加藤一二三

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加藤 一二三(かとう ひふみ、1940年1月1日 - )は、将棋棋士。実力制6人目の名人棋士番号64。福岡県嘉穂郡稲築村(現・嘉麻市)出身。剱持松二八段門下(当初は南口繁一九段門下)。

現役棋士生活53年超は歴代1位であり、なおも更新中である。

聖シルベストロ教皇騎士団勲章受章(1986年)。紫綬褒章受章(2000年)。

目次

[編集] 戦績

[編集] 神武以来の天才

1954年に史上最年少棋士・史上初の中学生棋士[1]となる。「加藤一二三四段」という、漢数字の並びが話題となった。

さらには、同年度から順位戦で4年連続昇級して18歳でA級八段となるという偉業を成し遂げ、「神武以来の天才」と呼ばれた。A級順位戦の1年目は負け越したが、2年目(1959年度)で第19期名人戦(1960年)の挑戦権を得、タイトル初挑戦。七番勝負は大山康晴名人に1勝4敗で敗れた。

[編集] タイトル戦での大山・中原との対決

1960年代は、上記の名人戦を含めタイトル戦に7回登場したが、相手はいずれも大山であった。当時は大山の全盛期であり、毎年全部ないしはほとんどのタイトルを大山が占めていた。しかし、6度目のタイトル挑戦となった1968年度の第7期十段戦において、大山十段(名人を含む四冠)をフルセットの接戦の末に破り、プロ15年目にして、ついに初のタイトル獲得を果たした。

1970年代から1982年にかけては、一転して中原誠との対決の時代となる(将棋界が「大山時代」から「中原時代」に移行したことも意味する)。 中原との対戦成績は一時1勝19敗という大差であったが、本人は特に苦手意識はなかったという。この期間、タイトル戦に14回登場したが、そのうち中原との対決は9回にも上った。当初は、1973年度の名人戦、および、1976年度・1977年度の十段戦で、中原の前に3回連続で敗退した。ところが、1977年度の第3期棋王戦では、前年に大内延介から奪った棋王位を、中原五冠王を相手に3-0のストレートで防衛し、六冠独占を阻止した。1978年度の王将戦では中原から王将位を奪取し、(直後に棋王戦で米長邦雄に敗れるまでの束の間ではあるが)自身初の二冠王となった。

そして、1982年の第40期名人戦では、4勝3敗・1持将棋・2千日手の熱闘の末、念願の名人位を初めて手中にした[2]。自身2度目の二冠制覇でもあった。中原とのタイトル戦での対決は、中原が5回獲得、加藤が4回獲得という結果であり、全盛期の中原に対して大善戦した[3]。1983年以降、両者はタイトル戦で相まみえることはなかった。

その後は、1984年度の第25期王位戦高橋道雄から奪取するが、翌年に高橋に奪回され、以降、タイトル戦の舞台から遠ざかっている。

[編集] 順位戦

A級在籍期数(名人在位を含む)は通算36期であり、大山が44期、中原が29期であることを考えれば、非常に多いことがわかる。しかし、大山と中原が初のA級からの連続在籍であるのに対し、加藤の場合はA級とB級1組の間の往復がある。A級復帰への復帰を決めたB級1組順位戦の期は、第16期(1961年度)、第21期(1966年度)、第23期(1968年度)、第51期(1992年度)の4回(= 4往復)である。このうち最初の3往復は、A級陥落から1期での即復帰である。

しかし、2002年のB級1組以降は陥落の道を歩む。名人経験者として順位戦B級2組に陥落したのは史上初である。2006年度は最終戦までB級1組昇級争いに絡んだが、2007~2008年度に棋士人生で初となる降級点を2年連続で喫し、C級1組へ降級する。加藤が順位戦のC級で指すことになるのは、プロデビューから2年目の1955年度以来、53期・54年ぶりである。

[編集] 1000勝と1000敗

1989年8月21日、大山に次いで史上2人目の通算1000勝(特別将棋栄誉賞)を達成。さらに勝ち星を重ね、2001年の棋士会においては、自身が‘九段昇段後の1000勝’を達成したことを示し、(タイトル称号の「十段」ではなく)段位としての「十段」の新設を提案した。

一方、2007年8月22日の朝日杯将棋オープン戦予選、戸辺誠(当時四段)との対局において、史上初の通算1000敗を記録する(1261勝1000敗[4])。これは、加藤のキャリアの長さもさることながら、トーナメント戦(1敗すれば終わり)以外の対局、すなわち、タイトル戦の番勝負や挑戦者決定リーグ戦に数多く登場したことをも表す。なお、本人はテレビでこの話題に触れられた際、「150局くらいは逆転負けでした」と述べている。ちなみに、同日時点での通算敗数の史上2位は、有吉道夫九段の955敗(1061勝)である。

1954年8月1日に四段となってからの現役棋士生活53年超は、大山(1940年四段 - 1992年現役のまま死去)、関根茂(1953年四段 - 2002年引退)や現役最年長の有吉(四段昇段が加藤より9か月遅れ)、史上最年長の丸田祐三(戦争によるブランクもあるが1946年四段 - 1996年引退)らを押さえて歴代1位であり、なお更新中である。

[編集] 棋風

半世紀にわたる棋士人生を通して居飛車党を貫き、数々の定跡の発展に貢献してきた。また、よいと思った戦型は何度も何度も採用し続ける傾向にある。羽生善治は「作戦が立てやすいことは立てやすいが100%同じ戦法で来るとなると不気味でもある。一つの戦法を突き詰めていくのも一つの行き方だし、一局一局が確実に次への知識になる。悪いことばかりでもないようだが、作戦が読まれて相手の研究にはまる危険性を考えると現実にそういう人はほとんどいない。だが加藤先生は全然恐れておられないようだ」と書いている(羽生善治「羽生善治 好機の視点」小学館文庫、初出は月刊将棋マガジン)。

振り飛車戦の居飛車では、特に大山康晴との戦いの経験を生かして作り上げた居飛車舟囲い急戦の各種の定跡において、加藤の創案が多い。対三間飛車急戦も、加藤の創案した仕掛けが多い。基本的に振り飛車には急戦で立ち向かうが、大山康晴にタイトル戦で挑戦した際に居飛車穴熊を採用したことが2回ほどある。

相居飛車戦では、矢倉▲3七銀戦法や、中飛車に対する袖飛車からの急戦は「加藤流」と呼ばれ、多くの棋士が採用している。

何と言っても有名なのは、「加藤棒銀」と呼ばれるほど棒銀戦法の採用率が高いことである。四間飛車に対して居飛車穴熊が流行してもなお、加藤は棒銀で挑み続けている。その採用率の高さはプロ間で異彩を放っている。また、相居飛車の一つである角換わりの将棋においても、加藤は棒銀を採用する傾向にある(棒銀よりも腰掛銀を採用する棋士が多い)。

また、ひねり飛車横歩取り3三桂のような空中戦も得意としている。横歩取り3三桂戦法も、一時期後手番で採用した。さらに、その後は、後手番では矢倉中飛車を多用した。

長考派・1分将棋の神様

常に最善手を探すタイプのため、序盤から度々長考することが多い。有名なのは1968年十段戦第4局で、一手に7時間も考えたことである(休憩時間も含む)。長考するため終盤では持ち時間がなくなり、秒読みに追い込まれることが多い。しかし、そこからがまた強く、「秒読みの神様」あるいは「1分将棋の神様」の異名を持つ[5]。その強さは早指しの棋戦でも発揮され、NHK杯戦では大山の記録にあと1つと迫る優勝歴7回を誇り、他の早指し棋戦(早指し選手権戦日本シリーズ早指し王位決定戦)でも数々の優勝をしている。ただし、NHK杯戦においては、1993年の優勝以来、決勝の舞台に登場していない(もっとも、1993年当時53歳での優勝は大山には及ばないものの早指し戦としては際だった年長記録である)。

[編集] 人物

将棋と同様、加藤の言動・思想には個性的な面が多々ある。2006年5月より「BIGLOBEストリーム」の「将棋ニュースプラス」では「ザ・加藤一二三伝説」が配信されている。また、2007年刊行の著書『一二三の玉手箱』(毎日コミュニケーションズ刊)において、加藤自身が逸話のいくつかについて解説を加えている。

対局での流儀
  • 右手で取った駒を左手に持ち替え、それを駒台に載せる前に、動かす駒を右手で盤にビシッと打ち付けるのが、加藤の独特のスタイルである。これは昔のアマチュア将棋指しには普通のしぐさであったが、プロでやるのはマナー違反とされている[要出典]
  • ネクタイに着きそうなくらい長く結ぶ。対局中、時折、両膝をついたまま体を起こし、長く結んだネクタイを締め直すのも特徴。
  • 対局時の出前は、鰻重など気に入った食事を毎回数年単位の長期に亘って昼夜連続で取り続ける。
  • 甘いものが好きで、対局中に板チョコをばりばり食べる。NHK BS2で放送された「大逆転将棋2007」における米長との「はさみ将棋名人戦・最終章・陣屋決戦」でも、通常の対局のときのように持参してきた板チョコを対局中に食べ始め(同時にVTRにコミカルなBGMが流れ始め)、スタジオでVTRを見ていた出演者達の笑いを誘った。米長は「俺にも食べさせてくれないか」と申し出て、加藤から分けてもらって食べた。ちなみに対局内容の方は、加藤が絶対有利の局面から米長が‘泥沼流’で引き分けに持ち込み、指し直しの末に米長が勝った[6](米長が‘はさみ将棋名人’を防衛)。
  • NHK杯戦で優勝した際、優勝セレモニーの祝辞で当時の日本将棋連盟会長・二上達也九段に、「アマチュアの人が(加藤の対局中の奇行を)真似すると困るのでマナーに気を付けて欲しい」と言われた。もっとも二上は著書で、そのようなしぐさは本人が形勢の容易でないと思っているときに出るもので、対局相手にとっては良い兆候だったと述べている[7]
クリスチャンとして
  • 敬虔なクリスチャンである。1986年にローマ法王ヨハネ・パウロ2世から聖シルベストロ教皇騎士団勲章を受章。加藤にとっては、この上ない名誉である。
  • 自戦記などを書くとき、必ずと言っていいほどキリスト教のことに触れる。「キリスト教について」という章名を入れることさえある。つまり、加藤にとっては、信仰と将棋とは切り離せないものである。「将棋世界」誌で自戦記を連載した際も、毎回必ず冒頭にキリスト教の話題を持ち出した。しかし、第三者から見れば将棋の内容とは傍目には関係ないことである場合が多い。
テレビでの解説役として
  • 体格から想像しにくいハイトーンの早口であり、NHK将棋講座の講師を務めたときも、やはり早口であった。2008年の第66期名人戦第3局の立会人を務めた際にNHK衛星放送の中継でゲスト解説も行ったが、解説に熱が入るあまり中継終了間際まで話し続け、司会者や放送解説の井上慶太らを慌てさせた。
  • 両手でボディーランゲージをしながら喋る。両手を高い位置から下ろすときに、大きな丸を描きながら下げるのが癖である。
  • 数字の「5」を短く発音する。たとえば、「△5三銀」の発音は「ごーさんぎん」が一般的であるが、加藤は「ごさんぎん」と発音する。
  • 2007年10月14日放送のNHK杯戦(羽生善治対中川大輔)で解説役を務めた際、最終盤で中川の玉のトン死(急転直下で羽生の勝ち)の筋に気づき、「あれー?! おかしいですねー。トン死じゃないですかー? 歩の数が・・・。 あれー?!」という驚嘆の声を連発した。さらには「NHK杯戦史上に残る大逆転」と評した。
  • 2008年6月22日放送のNHK杯(石田和雄北浜健介戦)では北浜のことを何度も北野さんと呼んだ。感想戦でも石田とともにしゃべりまくった。
トラブル
  • 当初の師匠は南口繁一九段であったが、1998年に、剱持松二八段の門下に変わった(変えた)。剱持とは以前から懇意にしており、また、剱持の師匠である荒巻三之九段(1993年に死去)とは家族ぐるみの付き合いだったという縁もあった。南口については「私が奨励会に入る時の師弟関係は親が勝手に決めた名目上のことで、私は師匠から一切世話にならなかった。私の師弟関係は無効であるにも関わらず、あたかも関係があったかのように扱われて、不名誉な思いをしてきた。また妻や妻の親戚の人達に長年にわたり不名誉で不快な思いをさせてきた。」との旨を述べている[8]
  • 第13期銀河戦阿部隆戦(2005年5月26日放映)の終盤で、桂馬を成らずで動かし、いったん指を離したが、直後に持ち直して成りに指し直してしまった。勝敗の記録自体は加藤の勝ちのまま変更されなかったが、「待った」の反則と確認され、処分として次期の銀河戦は出場停止になった[9]。(銀河戦の項参照)。
  • 2008年12月、自宅マンションそばで野良猫を餌付けしたため、ふん尿をまき散らされるなどの被害を受けたとして、マンションの他の住人や管理組合から、餌やり中止と慰謝料など約645万円の賠償を求める訴訟を起こされた[10]
その他
  • 昭和50年代のトップアマ棋士との駒落ち将棋に強く、昭和の真剣師小池重明にも勝利している。金銀の使い方のうまさから下手泣かせとして知られた
  • 2009年の名人戦(羽生-郷田)第2局で立会人を務めた際、羽生の封じ手が収められた封筒に対局者だけでなく自らもサインし、また、翌朝の封じ手開封の時には自分が封じ手を見る前に郷田に封じ手用紙を渡して見せるという趣向を見せた。これに関してNHK BS2の中継で司会を担当していた後藤理アナウンサーに問われると、「私がタイトル戦に出ていた当時は第三者である立会人もサインしていた」「封じ手を最も見たい人に先に封じ手を見せたのは、私の‘新手’です」と自慢した。

[編集] 昇段履歴

[編集] 主な成績

[編集] タイトル

タイトル 番勝負 獲得年度 登場 獲得期数 連覇
竜王 七番勝負
10-12月
名人 七番勝負
4-6月
82(第40期) 4 1期
十段 七番勝負
(終了棋戦)
68(第7期), 80-81 7 3期 2
棋聖 五番勝負
6-7月
2
王位 七番勝負
7-9月
84(第25期) 3 1期
王座 五番勝負
9-10月
棋王 五番勝負
2-3月
76(第2期)-77 3 2期 2
王将 七番勝負
1-3月
78(第28期) 5 1期
登場回数合計24、 獲得合計8期歴代7位タイ

(2008年度終了現在。最新は1985年度の王位失冠。)

[編集] 一般棋戦優勝

優勝合計23回

[編集] 在籍クラス

竜王戦と順位戦のクラスは、将棋棋士の在籍クラス を参照。

[編集] 将棋大賞

  • 第 4回(1976年度) 最多勝利賞・連勝賞・技能賞
  • 第 5回(1977年度) 殊勲賞
  • 第 6回(1978年度) 殊勲賞
  • 第 8回(1980年度) 殊勲賞
  • 第 9回(1981年度) 最優秀棋士賞・連勝賞
  • 第12回(1984年度) 最多勝利賞・最多対局賞
  • 第29回(2001年度) 東京将棋記者会賞

[編集] 記録(歴代1位のもの)

  • 最年少プロ棋士 14歳7ヶ月
  • 最年少A級 18歳
  • 最年少名人挑戦 20歳
  • 順位戦でのデビューからの4期連続昇級(加藤の他には中原誠のみ)
  • A級順位戦最多勝利 149勝
  • 2009年3月31日までの通算成績
対局数2305(歴代1位)、1272勝(現役1位[11])、1032敗(歴代1位)、タイトル戦の持将棋1
珍記録
  • 最年少A級陥落 21歳
  • 最多A級昇級(降級) 5回 

[編集] タイトル戦全成績

年度 タイトル 勝敗 相手 備考
1960 名人 ○●●●千● 大山康晴
1961 王将 ●●● 大山康晴 指し込み
1963 王位 ○●○●●● 大山康晴
1966 王将 ●●○●● 大山康晴
1967 王将 ●●○●○● 大山康晴
1968 十段 ●●○○●○○ 大山康晴 奪取
1969 十段 ●●○○千●千● 大山康晴 失冠
1973 名人 ●●●● 中原誠
1976 十段 ●○千●●○○● 中原誠
1976 棋王 ○○○ 大内延介 奪取
1977 十段 ○●○●●○● 中原誠
1977 棋王 ○○○ 中原誠 防衛、中原の六冠独占を阻止
1978 王将 ●○○○○ 中原誠 奪取、束の間の二冠王
1978 棋王 ●●○○● 米長邦雄 失冠
1979 棋聖・前 ●○●● 中原誠
1979 王将 ●●○●○● 大山康晴 失冠
1980 十段 ○●○○○ 中原誠 奪取
1981 十段 ●○●○○○ 米長邦雄 防衛
1981 棋聖・後 ●●● 二上達也
1982 名人 持●○●○千○●千○ 中原誠 奪取、「十番勝負」、二冠王
1982 十段 ●○●○●● 中原誠 失冠
1983 名人 ●●●○○● 谷川浩司 失冠
1984 王位 ○●●○●○○ 高橋道雄 奪取
1985 王位 ●●●● 高橋道雄 失冠

[編集] 栄典

[編集] 主な著書

[編集] 脚注

  1. ^ 加藤一二三がプロになったのは中学3年のときで、谷川浩司は中学2年でプロになっているが、加藤が早生まれで谷川が4月生まれのため、史上最年少は加藤である。
  2. ^ 谷川浩司は、この名人戦最終局の解説会(東京・将棋会館)で解説役を務めていた。谷川の夢は中原名人に勝って名人位に就くことであった。谷川は当時の心境について「加藤先生には申し訳ないが、中原先生に名人のままでいてもらわなければ困ると思った。(解説役を務める立場なのに)加藤先生の勝ちとなったときには呆然とした。」との旨を語っている(別冊宝島380「将棋王手飛車読本」)。翌年、谷川がA級1年目で加藤名人への挑戦者を得て、‘中原名人’ではなく加藤名人から名人位を初奪取することとなる。
  3. ^ 中原との対局が最も多かった棋士といえば米長邦雄であるが、中原の全盛期にあたるこの期間(1970年代~1982年)に関して言えば、中原を相手にして米長がタイトルを獲得した回数は3回のみである。
  4. ^ 加藤一二三九段・通算1000敗を記録(日本将棋連盟)
  5. ^ ただし、中原誠は、「加藤さんが‘1分将棋の神様’、‘秒読みに強い’とは言っても、随分、手を間違えている。むしろ、1分将棋・秒読みに強いと感じさせるのは‘羽生世代’だ。」と述べている。(別冊宝島380「将棋王手飛車読本」)
  6. ^ 先に3枚取れば勝ちというルールであったが、米長に3枚目を取られても負けたことに気づかず、次の手を指そうとした。
  7. ^ 二上達也著『棋士』(晶文社、2004年)。
  8. ^ 『将棋世界』1998年11月号
  9. ^ お知らせ(日本将棋連盟)
  10. ^ "野良猫に餌やりでトラブル 訴えられた将棋・加藤元名人の「言い分」". 2009-03-01 閲覧。
  11. ^ 同年3月31日付けで引退の中原誠(1308勝)を除く。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年10月14日 (水) 19:10 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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