八路軍

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八路軍(はちろぐん)は、現在の中国人民解放軍の前身のひとつ。中国工農紅軍を改変した軍隊組織。

目次

[編集] 概要

毛沢東軍閥列強に対抗するには民衆による革命運動では限界があることを認識していた。一方中国国民党では、1920年代の時点で貧弱な装備ながらも軍隊を保持しており、蒋介石は軍隊を用いて反共クーデター上海クーデター)をおこし、第一次国共合作を崩壊させた。中国共産党はこの苦い経験から独自軍隊の創設を迫られることになった。

毛沢東による人民戦争理論(「点化した敵軍を、人民の海のなかに埋葬する」―人海戦術)に従い、共産党は中国各地への浸透工作を積極的におこなった。共産党に協力的な地域を、村落、都市に広げるのが目的である。これらの活動の結果、共産党勢力は草の根的に増殖し、遊撃兵力を各地に展開させることも容易になった。

1937年日中戦争支那事変)が勃発すると、八路軍の存在は日本軍将兵にとって脅威となった。八路軍はゲリラ戦で日本軍の後方をしばしば脅かし、きわめて小規模な戦闘では日本軍に勝利することもあった。八路軍が日本軍側に心理的動揺を与えたことは否定できない。このため「日本軍は点と線しか確保できなかった」と評される。一方、日本軍部隊も占領地域では自由に移動できたし、八路軍がこれを妨害することには限度があった。

日本の敗戦後、国共内戦が再開すると、八路軍は更に大きな力を発揮するようになる。満州では、関東軍の装備を接収したソ連軍は、これをそのまま八路軍に与えた[1]。また、日本軍の軍人や民間人を八路軍に加えることで軍事技術や専門技術を得た。空軍のなかった八路軍は林弥一郎少佐以下関東軍第二航空団第四練精飛行隊員を取り込み、東北民主連軍航空学校を設立し、航空部隊を養成した。また、正規の砲兵隊がなかったので日向勝を筆頭とした日本人教官の基で砲兵学校を設立した。医師や看護婦など、戦争に欠かせない技術を持つものは日本に帰国させず、国共内戦勝利後も長きにわたって徴用した。八路軍は国民党軍との戦いに勝利し、1949年10月の中華人民共和国建国に大きな役割を果たした。

[編集] 歴史

[編集] 前身

当初組織された共産党軍(紅軍)は、秋収蜂起を戦った毛沢東指揮下の中国工農紅軍と南昌蜂起で決起した朱徳翼下の紅軍が井崗山で合流し、中国工農革命紅軍第四軍となり、後に中国工農紅軍第四軍となった。第四軍はその後江西省瑞金の中華ソビエト解放区に本拠を置いたが、5回にわたる国民党軍の包囲攻撃にあい、根拠地を放棄する(長征)。

この結果、根拠地を江西省から陝西省に移動した中国工農紅軍は、西北紅軍と共同戦線を展開し、東進して山西省を伺う情勢にあった。

[編集] 誕生

このような情勢下、西安事件を受けて第二次国共合作が実現するや、1937年8月25日に中国工農紅軍と西北紅軍はともに解散し、新たに中国国民革命軍第八路軍と改組され、一般に八路軍と呼ばれることになる。

同時に中国南方地域では紅軍は中国革命軍新篇第四軍、或いは陸軍新篇第四軍と呼ばれる組織に改変され、一般に新四軍と呼ばれることになる。

[編集] 消滅

1947年に第二次国共合作が崩壊すると、八路軍は新四軍とともに中国人民解放軍に編入された(既述のとおり、そもそも「八路軍」、「新四軍」という名称は、国民党と共産党の提携「国共合作」に基づき共産党の紅軍が中華民国国民政府の軍隊に編入された際のものであった)。

[編集] 行動地域

八路軍は主に日本陸軍占領地域の後方攪乱とゲリラ戦を担当した。1940年8月から華北において百団大戦という鉄道や炭鉱に対する大規模なゲリラ攻勢を行い、日本軍を一時的に混乱させたが、日本軍の本格的な攻勢が始まると忽ち一掃された。

[編集] 戦果

八路軍はゲリラ戦を主に担当していたことから、正確な戦果は把握できないが、1944年までの戦果報告によると作戦行動は7万4千回、敵兵(日本兵及び満州国軍兵)79万人を殲滅したと主張している[要出典]。しかし、日本軍の日中戦争全期間中の全戦死者数は戦病死も含めて約40万人(それも中国国民党軍との戦闘による死者がほとんど)であり、また満州国軍にいたっては、戦死者どころか全兵力でも7万人強(1935年当時)しかいないことから考えると、八路軍がそのような戦果を挙げたとは到底考えられない。この数字は明らかに政治的なプロパガンダと考えられる。

しかし、2008年現在、中国国内では繰り返しこのような教育が行われており、共産党政府が樹立した以降に誕生した国民は「中国は日本に戦闘で勝利した」と信じている様子が見て取れる。

[編集] 規模

八路軍の兵力は1945年8月段階で80万を超える規模に達していたといわれている。

[編集] 組織

1937年8月段階

  • 総指揮官:朱徳
  • 副総指揮官:彭徳懐
  • 参謀長:葉剣英
  • 総政治部(第八路軍政治部)主任:任弼時
  • 正規師団

第115師団 師長 林彪 副師長 聶栄臻 政訓処主任 羅栄桓

第120師団 師長 賀竜 副師長 蕭克 政訓処主任 関向応

第129師団 師長 劉伯承 副師長 徐向全 政訓処主任 張浩(=林育英、林彪の親戚)、後に鄧小平と交代

各師団はそれぞれ二個旅団があり、他に独立団、騎兵営、砲兵営、輜重営、教導団、特務営などがあった。

また、紅軍にはソ連赤軍に倣って政治委員のポストがあったが、編入された国民革命軍にはそのようなポストは存在しないため、政治委員は便宜的に政訓処主任の地位に就いた。後に国民党との関係が悪化すると、政治委員制度は復活した。

なお、この編成は初期のものであり、八路軍の発展に伴って師団とは別に第一縦隊、第二縦隊、晋察冀軍区、陝甘晋綏連防軍、山東軍区などが誕生した(ただしその司令官は、三個師団の師長、副師長が兼任している場合が多い)

これら正規軍の他に、生産を離れ遊撃戦を行う地方軍、生産を離れず適時遊撃戦に参加する民兵が多数組織され、41年以降はこれらの非正規軍の活躍が目立った。

[編集] 評価

民衆に根ざした八路軍は兵站の確保も容易であると共に、一般市民に紛れ、攻撃は神出鬼没のゲリラ戦を行った。しかし、八路軍に戦況を左右するだけの力はなかった。また、日本軍と同盟関係にあった南京政府側の民衆組織「新民会」等が同様の民衆工作に取り組み、八路軍に対抗していた。

国民党軍(重慶政府軍)はアメリカからの援助により装備は優れていたものの、兵力温存を図り日本軍との正面決戦を避ける傾向があり、弱兵として日本軍に侮られた。一方、地域によってはむしろ八路軍を弾圧、もしくは八路軍に対して積極攻勢に出る場合すらあった(百団大戦直後の1940年10月にも重慶政府軍は八路・新四軍へ大規模な攻撃を行っている)。

国民党軍が兵力温存を図ったのは、抗日戦勝利後の共産党との決戦に備えたものであるが、この戦略は完全に裏目に出てしまう。抗日戦で果敢に日本軍と戦った八路軍が特に華北を中心に民衆の支持を集めたのに対し、国民党軍は民衆と完全に乖離してしまった。また国民党を援助していたアメリカも、国民党の態度に不審を覚え、むしろ八路軍に好意を抱く事となった(アメリカ陸軍から派遣されていたジョセフ・スティルウェル中将の解任もこれが原因)。

結果的に八路軍(=人民解放軍)はその後の中国革命戦争(国共内戦)において大衆の支持を集め、中華人民共和国政府の樹立に貢献した。

八路軍将兵に対しては「三大紀律八項注意」という規則があった。

また占領地で、ある程度の土地や家畜を持つ自作農を「富農」と認定し、人民裁判にかけ、処刑した(この基準もいい加減で、隣家より少しだけ広い土地を持つだけで粛清された者も多い)[要出典]。これは八路軍の力を見せつけて住民に恐怖心を抱かせるものであり、国共内戦時にも、中国住民の大量虐殺事件を起こしており、八路軍に対する否定的側面として語られている。ただし、このような残虐行為は地域内の貧者の嫉妬心、復讐心を満たす事にもなり、かえって大衆の支持を集める事に貢献した面もある。

国府軍への反発から戦後八路軍へ入隊する日本軍人も少なくなかった。八路軍に降った日本軍将兵は赤軍に降った将兵と比較すると内地帰還・収容所待遇などに厚遇を受けたため、八路軍に対しては好意的な意識を持つ旧日本軍将兵もいる。ただし特殊技能を持つ旧日本軍将兵(航空機・戦車等の機動兵器、医療関係)は永く留め置かれ、帰国が遅れた者も少なくない(代表例として、気象台勤務であった作家の新田次郎など)。

一方、八路軍から略奪暴行されたり、人民裁判等で処刑された日本人も多く、これらの人々や遺族は今も八路軍に深い恨みを抱いている。

戦後、八路軍に拘束された日本軍人が、逆さ吊りの上に4斗程度の水を飲ませる水責め、600発以上を超える全身殴打、すわらせて足と手を一緒にして縛って、これに太い梶棒を入れて吊るし上げる等の拷問を約15日加えられた上、「民主裁判」にかけて死刑宣告を受け、八路軍への協力を強要された事件も、被害者自身の口から衆議院で生々しく語られた[2]

[編集] 参考文献

[編集] 脚注

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  1. ^ ああ……悲劇の通化暴動事件!二十一、「八路来了」(パーロー、ライラー)
  2. ^ 昭和25年3月31日の衆議院海外同胞引揚に関する特別委員会における山田勝治参考人の証言。 [1]

最終更新 2009年9月26日 (土) 22:43 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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