八幡神

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八幡神(はちまんしん、やはたのかみ、やわたのかみ)は、日本独自で信仰される弓矢(ゆみやかみ)・武神(ぶしん)である。神仏習合時代には八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)とも呼ばれた。

八幡神を祀る神社八幡神社(八幡社・八幡宮・若宮神社)と呼ばれ、その数は1万社とも2万社とも言われ、稲荷神社に次いで全国2位である。一方、岡田荘司らによれば、祭神で全国の神社を分類すれば、八幡信仰に分類される神社は、全国1位(7817社)であるという。

目次

[編集] 総本社

八幡神社の総本社は大分県宇佐市宇佐神宮(宇佐八幡宮)である。元々は宇佐地方一円にいた大神氏の氏神であったと考えられる。農耕神あるいは海の神とされるが、柳田國男は鍛冶の神ではないかと考察している。欽明天皇の時代(539年 - 571年)に大神比義という者によって祀られたと伝えられる。

宇佐八幡宮の社伝『八幡宇佐宮御託宣集』などでは、欽明天皇32年(571年)1月1日に「誉田天皇広幡八幡麿」(誉田天皇は応神天皇の国風諡号)と称して八幡神が表れたとしており、ここから八幡神は応神天皇であるということになっている。

この宇佐八幡宮のいわゆる元宮とされる、福岡県築上郡椎田町の矢幡八幡宮(豊前綾幡郷矢幡八幡宮)、現在の金富神社は、「原始八幡神顕現の霊地」であり他に類を見ないと言われている。

また今の福岡県の飯塚市大分(だいぶ、嘉穂郡筑穂町)にある大分宮(大分八幡宮)は宇佐神宮の本宮であり筥崎宮の元宮であると宇佐八幡宮の由緒書き「八幡宇佐宮御託宣集」に書かれてもいる。

[編集] 祭神

現在では、応神天皇を主神として、神功皇后比売神を合わせて八幡神(八幡三神)ともしている。神功皇后は応神天皇の母親であり、親子神(母子神)信仰に基づくものだといわれる。

比売神は八幡神の妃神と説明されることも多いが、その出自はよく分かっていない。八幡神は外来神で比売神はそれ以前に宇佐に祀られていた地主神だという説や、比売神は宗像三神または市杵島姫命であるという説、近年では比売神はヒミコでありアマテラスであるという説も登場している。シラヤマヒメとも。

八幡神社の祭神は応神天皇だが、応神天皇の父である仲哀天皇をともに祀っているところも多い。

[編集] 歴史

八幡」の文字が初めて出てくる『続日本紀天平9年(737年)で、読み方を同書天平勝宝元年(749年)の宣命に「広幡乃八幡(ヤハタ)大神」のように「ヤハタ」と読み、『日本霊異記』の「矢幡(ヤハタ)神」や『源氏物語』玉(タマ)鬘(カズラ)巻の「ヤハタの宮」のように「八幡」は訓読であったが、のちに神仏習合して仏者の読み「ハチマン」、音読に転化したと考えられる。

また、「ハタ」とは「神」の寄りつく「ヨリシロ」としての「」を意味する言葉のようである。

託宣をよくする神としても知られる。称徳天皇道鏡を次期の天皇にしようとしたときは八幡神の託宣があったとし、和気清麻呂は宇佐八幡の託宣を受けてこれを阻止した(宇佐八幡宮神託事件)。

東大寺の大仏を建造中の天平勝宝元年(749年)、宇佐八幡の禰宜の尼が上京して八幡神が大仏建造に協力しようと託宣したと伝えたと記録にあり、早くから仏教と習合していたことがわかる。天応元年(781年)には仏教保護の神として八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の神号が与えられた。これにより、全国の寺の守護神として八幡神が勧請されるようになり、八幡神が全国に広まることとなった。後に、本地垂迹においては阿弥陀如来が八幡神の本地仏とされた。

また、応神天皇が八幡神であるとされていることから皇室の祖神ともされ、皇室から分かれた源氏も八幡神を氏神とした。源頼義は、河内国壷井(大阪府羽曳野市壷井)に勧請し、壷井八幡宮河内源氏の氏神とし、その子の源義家石清水八幡宮で元服したことから、八幡太郎義家と呼ばれた。

石清水八幡宮は多くの荘園を有したため、それらの土地に八幡神信仰が広まった。

治承4年(1180年)、平家追討のため挙兵した源頼朝が富士川合戦を前に現在の静岡県黄瀬川八幡付近に本営を造営した際、奥州からはるばる馳せ参じた源義経と感激の対面を果たす。静岡県駿東郡清水町にある黄瀬川八幡神社には、頼朝と義経が対面し平家追討を誓い合ったとされる対面石が置かれている。

源頼朝が鎌倉幕府を開くと、八幡神を鎌倉へ迎えて鶴岡八幡宮とし、御家人たちも武家の主護神として自分の領内に勧請した。それ以降も、武神として多くの武将が崇敬した。

明治元年(1868年)、仏教的神号の八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)は明治政府によって禁止された。石清水八幡宮鶴岡八幡宮放生会は中秋祭に改めさせられた。しかしその後も根強く残り、太平洋戦争末期の陸海軍の航空基地には「南無八幡大菩薩」の大幟が掲げられ、航空機搭乗員(特に特攻隊員)の信仰を集めたりもした。

[編集] 朝廷と八幡神(八幡大菩薩の号)

養老4年(720年)、隼人の乱が勃発し、朝廷はこれを鎮圧しようとして宇佐八幡に神託を仰いだ。 すると八幡神は、「我(われ)征(ゆ)きて降(くだ)し伏(おろ)すべし」と自ら征討に赴いたという。

天平勝宝元年(749年聖武天皇が国家のシンボルとして奈良の大仏を建設するとき、宇佐八幡神は天皇と同じ金銅の鳳凰をつけた輿に乗って入京し、これを助けた。

神護景雲3年(769年)、道鏡天皇の位を狙い、宇佐神宮からその旨託宣があったと宣言した。しかし、朝廷和気清麻呂を宇佐神宮に遣わし、神意を確認したところ、「無道の者掃除(そうじょ)すべし」との託宣が下り、道鏡の野望は潰えたという。

この功労に感謝し、朝廷天応元年(781年)宇佐八幡に「八幡大菩薩」の号を贈った。大菩薩は仏教の号で、神仏習合の流れを背景に、宇佐八幡は鎮護国家・仏教守護の神として位置づけられた。

平将門は『将門記』では天慶2年(939年)に上野(こうずけ)の国庁で八幡大菩薩によって「新皇」の地位を保証されたとされている。このように八幡神は武家を王朝的秩序から解放し、天照大神とは異なる世界を創る大きな役割があり、武家が守護神として八幡神を奉ずる理由であった[1]

その一方で、八幡神は皇祖神として位置づけられ、天照大神とともに皇室を庇護したとする説もある。誉田八幡宮の創建と応神天皇とのつながりが古くから結び付けられ、宇佐神宮の代わりとなる石清水八幡宮伊勢神宮とともに「二所宗廟」として位置づけられた時期もある。また、『承久記』には「日本国の帝位は伊勢天照太神・八幡大菩薩の御計ひ」と記されており、天照大神に次ぐ皇室の守護神とされていた。中世においては、武家(あるいは源氏)の守護神と皇室の守護神としての八幡神の両面があったことになる。

[編集] 八幡大菩薩

僧形八幡神

この神は、北九州豪族宇佐氏の守護神だったが、数々の奇端を現して大和朝廷の西方の守護神となった。

平安時代以降、武士の尊崇をあつめて全国に八幡神社が勧請されたが、本地垂迹思想が広まると、僧形で表されるようになり、これを「僧形八幡神(そうぎょうはちまんしん)」という。

[編集] 全国の八幡宮・八幡神社

宇佐神宮
石清水八幡宮
筥崎宮
鶴岡八幡宮

[編集] 三大八幡

以下の四社のうち、「宇佐・石清水・鶴岡」もしくは「宇佐・石清水・筥崎」の三社を以て「日本三大八幡」と称する。

その他の八幡宮・八幡神社については八幡宮およびCategory:八幡宮を参照のこと。

[編集] 脚注

  1. ^ 関幸彦『「鎌倉」とはなにか』山川出版、2003年、150頁。

[編集] 関連項目

最終更新 2009年11月10日 (火) 09:53 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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