加藤弘之

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  1. 加藤 弘之(政治学者)(かとう ひろゆき、1836年8月5日天保7年6月23日) - 1916年大正5年)2月9日)は日本の政治学者。本項目にて記述。
  2. 加藤 弘之(演出家)(かとう ひろゆき)は日本の監督演出家)。『有言実行三姉妹シュシュトリアン』より助監督を務める。主に東映製作の特撮テレビドラマに携わり、『燃えろ!!ロボコン』で監督デビュー。また別名義「時計屋」では劇中イラストも手掛ける。現在はスーパー戦隊シリーズのチーフ助監督として采配を振る。他の監督作品に『獣拳戦隊ゲキレンジャー』『炎神戦隊ゴーオンジャー』『侍戦隊シンケンジャー』、ネットドラマ『炎神戦隊ゴーオンジャーBONBON!BONBON!ネットでBONG!!』、なりきりムービー『侍戦隊シンケンジャー-特別幕-新侍英雄伝』がある。

目次

[編集] 概要

出石藩士で、後に男爵福沢諭吉森有礼西周中村正直西村茂樹津田真道らと、明六社を結成。

はじめは啓蒙思想の傾向が強かったが、後に社会進化論の立場をとるに至った。終生唯物論者であった。

哲学館(現東洋大学)創立時の顧問で、哲学館の三恩人の一人と呼ばれる。

[編集] 略歴

出石に現存する生家
  • 1836年(天保7年):但馬国(現在の兵庫県豊岡市)に、出石(いずし)藩加藤正照、錫子の長男として生まれる。
  • 1852年嘉永5年):江戸に出て佐久間象山に洋式兵学を学ぶ。
  • 1854年安政元年)には大木仲益(後に坪井為春(つぼいいしゅん)と改名)に入門して蘭学を学んだ。
  • 1860年万延元年):蕃書調所教授手伝となる。この頃からドイツ語を学びはじめる。
  • 1861年(文久元年):『鄰草(となりぐさ)』を著して欧米の立憲思想を紹介する。
  • 1864年元治元年):幕臣となり開成所教授職並に任ぜられる。維新後は元老院議官貴族院議員を務めるなど、様々な官職を歴任している。
  • 1869年(明治2年):「非人穢多御廃止之儀」を公議所に提出。
  • 1870年(明治3年):洋書進講担当の侍講に任ぜられる。『真政大意』を著し天賦人権論を紹介。
  • 1872年(明治5年):ブルンチュリの『国家学』を進講している(これは後に『国法汎論』として翻訳出版された)。
  • 1873年(明治6年):明六社に参加。「民撰議員設立論争」では尚早論を唱えた。
  • 1874年(明治7年):『国体新論』を発表。
  • 1877年(明治10年):東京開成学校の綜理に任ぜらる。
  • 1881年(明治14年):職制の改革によって東京大学の初代綜理となる。
    • 既に、1879年(明治12年)の講演「天賦人権説ナキノ説并善悪ノ別天然ニアラザルノ説」で、進化論の立場から天賦人権説を否定していた加藤だが、この年、海江田信義による批判をきっかけに、政府内でも問題化し文部卿 福岡孝弟に促されて、天賦人権論の立場から書かれた以前の著書である『真政大意』、『国体新論』の絶版を宣言。
  • 1882年(明治15年):『人権新説』を刊行し、社会進化論の立場から民権思想に対する批判を明確にし、民権思想家との論争を引き起こした。一般的には、この『人権新説』を境に、加藤は自らの思想、態度を変化させたものとみなされている。
  • 1890年(明治23年):東京大学を改称した帝国大学(のち東京帝国大学)の第2代総長となる。
  • 1893年(明治26年):『強者の権利の競争』(本書はDer Kampf ums Recht des Stärkeren und seine Entwicklungとしてドイツ語でも発表された)では、強権的な国家主義を展開した。東京大学総長を辞任。
  • 1900年(明治33年): 男爵位を授けられて華族となる。
  • 1906年(明治39年):7月帝国学士院長、12月枢密顧問官
  • 1916年(大正5年):東京府(現在の東京都)にて79歳で死去。

[編集] 家族・親族

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

先代:
渡辺洪基
帝国大学東京帝国大学)総長
第2代:1890年 - 1893年
次代:
濱尾新
先代:

西周
西周
細川潤次郎
東京学士会院会長
帝国学士院
第3代:1880年 - 1882年
第5代:1886年 - 1895年
第7・8代:1897年 - 1906年
次代:

西周
細川潤次郎
菊池大麓

最終更新 2009年9月5日 (土) 14:03 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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