加賀 (空母)

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1942年、1941年12月のアメリカ海軍による識別用写真
艦歴
起工 1920年7月19日
進水 1921年11月17日
竣工 1928年3月31日
その後 1942年6月5日戦没
除籍 1942年8月10日
性能諸元 (竣工時)
排水量 基準:26,900t
全長 238.5m
全幅 29.6m
吃水 7.9m
飛行甲板 171.4m x 30.5m (上段)
主缶 ロ号艦本式缶専焼缶12基
機関 ブラウン・カーチス式タービン4基4軸 91,000hp
最大速力 27.5ノット
航続距離 8,000カイリ / 14ノット
乗員 1,269名
兵装 20cm(50口径)連装砲2基4門
20cm(50口径)単装砲6門
45口径12cm連装高角砲6基12門
搭載機 三式艦上戦闘機:16機
一〇式艦上偵察機:16機
一三式艦上攻撃機:28機
合計:60機
性能諸元(改装後)
排水量 基準:38,200t 公試:42,541t
全長 船体:247.65m 水線長:240.30m
全幅 32.50m
吃水 9.5m
飛行甲板 248.60m
主缶 ロ号艦本式8基
機関 ブラウン・カーチス式タービン2基
艦本式タービン2基 4軸 127,400hp
最大速力 28.3ノット
巡航速度 16ノット
航続距離 10,000カイリ
乗員 1,708名[1]
兵装 20cm単装砲 10基10門
12.7cm連装高角砲 8基16門
25mm連装機銃 11基22門
搭載機 常用72機、補用18機
1941年12月常用機
零式艦上戦闘機:18機
九九式艦上爆撃機27機
九七式艦上攻撃機:27機

加賀(かが)は、旧日本海軍航空母艦加賀型未完成戦艦を改装した大型空母であり、太平洋戦争前半においては日本海軍の主力として行動した。

目次

[編集] 艦名の由来

艦名は旧国名加賀国にちなんで命名された。艦名が空母であるにもかかわらず旧国名より命名されているのは後述の艦種変更に起因する。日本海軍の命名慣例については船名#日本艦船の命名慣例を参照の事。

[編集] 建造経緯

日本海軍が計画した八八艦隊三番艦、四番艦として加賀型戦艦の二隻が起工された。その三番艦が本艦、四番艦が「土佐」である。先に建造された長門型戦艦を上回る性能に設計され、工事が進んでいたが、ワシントン海軍軍縮条約に従い、廃棄処分の決定がなされた。

しかし、条約によって巡洋戦艦から航空母艦に改造される予定だった「赤城」の同型艦である「天城」が関東大震災で損傷を受けて破棄されるに及び、代艦として本艦が改造される事となった。なお、加賀型戦艦の2番艦として建造途中にあった「土佐」は建造中止の後、射撃訓練の標的となり海没処分された。

[編集] 新造時

ワシントン海軍軍縮条約による主力艦の制限下の元、補助的艦種としての航空母艦の運用の仕方が研究し始められた。そんな中で行なわれた改造ではあるが、当時、日本海軍は空母の建造経験は小型空母の「鳳翔」しか無く、戦艦からの改装も日本海軍初であり、模索の中で進められる事となった。

そのために、新造時は三層の甲板や対水上艦用の二〇センチ砲を装備していた(これらの装備は航空艤装の妨げになり後に改装・撤去された)。

[編集] 甲板

艦形の決定の際、同じく他艦種からの改造されたイギリス海軍の二段式航空母艦「フューリアス」の影響を受けてか、「赤城」共々、三層の飛行甲板を持つ三段式空母案が採用された。上段を離発着用、中段を小型機の発艦用、下段を大型機の発艦用とし、航空機の機種・用途に合わせ、甲板を使い分ける事が考えられたのである。

しかし、航空機の草創期に設計されたため、数々の問題が浮上する事となった。つまり運用の実際や航空機の大型化を予測しきれていなかったのである。問題となったのは発着用飛行甲板の短さであった。特に中段の甲板で顕著に表れ、ここから艦載機が運用上で発艦することはできなかった。

また煙突の配置も問題となった。ボイラーからの排煙が航空機の邪魔にならないようにと煙路を艦尾まで導いて排煙していたが、長大な煙路の重量、艦内容積の減少。さらには高温による居住性の低下が大きな問題であった(煙路に隣接する区画の室内温度は40℃にも達したという)。また艦尾から排出される煤煙が気流を乱して航空機の着艦を阻害することにもなった。この問題は「赤城」と同様の煙突方式を取る事で解決を試みようとされたが、折からの軍縮予算で実現されなかった。

なお、この時期の航空機搭載機数は60機である。

[編集] 砲備

二〇センチ砲十門を装備。これは近接する水雷部隊からの防御の為であり、艦隊決戦では重巡洋艦並の火力である。そのうち、連装砲二基四門は竣工後に中段の露天甲板に配置された。

[編集] 速力

同様に艦種変更を経た「赤城」が32.5kt を発揮したのに対して速力は27.5kt 止まりであった。「赤城」が巡洋戦艦として設計されたのに対し、加賀が戦艦として設計された為である。十二基の重油専燃罐と四基のタービンによる出力は9万1000馬力であった。 なお、計画段階での戦艦としての能力は加賀型戦艦の項を参照。

[編集] 改装後

三段式甲板時の加賀。後々の支障となった巨大な煙突が判る。
竣工時の加賀。
改装後の加賀。排煙処理中。

改装案として最初にアメリカ海軍レキシントン級航空母艦のような大型の艦橋を持つものが検討されたが、航空機の発着や友鶴事件を経ての重心の低下に配慮したものになった。

加賀には数々の不具合があったため、「赤城」より一足先、昭和9年(1934年)6月より改装工事に着手された。

問題の多かった排煙方式は「赤城」と同じ弯曲煙突式とし、位置を機関上部右舷に修正した。これによる重量軽減は100トンにも及び、乗員も煙路の高熱から解放された。

また三段式飛行甲板の中下段は廃止され、最上段のみの全通式の一段甲板とした。最上段の飛行甲板は艦体の全長をフルに使ったものとなり、離着陸の滑走距離が大幅に延長された。また中下段の飛行甲板の廃止により、航空機の格納スペースも艦体の全長をフルに使ったものとなり、これに伴って搭載機数も常用72機、補用18機の合計90機と大幅に増加している。速力についても、機関出力の増大と艦尾延長により28.3ktまで向上した。改装後の加賀における最大搭載機数は103機(但し、九六式艦上戦闘機などを使用したもの)とのことである。

これらの改装により、加賀は空母として一つの完成形に達した。ただし、改善されたとはいえ速力28.3ktは太平洋戦争開戦時の日本正規空母の中では最も低速であり、他の空母と行動を共にする際に障害になったと言われる。だが航続力と積載能力が大きく、外洋航行のハワイ作戦では他空母よりも参加優先順位は上であった(「加賀」「翔鶴」「瑞鶴」の3空母による作戦実施も当初は検討されていた)。

対空兵器も増強され、連装12cm高角砲6基であったものを連装12.7cm高角砲を8基に換装、反対舷方向にも射撃が可能なように高い位置に取り付けられ、高角砲の換装がなかった僚艦「赤城」よりも強力であった。また航空艤装、攻撃力、防御力の面でも「赤城」を凌駕しており、機動部隊の主力となった。

巡洋艦への対抗からつけられた20cm砲10門は艦尾に設置され、数の上では改装前と同数を維持されたが運用面でも不良であり、敵の軍艦をお互いが見る事のない航空戦では不要なものであった。また右舷前部にコンパクトな艦橋が設置されたが、作戦の指揮を行うには狭すぎ、後の戦没原因となったダメージコントロール面への配慮も足りなかったといわれる。

これら近代化改装の結果、加賀は後の「信濃」が完成するまで日本の航空母艦の中では最大の排水量になっていた。

加賀の改装工事はかなり徹底したものでその後の日本の空母のモデルになった。全通一段甲板、右舷前部の小型艦橋、下向き湾曲型煙突、飛行甲板周囲の対空砲火という艦形は後の日本空母の多くに採用された。また水面からの飛行甲板までの高さが日本空母のなかでは一番高く(21.1m)、航空機の離着陸には好都合な反面、重心の上昇が心配されるところであったが、両舷にバルジが新設されたこと、予備浮力の大きい幅広な船体、低重心の戦艦からの改造が幸いして運用面で問題がなかった(加賀は、日本の空母の中で唯一船体幅が飛行甲板の幅を上回った艦でもある)。

また、飛行甲板前部に空母用カタパルトの設置のための溝をつくる工事も行われたが、空母用カタパルトそのものが実用化されなかったため、結局未搭載のまま太平洋戦争に突入、カタパルト完成の機会はなかった(日本海軍は終戦まで空母用カタパルトを実用化できなかった。)このため、加賀のような大型空母でも、ただちに邀撃機や攻撃機を発艦できず、加賀が失われたミッドウェー海戦も、レーダーとカタパルトの不存在が敗北の原因の一つとされる[2]

[編集] 戦役

初の実戦参加は1932年(昭和7年)第一次上海事変で、これは史上初の空母の実戦参加でもあった。「蒼龍」「飛龍」は建造中であり、予算不足のため3年近くかかった「赤城」の第二次改装工事が終了するまでの間、実戦投入が可能な空母は加賀と「鳳翔」だけであり、両艦は日中戦争の主力として困難な局面を乗り切った。座礁して艦底を損傷したこともある。

太平洋戦争では「赤城」とともに第一航空戦隊を編成し、第一航空艦隊の主力とされた。太平洋戦争開戦の単冠湾集結時に最後まで呉に残り、浅深度魚雷100本を受領して真珠湾での航空魚雷攻撃を可能とした。この後1941年(昭和16年)12月に南雲忠一中将指揮の下で 真珠湾攻撃に参加した。この攻撃での未帰還機は29機。うち15機が加賀所属機であった。

加賀からの真珠湾攻撃参加機
第一次攻撃隊
97艦攻26機(水平爆撃隊14機=指揮官:飛行隊長橋口喬少佐、雷撃隊12機=指揮官:分隊長北島一良大尉)、零戦9機=指揮官:分隊長志賀淑雄大尉
第二次攻撃隊
99艦爆26機=指揮官:分隊長牧野三郎大尉、零戦9機=指揮官:分隊長二階堂易大尉

その後、1942年(昭和17年)2月パラオ港で座礁し艦底を損傷し、3月には内地に帰還していたためにセイロン沖海戦には参加していない。そのため、インド洋作戦に参加した第一航空艦隊の他の5空母ほど搭乗員を消耗させることはなく、ミッドウェー海戦時の搭載機(常用)は艦戦18、艦爆18、艦攻27で、当時の日本海軍の空母では最大の攻撃力を持っていた。

修理後、6月のミッドウェー海戦に「赤城」「蒼龍」「飛龍」の3空母とともに参戦したが、米艦上爆撃機SBDドーントレスによる急降下爆撃で1000lb爆弾4発を受け(同海戦の日本空母では一番多く被弾)、まず艦橋のそばにあった航空機用ガソリンを満載した給油タンク車に一発が直撃し爆発(この爆風によって、基部を除いて艦橋を吹き飛ばし、艦長岡田次作大佐以下幹部のほとんどが戦死)。続いて兵装転換で散開していた航空魚雷や爆弾や艦載機などあらゆる爆発物に次々と誘爆し炎上、6月4日午後4時25分メインのガソリン庫に引火して大爆発し沈没したとされるが、アメリカの潜水艦の中に、炎上する加賀に接近して魚雷を発射したと証言する艦長もいる。同海戦に参加した艦艇の中でも人的被害が一番多く、約800人が犠牲となった。慰霊碑が長崎県佐世保市の旧海軍墓地東公園にある。

ミッドウェー海戦時に加賀に乗り組んでいた実員は不明だが、加賀の定員は1,708名で、岡田艦長以下約800名が戦死した。また4空母中、被弾による被害も最も大きかったため、同海戦における加賀搭載機搭乗員の戦死者は、楠美正飛行隊長以下、機上・艦上合わせて21名だった[3]

[編集] 艦歴

[編集] 歴代艦長

川崎造船所が製作した戦艦「加賀」の完成予想模型。

[編集] 艤装員長

  1. 宮村歴造 大佐:1921年11月1日 - 1922年6月25日(戦艦建造中止)
  2. 小林省三郎 大佐:1927年3月10日 - (空母建造)
  3. 河村儀一郎 大佐:1927年12月1日-

[編集] 艦長

  1. 河村儀一郎 大佐:1928年3月31日 -
  2. 宇野積三 大佐:1930年12月1日 -
  3. 大西次郎 大佐:1931年12月1日 -
  4. 岡田偆一 大佐:1932年11月15日 -
  5. (兼)原五郎 大佐:1932年11月28日 -
  6. 野村直邦 大佐:1933年2月14日 -
  7. 近藤英次郎 大佐:1933年10月20日 -
  8. 三竝貞三 大佐:1934年11月15日 -
  9. 稲垣生起 大佐:1936年12月1日 -
  10. 阿部勝雄 大佐:1937年12月1日 -
  11. 大野一郎 大佐:1938年4月25日 -
  12. 吉富説三 大佐:1938年12月15日 -
  13. 久保九次 大佐:1939年11月15日 -
  14. 山田定義 大佐:1940年10月15日 -
  15. 岡田次作 大佐:1941年9月15日 - 1942年6月5日ミッドウェーで戦死

[編集]

  1. ^ 防衛庁防衛研修所戦史部編『戦史叢書43 ミッドウェー海戦』朝雲新聞社、1971年。
  2. ^ 潮書房 日本海軍艦艇図面全集 空母飛竜解説書
  3. ^ 澤地久枝『記録 ミッドウェー海戦』文藝春秋、1986年。

[編集] 関連項目

ウィキメディア・コモンズ

[編集] 外部リンク


最終更新 2009年9月10日 (木) 15:53 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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