方の小笠原氏や村上氏との間で抗争が繰り広げられた。南朝方は後醍醐天皇の皇子である征夷大将軍宗良親王(信濃宮)を奉じて南朝方の一大拠点を築こうとしたが、桔梗ヶ原の戦いで小笠原氏が勝利すると諏訪氏や仁科氏などが北朝側に組して、信濃南朝勢力の衰微は決定的となる。南朝の衰退後は、同じ北朝方でも足利幕府を後ろ盾とする守護小笠原氏と在地豪族の代表格村上氏が南朝方であった諸族を巻き込んで争うなど(大塔合戦)、南北朝の二極対立とは別に、守護対在地豪族の争いから複雑な対立関係が続き、足利幕府と鎌倉公方鎌倉公方関東管領との対立がその動きに拍車をかける形となり、信濃においては強力な支配権を持つ守護大名は登場することはなかった。将軍足利義教の時代に信濃守護を務めた小笠原政康は親義教派の武将として永享の乱などで活躍するも、政康の没後、小笠原氏は分裂し再び衰える。

室町末期まで在地豪族の諸勢力が拮抗を続ける。埴科郡を拠点に北部や東部に勢力を拡大する村上氏、諏訪大社の信仰を背景とする諏訪氏、信濃守護家として幕府と強い繋がりを持つ小笠原氏、木曽谷に割拠する木曾氏らがその代表格であるが、他にも小笠原一族で信濃守護代を務めた大井氏越後長尾氏と縁戚関係を結ぶ高梨氏関東管領上杉氏を後ろ盾とした海野氏、北部の名族井上氏などの旧来の名族の流れを汲む一族も健在であった。

戦国時代には甲斐武田氏が侵攻。武田信虎の代に諏訪氏や村上氏と結んで海野氏を滅ぼしたのを皮切りに、武田信玄の代には諏訪氏を滅ぼし、小笠原氏や村上氏を追い、木曾氏を傘下に下すなど、信濃の大半を手中に収めた。それに対して、高梨氏や井上氏など北部の豪族達と繋がる越後の上杉謙信(長尾景虎)が武田氏と対峙、川中島の戦いが起こるなど攻防が繰り広げられた。

信玄の死後、その後を継いだ武田勝頼が引き続き支配したが、織田信長との抗争に敗れ滅亡。その後は織田家の版図に加えられ、毛利長秀森長可らに与えられた。しかし本能寺の変後、織田家の勢力は瓦解し、徳川氏北条氏・上杉氏の勢力が進出。北条氏は徳川氏と和解・同盟して領地交換により撤退し、徳川と上杉の対立は徳川家康豊臣秀吉の対立に転じ、家康が秀吉と和睦し後に臣従し関東に移封されると、信濃は豊臣氏方の武将の支配下に収まった。

関ヶ原の戦いの直前、徳川秀忠の軍勢は、かつて徳川氏に仕えながら豊臣氏の配下に転じ、関ヶ原において西軍方についた真田昌幸信繁父子の居城上田城を攻めたが敗れた(上田合戦)。関ヶ原の戦いにおける第2の舞台である。真田昌幸は関ヶ原以後、高野山に流された。その後、東軍の真田信幸松代城に入った。西軍の真田信繁は豊臣方について後年の大坂の役で武名を挙げることになる。

[編集] 近世

江戸時代は、途中廃絶も含めて松代藩等大小計19藩が置かれた(廃藩置県時点では松本藩上田藩飯山藩小諸藩岩村田藩龍岡藩田野口藩)、高島藩高遠藩飯田藩須坂藩松代藩)。

また木曽地方は全域が尾張国名古屋藩領であり、伊那郡内には美濃国高須藩及び陸奥国白河藩、高井郡内には越後国椎谷藩、佐久郡内には三河国奥殿藩の飛び地があった。

その他善光寺戸隠神社諏訪大社等の寺社領、天領支配のための中野・中之条・御影・飯島の4つの代官所交代寄合旗本伊豆木陣屋小笠原氏等)の知行所などが置かれた。

この時代には多くの出稼ぎ労働者を江戸に送り出し、彼らは「信濃者(しなのもの・しなのじゃ)」、「おシナ」あるいは暗喩で「椋鳥」と呼ばれ、「大飯喰らい」「でくのぼう」の象徴として江戸狂言に多く詠まれている。

幕末になると、外様の松代藩・須坂藩はいち早く倒幕を表明、その他の譜代諸藩は、当初日和見の態度をとる藩が多かったが、次第に官軍に恭順していった。慶応4年(1868年)4月下旬、越後から進出した衝鋒隊飯山城下を占領すると、信濃各藩は東山道先鋒総督府の岩村精一郎の軍監に入り、連合してこれを撃退し、そのまま北越戦争会津戦争に転戦した。賞典禄は松代藩3万石、須坂藩5000石、松本藩3000石、上田藩3000石、金禄は奥殿藩5000両、高遠藩2000両等であった。

※江戸時代の各藩については「藩の一覧」を参照。 また ※明治以降は「長野県」を参照。

[編集] 守護

[編集] 鎌倉幕府

[編集] 室町幕府

[編集] 国司

[編集] 飛鳥・奈良時代

信濃守

  • 小治田宅持[2] (708年)
  • 佐伯沙弥麻呂 (714年)
  • 巨勢又兄 (731年)
  • 物部依羅人曾 (746年)
  • 坂合部金綱 (747年)
  • 佐伯大成[3] (757年)
  • 忌部鳥麻呂 (757年)
  • 藤原継縄 (764年)
  • 三川王 (764年)
  • 太犬養 (766年)
  • 藤原楓麻呂 (769年)
  • 菅生王 (772年?)
  • 多治比豊満 (772年)
  • 石川望足 (774年)
  • 大原浄貞 (778年)
  • 大伴不破麻呂 (778年)
  • 紀家継 (781年)
  • 中臣鷹主 (785年)
  • 縣犬養堅魚麻呂(786年)
  • 藤原乙叡 (790年)

信濃介

  • 谷綿麻呂 (738年?)
  • 紀僧麻呂 (761年)
  • 当麻王 (767年)
  • 濃宜公水通 (768年)
  • 弓削大成 (769年)
  • 田口水直 (770年)
  • 多治比賀智 (786年)
  • 平群清麻呂 (790年)

[編集] 平安時代

信濃守

  • 笠江人 (795年頃?)
  • 宇智王 (813年)
  • 菅原清公 (826年)
  • 紀百継 (828年)
  • 南淵弘貞 (833年)
  • 源弘 (833年)
  • 清原長谷 (833年)
  • 源弘(再任) (835年)
  • 藤原大津 (836年)
  • 興世書主 (840年)
  • 紀綱麻呂 (権守) (841年)
  • 小野篁 (848年)
  • 藤原助 (851年)
  • 久賀三夏 (852年)
  • 平實雄 (853年)
  • 源多 (858年)
  • 南淵年名 (858年)
  • 橘安吉雄 (権守) (861年)
  • 在原行平 (862年)
  • 橘安吉雄 (守に昇格) (864年)
  • 源頴 (867年)
  • 藤原水谷 (権守) (869年)
  • 滋野善根 (870年)
  • 出雲廣貞 (権守) (870年以前?)
  • 興基王 (権守) (870年)
  • 紀有常 (権守) (871年)
  • 在原守平 (874年)
  • 源包 (878年)
  • 橘有蔭 (884年頃?)
  • 橘良基 (884年)
  • 源近善 (権守) (884年頃?)
  • 源道 (権守) (886年)
  • 藤原諸房 (887年)
  • 源定有 (権守) (887年頃?)
  • 藤原扶幹 (895年)
  • 源實 (899年)
  • 源義 (899年頃?)
  • 源清蔭 (権守) (907年)
  • 小乃清實 (908年以前?)
  • 源恵 (908年)
  • 源是茂 (権守) (915年)
  • 藤原忠房 (権守) (916年)
  • 橘公頼 (923年)
  • 平時望 (権守) (924年)
  • 源師尚 (925年以前?)
  • 藤原公葛 (925年)
  • 源宗千 (925年)
  • 源善延 (927年頃?)
  • 高階師尚 (936年)
  • 藤原良載 (936年以前?)
  • 源公家 (938年以前?)
  • 源師保 (944年以前?)
  • 紀文幹[4] (944年頃?)
  • 源重光 (権守) (950年)
  • 源信明 (953年)
  • 源経基 (961年以前?)
  • 藤原永年 (961年以前?)
  • 源惟正 (961年)
  • 平維茂 (969年)
  • 藤原陳忠[5] (982年頃?)
  • 藤原在国 (権守) (988年)
  • 藤原惟正 (992年頃?)
  • 藤原隆家 (権守) (993年)
  • 源満仲 (997年以前?)
  • 佐伯公行 (998年以前?)
  • 中原致時 (998年)
  • 源道方 (権守) (1001年)
  • 源済政 (1002年)
  • 源定長 (1004年以前?)
  • 藤原佐光 (1004年)
  • 藤原弘道 (権守) (1007年)
  • 源道成 (1022年以前?)
  • 藤原惟任 (1022年頃?)
  • 藤原信理 (1023年以前?)
  • 藤原保資? (1027年頃?)
  • 菅原忠貞 (1032年以前?)
  • 藤原家経 (1032年)
  • 源頼親 (1040年以前?)
  • 源孝義 (1040年)
  • 源経隆 (1047年頃?)
  • 藤原伊綱 (1057年以前?)
  • 橘俊通 (1057年)
  • 源國信 (権守) (1079年)
  • 藤原敦憲 (1080年頃?)
  • 藤原家綱 (1089年頃?)
  • 藤原定仲 (権守) (1095年頃?)
  • 藤原永清 (1096年頃?)
  • 藤原師光 (1096年)
  • 藤原永實 (1100年頃?)
  • 藤原斎長 (1105年以前?)
  • 高階為行 (1107年頃?)
  • 大江廣房 (1108年)
  • 大江廣仲 (1112年以前?)
  • 藤原惟明 (1112年)
  • 藤原兼定 (権守) (1116年頃?)
  • 平盛基 (1118年頃?)
  • 源国房 (1119年以前?)
  • 源重時 (1120年)
  • 藤原盛重 (1127年)
  • 藤原重万 (権守) (1130年頃?)
  • 大江季重 (権守) (1132年)
  • 源義綱 (1132年以前?)
  • 藤原親隆 (1132年)
  • 藤原朝隆 (1139年)
  • 藤原賢行 (1143年)
  • 藤原親康 (権守) (1146年)
  • 藤原清道 (1148年)
  • 藤原長親 (権守) (1149年頃?)
  • 藤原行道 (1156年頃?)
  • 藤原顕賢 (1157年)
  • 藤原是憲 (1158年)
  • 源重成 (1159年)
  • 藤原伊輔 (1160年)
  • 藤原親経 (権守) (1160年)
  • 藤原伊輔 (再任) (1163年)
  • 藤原隆雅[6] (1168年)
  • 藤原實教 (1172年)
  • 大江泰友 (権守) (1174年)
  • 藤原盛長 (1179年頃?)
  • 平景清(藤原景清) (1180年)
  • 大江成棟 (権守) (1182年以前?)
  • 藤原能成 (権守) (1183年)
  • 加々美遠光[7] (1185年)
  • 藤原資経 (1190年)
  • 中原兼遠 (権守)[8] (年代不詳)
  • 佐々木泰清 (年代不詳)
  • 源有房 (年代不詳)

信濃介

  • 石川清主 (795年頃?)
  • 藤原継業 (のちに守) (799年頃?)
  • 和弟長 (804年)
  • 坂本佐太氣麻呂 (806年)
  • 安部安仁 (828年)
  • 藤原貞守 (841年)
  • 下毛野文継 (842年)
  • 伴御園 (846年)
  • 佐伯雄勝 (848年)
  • 紀再弟 (852年)
  • 清原秋雄 (852年)
  • 紀道茂 (854年)
  • 藤原秀道 (857年)
  • 田口統範 (権介) (858年)
  • 紀冬雄 (861年)
  • 藤原是縄 (権介) (864年)
  • 有宗益門 (権介) (865年)
  • 大春日吉野 (865年)
  • 滋野恒蔭 (868年)
  • 佐伯子房 (権介) (873年頃?)
  • 藤原恒實 (権介) (878年)
  • 橘茂蔭 (879年頃?)
  • 藤原有令 (884年)
  • 良岑唯實 (885年)
  • 小野滋蔭 (893年)
  • 藤原恒佐 (権介) (898年)
  • 小野美材 (権介) (899年)
  • 紀淑望 (権介) (913年)
  • 藤原俊蔭 (権介) (917年)
  • 藤原顕忠 (権介) (925年)
  • 三統公忠 (権介) (941年)
  • 高向行方 (979年)
  • 丹波茂忠 (権介) (981年)
  • 平保忠 (984年)
  • 平景盛 (権介) (998年)
  • 清岳光明 (権介) (999年)
  • 伴貞資 (1033年)
  • 平康清 (1176年)
  • 大中臣盛實 (権介) (1178年)
  • 中原國盛 (権介) (1181年)
  • 藤原良實 (権介) (1181年)

[編集] 鎌倉時代

信濃守

  • 源遠義 (1194年頃?)
  • 卜部兼直 (権守) (1199年)
  • 藤原長兼 (1202年)
  • 藤原公信 (権守) (1203年)
  • 藤原資頼 (1203年)
  • 藤原家時 (1205年)
  • 藤原基綱 (1206年)
  • 藤原隆綱 (1210年)
  • 藤原隆衡 (1213年頃?)
  • 藤原親輔 (権守) (1217年)
  • 藤原隆雅[9] (1226年)
  • 藤原信忠 (1227年)
  • 源頼俊 (1231年)
  • 藤原公佐 (1232年以前?)
  • 源輔通 (1232年)
  • 藤原宗範 (権守) (1233年)
  • 諏訪信重 (権守) (1239年頃?)
  • 源季遠 (権守) (1243年)
  • 源通教 (1255年)
  • 源泰清 (1258年)
  • 源秀清 (1258年頃?)
  • 藤原教房 (1258年以前?)
  • 源通頼 (1260年)
  • 小笠原長忠 (1264年以前?)
  • 藤原行實 (1268年)
  • 藤原行章 (1274年)
  • 藤原親世 (1287年頃?)
  • 安倍雅遠 (1288年)
  • 藤原雅任 (1289年)
  • 小笠原長政 (1294年以前?)
  • 二階堂行貞 (1295年)
  • 三善時運 (1298年)
  • 荒井頼任 (1303年頃?)
  • 小笠原長氏 (1310年以前?)
  • 三条實治 (権守) (1330年)
  • 小笠原宗長 (1330年以前?)
  • 清原[10] (1333年)
  • 赤松範資 (1333年頃?)
  • 伊東祐光 (年代不詳)

信濃介

  • 藤原祐康 (1205年)
  • 藤原實嗣 (1206年)
  • 藤原實親 (権介) (1206年)
  • 藤原盛兼 (1219年)
  • 藤原親季 (権介) (1223年)
  • 藤原兼頼 (1229年)
  • 大江景頼 (権介) (1231年)
  • 藤原雅平 (権介) (1241年)
  • 藤原公齋 (権介) (1243年)
  • 藤原茂通 (権介) (1249年)
  • 源具守 (1260年)
  • 藤原季顕 (権介) (1267年)
  • 藤原通雄 (権介) (1272年)
  • 源為雄 (1274年)
  • 藤原實時 (権介) (1274年)
  • 藤原長忠 (権介) (1278年)
  • 源長通 (1294年)

[編集] 室町時代

信濃守

  • 坊門清忠(藤原清忠)(権守)(1334年)
  • 白川資英王 (1334年)
  • 小笠原貞宗 (1334年頃?)
  • 左近少将入道[11] (1335年頃?)
  • 堀河光継 (1335年)
  • 仁科重貞 (1336年頃?)
  • 風間某 (1338頃?)
  • 太田某 (1340年頃?)
  • 藤原基隆 (権守) (1346年)
  • 諏訪頼嗣 (権守) (1347年)
  • 源利治 (1347年)
  • 安倍豊房 (権守) (1350年)
  • 藤原行盛 (1350年)
  • 諏訪頼嗣 (守に昇格) (1350年頃?)
  • 源秀時 (1351年)
  • 諏訪直頼 (1351年頃?)
  • 安倍泰規 (1352年)
  • 海老名某 (1352年頃?)
  • 蜂谷某 (1353年頃?)
  • 小笠原某 (1353年頃?)
  • 久我具通 (権守) (1358年)
  • 安東高泰 (1358年頃?)
  • 諏訪某 (1358年頃?)
  • 八代某 (1358年頃?)
  • 山代某 (1358年頃?)
  • 武田義武 (1359年頃?)
  • 岡本富高 (1364年頃?)
  • 小笠原長基 (1365年頃?)
  • 二宮貞家 (1366年)
  • 白川顕邦王 (権守) (1375年)
  • 白川資方王 (権守) (1383年頃?)
  • 二宮氏泰 (1386年頃?)
  • 小野氏信 (1392年頃?)

信濃介

  • 藤原實長 (1342年)
  • 源有範 (1347年)
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[編集] 武家官位としての信濃守

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[編集] 『延喜式』に見える古社

延喜式神名帳』には大社7座5社、小41座41社の計48座46社が記載されている。大社5社は以下の通りで、全て名神大社である。

一宮は諏訪大社、二宮は小野神社・矢彦神社、三宮は穂高神社・沙田神社である。

[編集] 勅旨牧

  • 大室牧(長野市)
  • 笠原牧(中野市)
  • 高井牧(高山村)
  • 新張牧(東御市)
  • 塩原牧(青木村)
  • 望月牧(佐久市)
  • 長倉牧(軽井沢町)
  • 塩野牧(御代田町)
  • 埴原牧(松本市)
  • 猪鹿牧(安曇野市)
  • 大野牧(波田町)
  • 岡屋牧(岡谷市)
  • 山鹿牧(茅野市)
  • 萩倉牧(下諏訪町)
  • 平井手牧(辰野町)
  • 宮処牧(辰野町)
  • 埴原牧に牧監庁を併設。

[編集] 参考文献

  • 信濃史学会『信濃』
  • 長野県下の各市町村誌

[編集] 関連項目

[編集] 出典・脚注

  1. ^ 参考:長野県史刊行会編『長野県史』通史編 第1巻原始・古代 1989年、山川出版『長野県の歴史』ISBN 4634322005、『松本市史』第2巻 歴史編Ⅰ「原始・古代・中世」、『上田市誌』 歴史編2「上田の弥生・古墳時代」・歴史編3「東山道と信濃国分寺」など多数。
  2. ^ 文献上に現れる初代信濃国司。
  3. ^ 橘奈良麻呂の乱で処罰され任国配流。
  4. ^ 国衙が倒壊し圧死。
  5. ^今昔物語集』の受領のエピソードで知られる。
  6. ^ 藤原家長の子か。
  7. ^ 平氏追討の勲功。
  8. ^ 木曾義仲の養父。
  9. ^ 藤原隆房の子か。
  10. ^ 堀河中納言藤原光継の直前の前任者であるとの記録があり、左近少将入道と同一人物とする説あり。
  11. ^ 1333年10月に就任した清原真人某と同一人物か。
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最終更新 2009年11月22日 (日) 07:33 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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