光復節 (韓国)
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| 光復節 | |
|---|---|
| 各種表記 | |
| ハングル: | 광복절 |
| 漢字: | 光復節 |
| 平仮名: (日本語読み仮名) |
こうふくせつ |
| 片仮名: (現地語読み仮名) |
クァンボクチォル |
| 文化観光部2000年式: | Gwangbokjeol |
光復節(こうふくせつ)とは、大韓民国における朝鮮の大日本帝国からの解放を祝う祝日である。
目次 |
[編集] 朝鮮の解放
朝鮮半島は1910年の大日本帝国による大韓帝国の合併、いわゆる韓国併合以来、大日本帝国の統治下にあったが連合国が大日本帝国に対し無条件降伏を呼びかけてきたポツダム宣言を受諾する旨を1945年8月15日に昭和天皇がラジオ放送で知らせると(玉音放送)、その知らせは朝鮮半島における大日本帝国支配下からの朝鮮民族の独立回復(後の光復)を意味するものとして朝鮮人には受け取られた。
朝鮮人は民族解放の喜びに沸き立ち[1]、朝鮮各地で日章旗が降ろされ大韓帝国時代からの国旗である太極旗が掲げられたと言われている。多くが共産主義者であった政治犯のほとんどが日本本土では10月10日まで釈放されなかったのに対し、朝鮮国内では8月16日と8月17日に釈放され、8月17日には朝鮮神宮が焼き討ちされた。大日本帝国からの朝鮮解放に呼応して朝鮮国内のさまざまな地域で共産主義者による人民委員会が自然発生的に結成されたとも言われている。[2]。
9月2日、大日本帝国政府は連合国への降伏文書に調印を行った。朝鮮においては連合国は朝鮮国内を米英中ソ4ヶ国による信託統治下におく予定だったが、予想よりも大日本帝国の降伏時期が早まったことで十分な準備期間を設けることができず[要出典]、独立解放された朝鮮のその後の歴史に大きな影響を与えた。米ソは互いの軍を朝鮮に進駐させる計画だったが日本軍の降伏を受諾する役割を北緯38度線の南北で分担することなどを決めているにすぎなかった。しかし、ソ連の満州攻略と南下は関東軍が満州中北部を放棄し南部に防御線を築く作戦を取っため急速に進展したが、実際にはソ連に朝鮮全土を支配する意思も可能性もなかった。[要出典]しかし、アメリカはソ連が朝鮮半島全土を占領することを恐れてソ連と交渉を持ち、急遽、北緯38度線を境に南をアメリカ合衆国軍、北をソビエト連邦軍で分割占領する形になってしまった。
米軍による日本本土占領やソ連軍による東欧諸国への占領に比べると、朝鮮占領については米ソとも準備が足りず、両占領軍が朝鮮の内情を把握していなかったことや占領政策が一貫しなかったことは、特に主要都市であるソウル市で大きな政治混乱を生む一因となった。このことは、その後の南北朝鮮への分断のみならず南北朝鮮内での統治にまで大きな影響を及ぼすこととなった。
ソ連軍は8月24日、大日本帝国が降伏文書に調印するよりも早く、また、分割占領線が確定するよりも早くに咸鏡南道咸興に到着したが、朝鮮半島北側の中心都市が平壌であることを知ると平壌へ後退した。この事実もソ連軍の南下が早すぎたことと米ソの準備不足を物語っている。8月26日までにソ連軍は平壌進駐を終え、ソ連側占領軍は大日本帝国政府の行政機関の存続を認めると布告したが、これが朝鮮人の不興を買っていることや実際に行政機能が失われていることを知ってすぐに取り消した。ただし、38度線以北については反発の度合い等、現在でも不明確なことが多い。ソ連軍では在ソ朝鮮人またはソ連生まれの朝鮮人を投入して占領政策を遂行しようとした[3]。9月19日にはソ連領内に退避していた後の北朝鮮・朝鮮民主主義人民共和国主席となった金日成ら元・満州パルチザンたちが元山に到着したが、彼らは各地に分散しすぎたり、地元の共産主義者と対立するなどして政治的主導権を得ることに失敗し、あらかじめソ連と取り決めた政治的役割を担うことがでいなかった。以降、金日成の権力基盤が安定するまで38度線以北では激しい権力闘争がつづき何度にも渡って粛清キャンペーンが繰り広げられた。
9月7日、アメリカ占領軍がソ連に遅れて上陸し、9月11日アメリカ占領軍は38度線以南で軍政を布くことを宣言した。朝鮮人は当初、日本からの解放者としてアメリカ軍の進駐を喜んだ。しかし、ソウルではすでに独立国家建設を準備する組織が誕生していたことも手伝って、アメリカが軍政を宣言したことや、朝鮮総督府が残した行政機構・警察機構及びその人員を引き続き用いたことが、大きな反発を生み、ソウルの政治情勢が乱戦模様を呈したことにも影響した。
分割占領がきっかけとなって、その後、朝鮮の南北分断で固定化されるに至り。1948年になると、38度線以南ではアメリカによる軍政が終了し、8月15日に大韓民国の独立が宣言された。 これに続いて、同年9月9日、朝鮮民主主義人民共和国の建国が宣言されたことにより現在まで続く朝鮮の分断国家としての歴史が始まることとなった。
[編集] 脚注
- ^ 敗戦すなわち植民地解放を意味しないにもかかわらず、「解放」として捉える見方が急速に伝播したことから、日本の敗戦が朝鮮支配からの撤退につながることを自明視する風聞が事前に飛び交っていたと推測されている。
- ^ 人民委員会の結成が自然発生的または自発的だったという点には疑義が呈されてから長い。特に北部については、東欧の事例から事前にソ連との接触があったのではないかとの推測もある。しかし、この点を検証し得る情報はなく、ソ連崩壊後にもなお38度線以北の人民委員会についてはわかっていないことが多い。
- ^ ソ連が占領政策のために投入した朝鮮人たちは後に排除対象となった。彼らをソ連系ないしソ連派と呼ぶことがある。金日成を参照。
[編集] 参考文献
- 金学俊 『北韓50年史』東亜出版社、ソウル、1995年。
[編集] 関連項目
最終更新 2009年11月5日 (木) 01:09 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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