加藤茶

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 加藤茶
本名 加藤 英文(かとう ひでゆき) 
ニックネーム 加トちゃん、カトちゃん、加ト茶、チャー坊
生年月日 1943年3月1日(66歳)
出身地 東京都世田谷区
血液型 A
身長 163cm
方言 標準語福島弁
最終学歴 学法福島高校
出身 クレージーウエスト
グループ名 ザ・ドリフターズ
相方 いかりや長介志村けん
芸風 コント
事務所 渡辺プロダクション

イザワオフィス
活動時期 1962年-現在
過去の代表番組 加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』ほか
他の活動 俳優ドラマーバンドボーカルこぶ茶バンド
  

加藤 茶(かとう ちゃ、1943年3月1日 - )は、日本ドラマー歌手・男性コメディアン俳優であり、ザ・ドリフターズの一員である。本名、加藤 英文(かとう ひでゆき)。身長:163cm。血液型はA型(長年AB型としていたが間違いが判明)。愛称は「加ト茶」「カトちゃん」「ヒデ坊」「チャー坊」など。父はギタリストの平八郎(たいら はちろう)。

目次

[編集] 来歴

[編集] ドリフ入りまで

東京都世田谷区に生まれ、すぐに愛媛県新居浜市に移る。実父もバンドマンであった。 幼い頃両親が離婚し、物心つく前に母親に引き取られ小学校から高校卒業まで福島県福島市で妹と共に暮らす。学法福島高校卒業後、1960年東京の叔母を頼って上京。

上京後、トロンボーン奏者を目指してスターダスターズのバンドボーイをやるが、ある日手当ての100円をマネージャーに催促したところ、マネージャーに100円を投げつけられ、頭に来てマネージャーと喧嘩してクビになる。その後、先輩から捨てておいてと頼まれたスティックを使い練習、ドラマーとしてクレージーウエストにメンバー入りし、仲本コージ(現・仲本工事)と出会う。

1962年、碇矢長一(後のいかりや長介)と同時期[1][2]に、「桜井輝夫とザ・ドリフターズ」にメンバー入り。

[編集] ドリフ加入後

1964年には、ドリフの初レギュラー番組『ホイホイミュージックスクール』にて、「加トちゃんぺ」のギャグが受け、一躍人気者となる。これは、付けの糊が剥がれやすかったために、度々2本指で押さえていたものがギャグとして通用したと本人が語っている。

1964年、ドリフ内部で発生したクーデター(詳細はドンキーカルテットとの分裂 を参照)の際、碇矢と共にドリフに残り、新生ドリフを立ち上げる。新生ドリフ結成直後、当時所属していた渡辺プロダクションの先輩・ハナ肇に「芸事で飯を食っていこうとするのなら、水に係わりのある芸名にした方がいい[3]。お前は、みんなから「加トちゃん」って呼ばれてるんだから、加藤茶にしなさい」と言われ、加藤茶となった[4][2]

1969年より『8時だョ!全員集合』(以下『全員集合』)にて、さまざまな一発芸をヒットさせ、1970年代前半には小学生の間でカリスマ的存在となる。この時代のトレードマークは禿げヅラにビン底メガネにちょびヒゲであり、現在タレントショップ等で売られている彼のキャラクターグッズも、それらを装着した姿をモチーフにしたものが多い。

社会や人間関係の縮図をディフォルメした初期のコントや映画に於いては、お笑い(いつも損をする役、イジメられ役、笑われ役)の中心で、ドリフメンバーの中で最も持ちネタやギャグが多かった。特に1972年から1973年までの間『全員集合』で毎週たった一度だけ「タブー」の曲に合わせて踊る「ちょっとだけよ」は大ブレークし日本のコントの歴史に残るギャグとなる。

この頃付き人兼居候として志村けん、運転手としてすわしんじ(現・すわ親治)が加藤の下についた。

新生ドリフは、『全員集合』終了までソロ活動を行なわせなかったといかりやは語っているが、加藤のみクレージーキャッツ植木等と映画で共演していた。

志村の人気がブレイクした後は一手にギャグを受け持つ存在から、志村とのコンビで笑いを生み出す存在へと立ち位置を変化させた。このことが、『全員集合』の後番組『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』『KATO&KENテレビバスターズ』へつながっていく。

[編集] 『全員集合』終了後

『加トケン』終了後は単独でバラエティ番組に出演する傍ら、俳優業にも進出。NHK新大型時代劇の『武蔵坊弁慶』ではそれまでのイメージを覆す、非常にシリアスな役を演じた。また「加トちゃんBAND」、「こぶ茶バンド」を率い、お笑いだけでなく、本来の持ち芸であるミュージシャンとしての活動も活発化させた。「はぐれ刑事純情派」では鑑識官を演じ、「自分の警官役といえばコントの、“自転車で走ってて壁にぶつかるお巡りさん”ばっかりだったのに、格好いい鑑識官とは……」と照れていた。

2003年3月1987年11月に結婚した夫人と熟年離婚したが、病気療養中のいかりやに心配をかけないようにとの心遣いから、このことはいかりやの死後まで公表しなかった。最近はバラエティ番組においても「家に帰っても誰もいないんだよ」などと自らの離婚をネタにしたトークを繰り広げることが多くなった。特に『行列のできる法律相談所』において離婚を決意した日のことを語ったときにはあまりの内容の重さに司会の島田紳助から「その続きは『その時歴史が動いた』でやってもらいましょ」といわれるほどだった。

2004年、いかりや長介が死去したことにより、ザ・ドリフターズの最古参メンバーとなった。いかりや長介の葬儀の際には、最古参メンバーということで、年長の高木ブーに代わって弔辞を読んだ。この中で、加藤は「これからオレたち4人で、ドリフターズ、やっていくよ。あんたが残した、財産だからね。(中略)あ、でもそっちからいきなり『全員集合』って言われても、俺たちすぐには行けないからね…」と語りかけた。

2006年10月30日、微熱と体のだるさが1ヵ月以上続く体調不良により緊急入院。同年12月のこぶ茶バンド公演も出演中止が決まった。病名は、“Stanford A型大動脈解離”であると本人が2006年12月26日の会見で発表、生還を果たしリハビリ中であることを語った。実際の会見では「Standard A型大動脈解離」と言い間違えている。[5]この際に看病してもらったのは、熟年離婚した元妻であった。記者会見の際にギャグを求められ、「加トちゃんペッ!」をした。またこの手術により、長年AB型だと思っていた血液型が、検査により本当はA型であると判明した[6]。仕事復帰は困難とも言われたが、わずか4ヵ月で『鬼嫁日記 いい湯だな』に出演する形で復帰した。

[編集] 人物像

  • ドリフターズを辞めようとした事ある。いかりやに反旗を翻した小野ヤスシらがドンキーカルテットを結成する際に加藤を誘うが、プロダクションといかりやの慰留の説得によって残留した。
  • スピード狂のところがあり、1970年交通事故を起こしたり、1987年には首都高速を80キロオーバーの時速143kmで走るなどのスピード違反で数回処分歴があり、ドリフ大爆笑もしものコントでこの事がネタにされた事があった。後の『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』でも、カーアクションシーンでの運転(実際のアクション部分はスタントか代用人形だった)はだいたい加藤である。ただし、これは志村が運転免許を持っていないため志村の運転だとリアリティに欠けるというのも一因である。その上、『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』が放送期間中で交通事故を起こし、それが新聞に載った上に放送日の土曜だったため、探偵コントのセットで番組冒頭で一分ほどの加藤本人による謝罪に近い映像が流れた事もある。
  • ドリフターズメンバー全員の共通の趣味であったクレー射撃は加藤が一番巧く、公式大会での優勝記録も多数残しており、本人曰く「協会からオリンピック代表候補の打診もあったが、ドリフが一番忙しい時期だったので、事務所に行かせてもらえなかった」というほどの腕前であった。なおクレー射撃の銃所持免許は、前出の度重なる交通違反による前歴から取消処分を受けている。
  • 「『全員集合』全盛時代には、クラブの遊興費だけで、ひと月に3000万円は使っていた」[7][2]と告白したことがある。ただし、普段はリハーサルや本番やほかの仕事で忙しく、これはドリフターズの夏休み期間のみの話である[8][2]。「そんなお金、ぜ〜んぶなくなっちゃったね」と、あっさり言ってのけた。その発言の場に居合わせたウッチャンナンチャンをはじめ、ゲストたちは驚きを隠せなかった。
  • ギャンブルは穴狙いで、『木梨サイクル』にて見事的中させる様子が放映された。大量の札束をポーカーフェイスで受け取る加藤に対し、木梨憲武が「加藤さん…」と言ってその後絶句したが、加藤は「え、なに?」と一切興奮した様子を見せなかった。
    • 一時は仲本・高木と三人で競走馬を所有していた(=馬主だった)。加藤曰く「仲本に誘われて初めて大井に行って馬券を買ったところ、いきなり1万5千円(150倍)の馬券が当たり、しかもそれを5千円も買っていたので、勢いに乗ってその金で馬を買っちゃった」という。購入後1年ほど経った頃、仲本の「そろそろ売った方がいい」との意見でその馬を売却するが、それまでの間に7勝を挙げ「買った額以上には稼いでくれた」らしい[9]
    • それ以来競馬にどっぷりはまり、日本国内だけでなく海外でも競馬場に足を運んでいる。過去にはロサンゼルスに行った際に近隣の競馬場(名前は忘れたとのこと)に行き「英語がわからないので見た目だけで馬を選んで、12レース中7レース馬券を的中させた」こともあるという[9]
  • プロ野球読売ジャイアンツファンである。

[編集] タレントとしての評価

  • いかりやが著書『だめだこりゃ』で述べたところによると「ネタを積極的に出すタイプではなかったが、笑いを誘う間が良かった。ミュージシャンとしての才能、特にリズム感がお笑いでも生きている」。
  • 最近では、それぞれの県や観光地ごとに自身がキャラクターモデルとなった「御当地加トちゃん」が発売されている。「御当地加トちゃん」の第1号は、2000年静岡県限定で発売された「茶っきり加トちゃん」である。

[編集] 加藤茶のギャグ

  • 「加トちゃんでございますよ〜」
    • このギャグから芸名がハナ肇によって「加藤茶」と付けられた。
  • 「1、2、3、4、やったぜ加トちゃん!!ぐるりと回ってウンコチンチン!」
  • 「加トちゃんペッ!」
  • 「ちょっとだけよ、あんたも好きねえ〜」
  • 「いかりやに〜おこられた〜」
  • 「仲本(加藤)さん、○○されましたなあ」「いや〜、参った参った」(仲本工事とのペア)
    • 初期ではその後に荒井注が「私も○○されましたなあ。いや〜、参った参った」と言おうとして、いかりやに突っ込まれるパターンがあった。
  • 「痛いの痛いの飛んでけー」
  • 「俺たち○○するかなあ?」「分かりません。」「ピッカピッカの〜1年生、ビシッ!」(志村けんとのペア)
  • 「タバコ、する?」
  • 「ひっきしっ!!(くしゃみ)」
    • 加藤の代表的ギャグのひとつ。南原清隆にワールドクラスだと言われた。
    • くしゃみの後に、上から降って来る金盥等に直撃されるのがお約束となっている。
  • 「どうもすんずれい(失礼)しました〜」
    • お巡りさんに扮し『女のみち』を歌い自転車で登場する際の挨拶。
  • 「ヴエー(吐き真似)」
  • 「おーおー珍し珍し」
  • ヒゲダンス
  • 歌舞伎役者
  • 牛乳飲み
  • 「バッカみたい」
  • 「5秒前!4、3、2、1」「でーん」(変な顔をする)
  • 「まぁこのぉ〜」

[編集] 出演

ここではソロ活動のみ記述する。ザ・ドリフターズとしての出演作品はザ・ドリフターズを参照。

[編集] テレビ

ほか。

[編集] 映画

[編集] ラジオ

[編集] CM

[編集] ゲーム

[編集] ディスコグラフィ

  • はじめての僕デス(志村けん東村山音頭との両A面)
  • ラップミヨちゃん
  • 加トちゃんのスキャットマン
  • ズンドコ伝説
    • ドリフターズのメドレーで、同名アルバムでは、エンディングのセリフが大人向けになっている「ADULT VERSION」で収録され、その後に出たドリフターズベストアルバム「ドリフだよ!全員集合(青盤)」にもこのバージョンで収録された。しかし、「ザ・ドリフターズベストコレクション」には、シングルバージョンとは記載がない物のエンディングのセリフからシングルバージョンで収録されていると思われる。

[編集] 新聞掲載

[編集] 関連人物・項目

[編集] 脚注・出典

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  1. ^ 正確には加藤が先に「桜井輝夫とザ・ドリフターズ」に加入していた
  2. ^ 朝日新聞『人生の贈りもの』より
  3. ^ サラスヴァティー弁才天信仰からの連想と思われる
  4. ^ 加藤へのインタビューでは、当時普段から「加藤ちゃんでございますよ」と自ら言っていたのをハナ肇が聞き、現在の芸名となったと語っている
  5. ^ 加藤の場合、過去に冠動脈ステント挿入術の経験があり、この関係で抗凝固剤の服用をしていたために、緊急手術が必要な症状だったにもかかわらず、薬の効果が弱まるまで手術に踏み切れなかったようである。加藤の術式はこの冠動脈治療も同時に行うためにバイパス術も同時に行われ、かつ抗凝固剤によるリスクを最小限にするために低体温にしての施術となり、通常の上行大動脈置換術より難易度が格段に高く、3時間近い心停止と人工心肺使用を伴う10時間にわたる長時間の手術となった。
  6. ^ 2007年5月15日放送の『ライオンのごきげんよう』より
  7. ^ 銀座ではよく勝新太郎を見かけていた。勝の豪快な飲みっぷり伝を語っている
  8. ^ 更には『全員集合』OA時も年に2〜3回ラスベガスへ行き、本場のショー見学・勉強やギャンブルをしていた時期もあったと言う
  9. ^ 競馬場の達人』(グリーンチャンネル)第66回

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年11月20日 (金) 13:17 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【加藤茶】変更履歴

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