劉裕
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| 武帝 劉裕 | ||
|---|---|---|
| 宋 | ||
| 初代皇帝 | ||
| 王朝 | 宋 | |
| 在位期間 | 420年 - 422年 | |
| 姓・諱 | 劉裕 | |
| 字 | 徳輿 | |
| 諡号 | 武皇帝 | |
| 廟号 | 高祖 | |
| 生年 | 363年(興寧元年3月17日) | |
| 没年 | 422年(永初3年) | |
| 父 | 劉翹 | |
| 陵墓 | 初寧陵 | |
| 年号 | 永初:420年 — 422年 | |
| ※幼名は寄奴 | ||
劉裕(りゅうゆう)は南朝の宋の初代皇帝。彭城県綏輿里(現在の江蘇省徐州市銅山県)が本籍であるが、実質は南徐州晋陵軍丹徒県京口里。ほかの宋王朝と区別するために、劉裕の建てた宋は後世の史家により劉宋と称されている。
目次 |
[編集] 出自
劉裕は漢の高祖劉邦の弟にあたる楚の元王劉交の子孫を自称していたが、実際には、東晋の下級官吏の出身であった。本人も即位後自らが楚王の末裔でないことを認めている。[要出典]また、本籍地が二つあるのはこの時代珍しくなく、曽祖父の劉混の時代に華北の戦乱を避けて綏輿里から京口に移ったためである。
生母は産後の肥立ちが悪化し、劉裕が産まれてから産熱で亡くなった。困窮した幼少時代であったとされ、乳母を雇う金も無かったため、何度となく父・劉翹に絞め殺されそうになったことがあり、見かねた義理の姉が代わりに劉裕へ乳を与えていたというエピソードも残っており、そこから寄奴という幼名が付けられた。そんな実父も劉裕が10歳の時に死去、わずかに有していた田での耕作や草履を商い生計を立てていた。劉道憐・劉道規は異母弟、隣接する彭城県安上里に住した東晋の左将軍で東興県侯の劉懐粛は劉裕のいとこに当たる(『宋書』「武帝紀」)。
[編集] 東晋時代
399年、五斗米道の信者を中心に起こった孫恩及び盧循の乱に於いて、劉裕は劉牢之の北府軍に従い戦功を立て、軍規の乱れが目に付く北府軍の中で劉裕の部隊は最も軍規が厳正であったとして信望を集めた。402年、西府軍を率いる桓玄は、首都の救援の名目で建業を制圧、政敵の劉牢之を殺害した。劉牢之を失った北府軍は解体され、劉裕も桓玄の支配に属することになる。
403年10月、桓玄は安帝を廃し、東晋の禅譲を受け、国名を楚として自ら皇帝を称したのに対して、404年2月劉裕は腹心である劉穆之と共に桓玄に対する反乱を起こし、同年5月桓玄を討ち取り、追放されていた安帝を復位させることに成功した。東晋を復興させた功臣として発言力を獲得した劉裕は、自らの立場をより強固なものとするため、劉毅ら反対派に対して容赦ない粛清を行った。
国内の反対派を粛清する一方、劉裕は410年より北伐を開始する。同年南燕を、417年には後秦も滅亡させ、一時的ではあるが洛陽、長安を奪還した。『資治通鑑』には後秦と同盟国の北魏の3万の軍勢をわずか2700名で撃破した記録がある。これらの功績により劉裕は相国に任じられ、宋王に封じられた。
[編集] 即位後
418年、劉裕は安帝を殺害、東晋最後の皇帝となる恭帝を擁立する。禅譲を計画した劉裕は、420年に恭帝から禅譲を受けて皇帝に即位し、後顧の憂いを断つため恭帝を殺害した。また、東晋の皇室一族を殺戮した。
土地政策においては、東晋で地方勢力が跋扈した教訓により、地方豪族の抑制政策を実施した。具体的には、404年に京口の大地主の刁逵(刁協の孫)を石頭という所で殺害し、刁氏の広大な土地と財産を貧民に分配した。その後、余姚虞氏の虞亮も殺害している。劉裕は大地主を解体すると同時に戸籍の整備を行った。また、東晋時代に分裂の元となった北府と西府を夫々皇族が治めるよう定めた。
このように宋の基盤を確固たるものとした武帝であるが、即位後わずか3年で60歳で死去し、長子である劉義符が即位した。
[編集] 宗室
[編集] 后妃
劉裕は皇后を封じていない。即位前の408年に豫章公夫人として死去した臧愛親を、即位後に臧夫人為武敬皇后として追封している。
- 張氏
- 孫氏
- 胡氏
- 王氏
- 袁氏
- 呂氏
- 孫氏
[編集] 子
[編集] 女
- 劉興弟
[編集] 参考文献
- 吉川忠夫 『劉裕―江南の英雄宋の武帝』 中公文庫、1989年、ISBN 4122016711
- 川勝義雄 『魏晋南北朝』 講談社学術文庫、2003年、ISBN 4061595954
- 川本芳昭 『中華の崩壊と拡大 魏晋南北朝』 <中国の歴史05>講談社、2005年 ISBN 4062740559
[編集] 関連項目
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