六角氏綱
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六角 氏綱(ろっかく うじつな、明応元年(1492年)- 永正15年(1518年))は、南近江の戦国大名。六角高頼の嫡男。母は足利成氏の養女。官位は近江守。通称は四郎。法号は雲光寺殿光室亀公大居士。正室は足利政知の娘。
[編集] 概略
永正2年(1505年)世子時代、将軍足利義澄の参内に随従し御所唐門の警備を担当する。北近江の京極氏の内紛に際しては京極材宗を支援し、その勢力を削いだ。
永正3年(1506年)、父・高頼の隠居により家督を継ぐ。同年、細川澄之と細川澄元(どちらも細川政元の養子)が争い始めると、軍を率いて上洛、永正4年(1507年)まで在京して戦ったが、同年義澄を見限ったか突如帰国し、大内義興に擁立された足利義稙が帰洛して将軍に再任されると永正8年(1511年)義稙に助行の太刀と栗毛の馬・銭三千疋を献上して忠誠を誓っている。以後六角氏は一貫して義稙系の足利将軍に忠誠を誓うことになる。その一方近江に所領を持つ奉公衆(佐々木一族が多かった)を家臣化するなど、自家の勢力の拡大も図っている。
内政においては応仁の乱以降の戦乱で主戦場となった近江の復興に努め、先祖六角氏頼の開基である近江永源寺を修理料の寄進、段銭賦課の禁止など保護して再興させている(『永源寺文書』)。
永正13年(1516年)頃から永正初年京における戦いで受けた戦傷のため病床にあり、相国寺僧であった弟の吉侍者が僧籍のまま陣代として政務の一部を代行した。永正15年(1518年)、父に先立って27歳の若さで死去。六角氏の家督は吉侍者が還俗して定頼と改名して継いだが、子の六角義実が継ぎ、定頼は陣代となったとする説も一部にある。定頼は義実の出家後、近江守護・管領代に任ぜられており(『御内書案』『近江蒲生郡志』)、これを宗家当主就任と同一視した可能性があると佐々木哲ほかは主張しているが、学術的には他に支持するものはいない。
氏綱の息子の一人は伊賀守護であった仁木政長・仁木高長の仁木氏の家督を継承し仁木義政を名乗った。この頃近江隣国の伊賀は六角氏の同盟国または影響下にあり、六角氏一族が支配していたと推測される。仁木氏は伊賀の守護を代々勤める家柄であり、最盛時には伊勢ほか数ヶ国の守護を兼任した足利一族の名門であった。
義政は、仁木氏を継ぐことで足利義輝の御相伴衆となり、義輝没後は弟足利義昭に近侍した。子に仁木輝綱がいる。輝綱は足利義輝とともに三好氏と戦い、父に先立ち討ち死にした。子孫は河端氏を名乗り、鳥取藩士となった。
義政および輝綱は、仁木の名字と同時に佐々木の名字を併用して使っているため、実質的には六角佐々木一門として行動していたようである。
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最終更新 2009年11月22日 (日) 16:53 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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