八女茶

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八女茶(やめちゃ)は、福岡県八女市筑後市および八女郡内各町村で生産される日本茶のブランド。

目次

[編集] 概要

福岡県筑後地方南部の筑後川の支流である広川や花宗川、矢部川とその支流星野川に広がる流域で栽培されるお茶。

八女は古来よりお茶の栽培として理想的な条件が整っている地域とされ、筑後川と矢部川 両河川から運搬された土砂(腐葉土)が交互に堆積した沖積平野からなっており、そこで栽培されたお茶は味が濃く甘みが強く感じられるのが特徴。また(朝霧や川霧)の発生しやすい土地柄で山間部ではなだらかな山々が日の光を適度に遮り、古くから天然の玉露茶として珍重されてきた。

八女地方は日中の気温が高く、夜間は冷え込む特有の内陸性気候と、年間1600mm~2400mmの降雨量が、周瑞の学んだ中国蘇州の霊巌山寺付近の気候に近く、風土的に茶の栽培に適していたとされる。

また、八女地方では「あまおう」ブランドに代表される苺、「巨峰」ブランドのぶどう、みかん、キウイ、なし、かき、もも等の果物、米、小麦などの穀物、栗、梅、タケノコ、蜂蜜など様々な農産物が採れる土壌の豊かさや複数の河川から良質な水の恵を受け、お茶も日本有数の高級茶産地として全国的に知られている。 とくに玉露の生産量は日本一(約45%)。平成17~20年度の全国茶品評会で4年連続の農林水産大臣賞を受賞している。特に19年度は、玉露の部の1位から26位までを独占し、他産地を圧倒した。なだらかな傾斜山地に受賞した玉露茶園が集中し点在しており、八女郡黒木町から星野村にかけての中山間地で多く見られる。 最も簡単に見やすいのは九州自動車道八女IC付近の上り線。(第61回全国茶品評会玉露の部


[編集] 歴史

[編集] 発祥

鎌倉時代 建久2年(1192年)宋で学び帰国した栄西禅師は肥前国脊振山(現在の佐賀県神崎市脊振町)の石上坊に携えてきた茶の種を播いて、この国で最初の茶樹を栽培した。

同じく建久年間に栄西禅師は筑後国山本村(現在の福岡県久留米市山本町豊田2287)の千光寺に茶園を拓いた。 千光寺は末寺を生葉郡星野村(現在の八女郡星野村)に大円寺、上妻郡川瀬村(現在の八女郡広川町川瀬)に円通寺 など各地に抱えていたため、製茶法と共に僧侶の間に薬として広まっていった。 栄西禅師によって伝えられた製茶法は「蒸して、ついたり擂ったり焙ったり」して作る現在の蒸製抹茶の原型であったと云われている。

応永13年(1406年)には、明国より帰国した学僧、栄林周瑞(えいりんしゅうずい)が地元の庄屋松尾太郎五郎久家(まつおたろうごろうひさいえ)の援助を受け筑後国鹿子尾村(現在の八女郡黒木町笠原)に霊厳寺を建立、久家に持ち帰った茶の実を分け与え、明の釜炒製法と喫茶法を伝えたとことが当地方の茶の発祥とされる。

その後、室町、安土桃山時代と茶は集落ごとに細々と生産された。

[編集] 江戸時代

江戸時代中期(十八世紀中頃)になると、この地より出荷される「鶯」、「初花」と称する銘茶が宝暦明和年間(1751年~1771年)を通じて、京阪地方に於いて「鹿子尾茶」として人気を博した。 しかし当時は現在の茶園や茶畑のような栽培ではなく、自生している山斜面の茶を収穫していたため生産量は安定していなかった。

江戸時代後期(十九世紀)になると現在の日本緑茶の原型である宇治式製茶が伝えられ、天保2年(1831年)に上妻郡山内村(現在の八女市山内)の古賀平助が試製、また同年、同村の大津簡七も宇治から茶師の吉朗兵衛らを雇い試製した。 この当時も 茶は限られた一部の人々の嗜好品であったため、流通量は少なく、また当地域の茶に対する商業資本の脆弱さから限界もあり、生産量はのびなかった。(江戸時代は江戸、京都、大阪を中心とした市場で構成され、嗜好品はその市場のさらにごく一部の富裕層のために作られていた。その市場には主に宇治からお茶が供給されていた。)

[編集] 江戸時代 開国期

安政3年(1856年)に長崎の出島で茶貿易商 大浦慶がイギリス人の貿易商人ウィリアム・オルトと茶の取引を開始すると、当地方の茶も貿易品として注目されるようになり、文久三年(1863年)長崎港にて英国人と直接取引を開始した。

それと同時に安政6年(1859年)江戸幕府が、箱館、新潟、横浜、神戸、長崎を開港すると、日本からアメリカに輸出する緑茶も年々増加傾向をたどり、当地方でも緑茶の商品生産を目指した取り組みが行われるようになった。 それにより八女地方の東部の山々にはいたるところの茶園が見られるようになった。 しかしこの当時も、茶園は茶樹を山に植えているだけの粗放なものであったため、茶葉の生産も栽培というよりむしろ採取の形で行われ、さらに製造技術も未熟な、旧来からの釜炒り製法で行われ、特に輸出を急ぐあまり日光乾燥や日陰干しなどの十分に乾燥されないまま出荷された茶は、色が悪く香りがないためアメリカでは大きな問題となっていった。

[編集] 明治時代

明治に入り、山門郡(現在のみやま市)でも清水寺の住職田北隆研が茶師を養成し、青製煎茶製法の転換を図ったが、それでも生産量は伸びなかった。 そしてついに明治20年アメリカは[粗悪茶輸入禁止条例]を出し、明治政府は各地で茶の取締りを強化した。当地方の茶も多くの地方の「雑茶」とともに輸出から脱落していった。

紅茶の奨励  しかし一方で、当時イギリスで急激に輸入量の増加していた「紅茶」が明治政府の外貨獲得政策で注目され、八女地方でも欧米露向けに紅茶の生産が伸び始めた。当地方での蒸製緑茶への転換は一時沈静化した。 明治六年(1873年)県の指導で大津簡七が初めて紅茶の生産を行った。 八女郡内における紅茶製造の奨励は、大正年間まで行われ、この間の当地方の茶業は紅茶史の観を呈したほどであったという。

[編集] 大正時代

大正時代に入り、欧州諸国の植民地でプランテーション農業とアッサム種での栽培による高品質で安価な紅茶が大規模に流通されるようになると、それは国際市場(特にイギリス市場)を席巻し、日本国内の紅茶輸出はユーラシア大陸(ロシア、アフガニスタンなど)に向けられることになる。 しかし結果として世界最大の紅茶消費国であるイギリスが紅茶生産に踏み切ることと、紅茶を飲む習慣のなかった日本にがその嗜好を生産に反映させることができかったことは、次第に衰退を招く要因になっていった。 輸出商品としての日本の「茶」は世界市場の動向を受け、再び国内市場へ向け生産されていくことになる。


緑茶の改良 八女地方でも国内市場向けに生産を行うようになり、当時、釜炒茶よりも人気のあった蒸製緑茶に再び注目が集まり、その当時全国の茶市場を席巻していた静岡製(宇治製に改良を加えた現在の煎茶)を手本にするべく、静岡から技師を迎え、静岡製煎茶の伝習を行い、茶園管理を徹底し、全面的に蒸し製手揉み(現在の煎茶)への転換を行っていった。

この製茶転換での成功を機に、大正初期 八女郡西部の丘陵地帯 で行われていた櫨(和ろうそくの原料)の生産が電球の発明により衰退してきていたことも重なり、櫨の代わりに茶園が造成され始めた。

この西部櫨地帯における茶園の造成が、東部山間地帯における茶の転換と軌を一つにしたことは、当地方の茶業の発展を基礎付けたものとなった。

八女茶ブランドの成立 大正14年(1925年)には八女郡福島町(現在の八女市本町)で行われた物産共進会 茶の全国品評会で、当時の福岡県茶業組合理事長 許斐(このみ)久吉がそれまで「筑後茶」「笠原茶」「星野茶」、など様々な地域名で呼ばれていたこの地方のお茶を組合員の承認を得て、「八女茶」と統一、産地のブランド化として品質と流通の両面で拡大を図っていった。

[編集] 施設

霊厳寺境内には「八女茶発祥記念館」があり、歴史の一端を垣間見ることが出来る。また、毎年八十八夜には「献茶祭」が催される。http://www.town.kurogi.fukuoka.jp/02/03/04.htm

八女郡星野村には「茶の文化館」があり、玉露の試飲などができる茶の体験施設となっている。http://www.hoshinofurusato.com/tyanobunka/

最終更新 2009年10月30日 (金) 14:30 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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