元老院 (ローマ)

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元老院(げんろういん、ラテン語: senatus、セナトゥス)は、古代ローマの統治機関。

元老院の語は、ローマを源泉とした西欧文明を継承する国々や、その旧植民地領に独立した国々によって、議会の上院を表わす語として今日に至るまで引き継がれている。

目次

[編集] 共和政時代

共和政時代では建前上は執政官の諮問機関であったが、実質的には外交・財政などの重要な決定権を掌握していた。それはローマの国家を指して "Senatus Populus que Romanus"、略してSPQR(「元老院とローマの市民」の意)と呼ぶほどであった。また元老院議員の身分は終身であり、新たに元老院議員となるためにも元老院議員の家系の出身者であることが有利であったため、元老院議員達は特権階級としてローマ国家を動かしていた(ノビレス)。

元老院議員となるには有力家系の出身者が有利ではあったが、決して世襲でも自動的でもなかった。その資格は会計検査官を務め上げた人物を対象に財務官が検討した上で決められていた[1]。自動的であったのは護民官を経験した平民(プレブス)出身者のみである。ローマ貴族達はノブレス・オブリージュの精神の模範的存在でもあり、戦場に赴く事も厭わず、必然的に戦死するものも多かったし(その最悪の例がカンナエの戦いである)、また古代ゆえの寿命の短さ、更に職を担えないほどに老衰した際には自ら身を引く者も多かったために、新陳代謝は十分に機能し続けた。

そして国家の要職を目指すものには、成人とされる17歳からの約10年に亘る軍隊経験が必須であった。アテナイアレクサンドリアなどの最高学府で勉学するよりも、軍団での実体験を積むことの方が重要視されていたのである。

それらの官職を経て、軍事と深く関わる国政上の経験や見識を備えたエリートたちを集めた機関が元老院であり、国家の要職に送る人材のプールとしての役割を果たしていた。終身制であったが故に選挙での票取りに気を回すことなく、長期的な視点に立って国家の道を指し示すことが期待された(その分、官職はほぼ全て選挙で選出される)。ローマは共和制とはいえアテナイのような民主政ではなく[2]、元老院という少数のエリートたちによって主導される寡頭制国家であった。

しかしポエニ戦争では十全に機能したこの元老院主導体制も、ローマが超大国となっていくにつれて議員の質も低下し、体制も硬直化して機能低下していった。特に属州総督の地位を利用しての蓄財は共和制期を通じての問題であり続けた。ルビコン川からメッシーナ海峡までのイタリア半島が領土であった時代の体制では、地中海世界全域を勢力圏とする時代にはおのずと対応し切れなくなっていく。そんな中で誰よりも早くローマの抱えた問題点を見抜き、その具体的対策を打ち出したのがグラックス兄弟である。しかし「武力を持たず、元老院という体制外にある若僧」たる護民官という立場の弱さ故に失敗し、惨殺される。武力を持ち執政官・独裁官という立場で改革に当たったのがルキウス・コルネリウス・スッラガイウス・ユリウス・カエサルである。スッラは体制の手直しをすることでその存続を図り、カエサルはそれを打倒しての新体制樹立を目指した。後者の帰結が帝政である。

そして帝政時代になると、元老院はしだいに皇帝の統治に組み込まれていき、その地位は低下していった。また軍団勤務の義務も緩くなっていった。それでも五賢帝時代までは、「元首」である皇帝の正統性、後継者を承認する機関として重要であり、皇帝の発した勅令も恒久法制化するには元老院の議決を必要とした。そして軍団叩き上げの人物でも政務に関わらせるために、皇帝の推挙によって元老院の議席を得たりした。トラヤヌスなどの皇帝たちも元老院の権威を尊重しながら統治を行なった。

だが、続く軍人皇帝時代になって帝国各地の軍団が勝手に皇帝を擁立するようになると、帝位の承認機関としての地位も失なわれ、ローマ市の市参事会(市議会)程度の役割しか果たせなくなっていった。また皇帝ガリエヌスの時代に元老院を軍務から締め出す法を可決したことで、軍務と政務のバランスの取れた人材を輩出する手段も絶たれてしまった。

ローマ元老院は476年西ローマ帝国の滅亡後も存続しており、西ローマを滅ぼしたオドアケル、それを滅ぼした東ゴート王国も元老院を尊重する姿勢を示していたが、イタリア半島ランゴバルト人が侵入した7世紀頃になると消滅した。

[編集] コンスタンティノポリス元老院

330年コンスタンティヌス1世による新首都コンスタンティノポリス開都に伴い、コンスタンティノポリスにも元老院が置かれたが、主に政府の高級官僚が元老院議員となっていたため、最初から皇帝の諮問機関としての役割を果たす機関であった。

このコンスタンティノポリスの元老院は東ローマ帝国にも引き継がれ、皇帝の不在時に国家を代表する役割や、皇帝が後継ぎを指名せずに死去した場合に後継皇帝を指名する役割を果たした(皇帝は「元老院・軍隊・市民の推戴によってはじめて、帝位の正当性を受ける」という不文律があった。これは前述のローマ元老院の伝統を引き継いだためである)。

しかし、7世紀後半以降は一定以上の爵位を持つ高級官僚[3]を元老院議員とするようになり、元老院議員身分の世襲は認められなくなった。また、役割も儀式的なもののみとなった。しかし、あくまでも名目的ながら東ローマ帝国滅亡まで元老院という機関は存続した。

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

  1. ^ スッラの改革を経て、ほぼ自動に近くなっていく
  2. ^ ペリクレスの全盛時代に視察団を派遣してはいるが、その制度を取り入れることはなかった
  3. ^ 9世紀頃の東ローマ帝国では上から8番目の爵位である「プロートスパタリオス(筆頭太刀持ちの意)」以上が元老院議員身分とされていた。ちなみに、この爵位はテマ(軍管区)の長官などの官職を持つ者に与えられていた。

最終更新 2009年8月21日 (金) 09:43 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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