全日本学生自治会総連合

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全日本学生自治会総連合(ぜんにほんがくせいじちかいそうれんごう、 All-Japan Federation of Students' Self-Governing Associations)とは、日本学生自治会連合組織である。

略して全学連(ぜんがくれん)ということが多い。「全学連」と表記した場合は、日本以外の国にある学生自治会の連合組織を指している場合もある。過去の経緯により、現在これを自称する組織は認知されているだけで5つあり、自らの正当性を自称している。

目次

[編集] 現在

現在は以下5団体が「全日本学生自治会総連合(全学連)」として並存し、それぞれが全日本学生自治会総連合としての正当性を主張している。5団体とも「全日本学生自治会総連合(全学連)」と名乗る。本項では各全学連について、上部または関連組織に「系」を付けて便宜的に区別する。

  • 民青系
  • 中核派系
  • 革マル派系
  • 革労協現代社派系
  • 革労協赤砦社派系

[編集] 民青系

日本民主青年同盟(民青)との関連があるとされる全学連である。学生から集めたアンケートなどをもとに省庁等に対する要請行動を行っており、2006年には国立大学の学費値上げをストップさせるなどの成果を上げたと主張している。

加盟学生自治会は180(大学は100)程度とされている。しかし、活動が確認できないとして代議員選出等の全学連での権利が停止されている学生自治会があることや、各学生自治会が全学連に払う加盟分担金合計の過半が立命館大学の加盟学生自治会からの加盟分担金である(2006年度実績による[1])など、活動実態は加盟学生自治会の数字よりは小規模なものとなっている。除名されたり、脱退を選択する学生自治会もある一方で、近年では崩壊していた自治会が再建されるなどして新たに加盟する自治会もある。

全員加盟制自治会の連合体であることを強調しているが、加盟自治会の会員でない学生が事務局員をしていたり、聴講生も学生自治会に参加できる東京経済大学に形だけ聴講生として在籍して全学連役員をするなどしている。

本部は東京都国立市にある。機関紙は「そがく(祖国と学問のために)」(月刊)。

[編集] 中核派系

中核派系とされる全学連である。

[編集] 革マル派系

革マル派系とされる全学連である。新左翼党派系の全学連の中ではもっとも大きな組織実態を有している。

[編集] 革労協現代社派系

革労協現代社派系とされる全学連である。 しかしその存在はあくまでも建前のみであり、実体はほとんど存在しない。機関紙『解放』上においても、学生の活動はほとんど報じられておらず、学生運動については唯一の拠点である九州大学を除けばほとんど存在していないものと推測される。全学連についても活動、大会の実施などはまったく報じられておらず、三里塚においてのみ全学連現闘団が登場するに過ぎない。

[編集] 革労協赤砦社派系

革労協赤砦社派系とされる全学連である。 革労協の現代社派、赤砦社派分裂の際、学生戦線はほぼ赤砦社派へと移行した。その後、両派は熾烈な内ゲバを展開し、その結果最大拠点の明治大学から一掃されることになった。現時点では一部大学の新聞会、サークルに影響力を有しているに過ぎず、もはや実態としては全学連と表現しがたい状況にある。

[編集] 歴史

[編集] 創立から初期の活動

全日本学生自治会総連合は、1948年昭和23年)9月に日本全国の国立公立私立の145大学によって結成された。初代委員長は武井昭夫である。

初期の全日本学生自治会総連合は、日本共産党の強い影響の下で、反レッドパージ闘争、朝鮮戦争反対闘争、全面講和運動などを行った。この時期に全学連で活動した者には、後の日本共産党議長不破哲三と副委員長上田耕一郎兄弟、後の日本社会党副委員長の高沢寅男田中角栄秘書となる早坂茂三などがいた。

[編集] 日本共産党への批判と独自の活動

日本共産党は、1951年10月に開いた第5回全国協議会(5全協)で武装闘争方針を決定。山村工作隊中核自衛隊などによる火炎瓶闘争などを展開したが、「武装闘争路線」は当時の国民の評価が得られず、党勢力は著しく衰退した。これに対し日本共産党所感派は、1955年7月に第6回全国協議会(6全協)で、「現在の日本は革命情勢にない」と総括、武装闘争方針を極左冒険主義だったと自己批判し、微笑戦術をとることに転換、国際派との統一を実現した。全学連ではこの方向に批判的なグループが、元国際派学生を中心としたブント結成に流れていく。その後全日本学生自治会総連合の指導部と、学生にも日常の要求に密着した日常闘争を求めるようになった日本共産党の指導部との間に溝ができ、全日本学生自治会総連合の主流派は独自の活動を行うようになっていった。

1956年(昭和31年)のスターリン批判ハンガリー動乱の影響で、全学連の主流派は、反日本共産党の立場を鮮明にし始めた。1958年(昭和33年)には、日本共産党本部での幹部会委員紺野与次郎への殴打事件を契機として日本共産党を除名された者を中心に、学生組織・反戦学生同盟を基盤として共産主義者同盟(ブント)が結成され、学生運動を指導することとなった。

全学連はこのブント指導の主流派と共産党指導の反主流派(全自連にのちになっていく)とに分裂したままで60年安保を迎えることになる。

[編集] ブント全学連

1960年(昭和35年)の安保闘争で学生運動は頂点に達したが、この闘争の総括をめぐりブントは解体することとなった。

[編集] 反主流派の動向 民青系全学連の再建

一方、60年安保闘争時の全学連反主流派は、全学連は安保闘争の過程で崩壊したと認識した。そして、全国学生自治会連絡会議(全自連)を結成し、構造改革派との確執、「安保反対、平和と民主主義を守る全国学生連絡会議」(「平民学連」)結成などの再建運動を経て、川上徹を委員長として全学連を「再建」した。この後、全国の学生自治会の過半はこの民青系全学連に組織されることとなる。

川上は後、民青同盟の学生対策担当として196770年(昭和42~45年)の全学連を指導したが、1970年代初頭の早乙女全学連委員長・早大ML研創設者の高野孟らとともに新日和見主義として批判され、1972年共産党から粛清された(新日和見主義事件)。

[編集] 全共闘の時期

1967年(昭和42年)の羽田闘争には三派「全学連」共産同(ブント)中核派社青同解放派)が登場した。その後、三派「全学連」は解体し、中核派「全学連」と社会党社青同解放派、共産同(ブント)系の反帝「全学連」が指導権を並立する。

60年敗北の総括をめぐる争いの中でブント各派をそして中核派を全学連執行部からたたき出した日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派(以下、革マル派「全学連」)は三派「全学連」設立の際にも参加することなく、東大闘争のさなか早稲田祭実行委員会指導部にいた解放派をこの実行委員会の指導権を巡って武力で早大から駆逐し、さらには東大駒場でも解放派を追撃した。

1960年代後期学生運動の頂点は、1969年(昭和44年)1月中旬に収束した東大闘争であったが、革マル派は全学連として独自行動をし、三派と構造改革派のプロ学同・フロントは全学共闘会議(全共闘)に結集していくことになり、他方、民青系全学連も組織総力を挙げて東大闘争を戦い、東大内部では東大民主化行動委員会が登場する。

東大では、民青系全学連と、反共産党系の全共闘系、革マル系の間で、1968年(昭和43年)11月22日の図書館前激突を皮切りに武力での衝突が繰り返された(東大闘争のレイテ決戦)。このなかで、民青系は、1968年(昭和43年)9月の法政大学での中核派・プロレタリア軍団参謀本部との激闘以来、本格的な実力部隊によって登場していた。後にこの共産党系の行動隊は「暁行動隊」として名をはせることになる。このころ、東大闘争では、一般学生中心の闘争収束に向けたクラス連合の活動もあった。

[編集] 内ゲバの時代へ

1972年(昭和47年)の沖縄返還反対闘争を中間点にはさみ、法大での海老原事件を最初として革マル派と中核派の武力衝突が激化し(立花隆著の『中核vs革マル』を参照)、さらには、赤軍派の登場と大菩薩峠事件よど号ハイジャック連合赤軍による内部リンチ殺人あさま山荘事件などが矢継ぎ早に起き、学生運動への市民の忌避感は増大して行った。早大での川口大三郎リンチ事件をめぐって革マル派に対する一般学生による糾弾闘争もあったが、学生たちが党派の内ゲバという殺人をやめさせる力は持ち得なかった。

こうして、学生運動そのものも下火となり、系統を問わず全日本学生自治会総連合も衰退していった。

[編集] 解放派系全学連の分裂

1990年代に入る頃には、全日本学生自治会総連合を名乗る団体は4団体存在していた。

1990年代終わり頃に上部団体と共に解放派系全学連が革労協現代社派系と革労協赤砦社派系の2つに分裂した。これ以後、全日本学生自治会総連合を名乗る団体が5団体存在することとなった。

[編集] 出典

  1. ^ 2009年度学友会費代理徴収の決定について(立命館大学学生部長) ただし現在リンク切れ

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク


最終更新 2009年11月22日 (日) 09:56 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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