北の湖敏満

北の湖敏満の最新ニュースをまとめて検索!

北の湖敏満
四股名 北の湖 敏満
本名 小畑 敏満
愛称 北の怪童
生年月日 1953年5月16日(56歳)
出身 北海道有珠郡壮瞥町字滝之町
身長 179cm
体重 169kg
所属部屋 三保ヶ関部屋
得意技 左四つ、吊り、寄り、上手投げ
成績
現在の番付 引退
最高位 第55代横綱
生涯戦歴 951勝350敗107休
幕内戦歴 804勝247敗107休(78場所)
優勝 幕内優勝24回
殊勲賞2回、敢闘賞1回
データ
初土俵 1967年1月場所
入幕 1972年1月場所
引退 1985年1月場所
引退後 日本相撲協会第9代理事長など
備考
金星1個(北の富士
2008年9月9日現在
  

北の湖 敏満(きたのうみ としみつ、本名:小畑 敏満(おばた としみつ)、1953年5月16日 - )は、北海道有珠郡壮瞥町出身の大相撲力士、第55代横綱。引退後、一代年寄北の湖となる。現在日本相撲協会理事、前理事長(第9代 2002年2月 - 2008年9月8日[1]血液型はAB型。

横綱時代の体格は、179cm・169kg。三保ヶ関部屋所属。得意手は左四つ、吊り、寄り、上手投げ幕内優勝回数24回、先輩の大鵬幸喜、後輩の千代の富士貢に並ぶ戦後の大横綱の一人である。重量感と馬力を存分に感じさせる相撲で1970年代後半に一時代を築いた。

息子は俳優の北斗潤。

目次

[編集] 現役時代

[編集] 入門から横綱昇進まで

農協職員の家に生まれた(この日はNHKによって初めて大相撲テレビ中継が行われた日である)[2]。少年時代から体格に恵まれており、ただの巨漢ではなくスポーツ万能、特に柔道は強く中学1年で初段となり、高校生を破って町の大会で優勝。

多くの相撲部屋から勧誘された中から中学1年で三保ヶ関部屋に入門し、墨田区立両国中学校へ転校。入門時のエピソードとして、小学6年の時すでに三保ヶ関親方が目をつけ「もう少し身長が伸びれば連れに来る。よく寝れば身長は伸びるよ」とアドバイス。このことを忠実に守って暇さえあれば寝ていたため両親が悲鳴を上げ、予定を早めて入門したという(三保ヶ関夫人が手編みの靴下を贈ってくれたのが入門の決め手になったともいう)。1967年1月場所に師匠の長男である後の大関増位山とともに初土俵

四股名は故郷壮瞥にある洞爺湖にちなんで師匠の三保ヶ関がつけた。湖を「うみ」と読ませたのは水上勉の小説『湖の琴』(うみのこと)からの着想という。改名の多い角界において珍しく、初土俵から引退まで一度も四股名を変えたことの無い力士であった(番付で北乃湖と誤記されたことがあった)。現役引退後も一代年寄「北の湖」で通している。

柔道を始めとし、野球水泳そしてスキーで鍛えたスポーツ万能の体を生かしてスピード出世。当時の最年少昇進記録を次々に樹立。中学生(15歳9ヶ月)で幕下昇進するなど「北の怪童」の異名をとった。ただし途中、三段目で全敗した事もある。横綱で幕下以下の全敗経験者は現在まで北の湖一人である。また、十両以下での優勝(下位優勝)経験が皆無で横綱に昇進した。なお、下位優勝経験なしの横綱は北の湖の他に、玉錦(第32代横綱)、双葉山(第35代横綱)、栃錦(第44代横綱)、(第64代横綱)がいるが、いずれも一時代を築いた大横綱である。

当時、中学校在学中に相撲部屋に入門し、学校に通いながら大相撲の土俵に上がる力士は北の湖のほかにも多くいたが、社会通念上問題があるとされた。北の湖が大活躍したため、特に話題になったとも言われる。1971年11月場所中に監督省庁の文部省(当時)から日本相撲協会に正式に通達が出されたため、協会はすぐに既に入門している中学生力士たちを帰郷させ、さらに入門条件に「中学卒業(義務教育終了)後でなければ大相撲に入門できない」と言う条項を加えた。そして場所後に中学生の力士採用禁止を正式決定している。北の湖以降も、後の大関琴風や人気力士・大徹らが中学在学中から土俵に上がっている[3]

1971年5月場所、17歳11ヶ月で十両昇進。1972年1月場所、18歳7ヶ月で新入幕。1度陥落したがすぐ再入幕。1973年、19歳7ヶ月で小結に昇進。同年11月場所関脇。9勝2敗で迎えた12日目に足首を骨折したが以降も出場し続けたこと、そして千秋楽に10勝目をあげたことが自信となり、後々まで心の支えになったという。そして1974年1月場所、14勝1敗で初優勝して大関に昇進すると、5月場所で2度目の優勝。翌7月場所も優勝決定戦に進み、史上最年少の21歳2ヶ月で横綱まで一挙に駆け上がった。関脇・大関昇進・初優勝は大鵬に譲ったものの十両・幕内三役の昇進記録はいずれも当時の史上最年少記録で、しかもそのいずれもが後に貴乃花に更新されたが、横綱昇進時の最年少記録は現在も保持している

[編集] 横綱時代

5場所連続優勝した1978年前後が全盛期と見られる。「憎らしいほど強い」と言われ、敗れると観衆が湧いた。悪役的な扱いをされることも多く、1960年代に子供の好きなものが「巨人大鵬卵焼き」と言われたのをもじり、嫌いなものの代名詞として「江川ピーマン、北の湖」という言葉が生まれた(ただし「巨人、大鵬、卵焼き」ほど定着しなかった)。他にも「不沈艦」や「モンスター」というあだ名も生まれた。

北の湖が嫌われた大きな理由の1つに挙げられているのが、「倒した相手が起きあがる際に手を貸さず、背を向けてさっさと勝ち名乗りを受けてしまう」ことだった。この理由については、北の湖自身が「自分が負けた時に相手に手を貸されたら屈辱と思うからだ」と語っている。

1977年3月場所は全勝の北の湖を1敗の輪島が追いかける展開だったが、14日目の結び前に輪島が敗れ、結びで北の湖が若三杉(のちの2代若乃花)を破って優勝を決めた瞬間、館内には不満や抗議の意味で座布団が舞うという異常な事態となった。強い横綱が敗れ金星を提供してしまった際に、勝った下位力士を讃える意味で座布団が舞うことは多いが、横綱が勝って座布団が舞うというのは前代未聞だった。しかしこれに動じず北の湖は千秋楽も勝って全勝優勝を果たしている。また、1978年1月場所は3回目の全勝優勝を果たすと共に、当時の通算(幕内)連続勝ち越し記録保持者だった元横綱玉の海の27場所を塗り替え、単独1位となる28場所目の新記録を達成した。

北の湖と同時代には絶大な人気を誇った美男力士が多く(貴ノ花、2代若乃花、千代の富士蔵間など)、そういった人気者をなぎ倒す北の湖は必然的に敵役となる運命にあった。それでも真摯に土俵を務める姿や圧倒的勝負強さから、北の湖に魅了されるファンも存在した。

先輩横綱の輪島は最高の好敵手であり、2人で「輪湖時代」を築いた(輪島との通算成績は21勝23敗でほぼ互角。優勝は両者合わせて38回で、これは柏鵬の37回を上回る)。

優勝回数24回、連勝記録32勝、幕内での50場所連続勝ち越し、37場所連続2桁勝利の堂々たる記録を持つ。1978年に記録した年間通算82勝は2005年朝青龍(年間通算84勝)に超えられるまで27年間最高記録だった。なお、1977年9月場所から1978年7月場所までと数え方を変えた場合ではあるが、1年6場所で85勝5敗という記録を保有している。(のち2008年7月場所から2009年5月場所にかけて白鵬が記録に並ぶ)

37場所連続2桁勝利を続けた1975年9月場所から1981年9月場所までの6年間は、ほぼすべての場所で終盤まで優勝争いの中心に存在し続けた。

初土俵から1度も休場しない抜群の安定感を誇ったが、1981年の夏巡業中に右膝を痛め、同年11月場所9日目、ついに休場。昇進後7年間休場しなかった横綱も他に例がない。翌1982年1月場所は優勝したものの、足腰の故障との戦いが続き、途中休場も増えた。ついに第一人者の座を千代の富士に明け渡し、完全に世代交代してしまったかと思われていた1984年5月場所、久々の優勝を15戦全勝で果たした。この場所13日目に弟弟子の大関北天佑が、優勝を争った隆の里を下した瞬間に北の湖の優勝が決定したのだが、控えに座る北の湖に北天佑が土俵上でニッコリ微笑むと、北の湖も思わず笑みを返したシーンは、好角家の間では特に有名である。結果的にこれが北の湖自身の最後の優勝となった。

全盛期を過ぎ力が衰えたことへの同情から、この時期になるとかつての悪役イメージは薄れ、勝って拍手が贈られることもあった。後年、北の湖は「(観客から)負けろと言われていた頃はこっちも燃えて来る性格だから良かったのだが、引退間際になって頑張れと言われた時は自分でも情けなかった。そのために勝ちたいという意欲も薄れてきてしまっていた」と述懐している。

翌年の1985年1月場所、こけら落としの新両国国技館の土俵に現役で臨んだが、実は怪我が完治せず土俵に上がれる体ではなかった。それでも、春日野理事長から「晴れの舞台に横綱が休場することはできない。潔く散る覚悟で出よ」との言葉を受けて強行出場となる。新国技館での北の湖は初日旭富士、2日目多賀竜に全く良い所無く敗れて2連敗、結局勝ち星を一つも挙げることなく、持っていた年寄株を人に貸していたため、横綱特権での5年時限の年寄襲名前提で引退届を提出した(当時は優勝32回の大鵬しか一代年寄の例が無かった)。引退表明後、協会より現役時代の功績に対し一代年寄が授与され、一代年寄北の湖となった。奇遇にも、土俵上での最後の黒星を喫した多賀竜からは、前の場所に現役最後の白星を挙げてもいる。

[編集] 強さ

全く手をつけず(手をつける仕草を見せるだけ。しかしながら当時はほとんどの幕内力士が手を下ろす立合いを行っていなかった)、中腰で低い重心から立合いかちあげるか、右上手を引いて、相手を吹き飛ばすかのように土俵外へ出すのが代表的な取り口。左四つに組み止めての右上手投げには威力があった。

両廻しを充分に引きつけ、腰をよく落としての怒涛の寄り、巨腹に乗せた吊りも得意とし、地力の強さは際立った。一方で巻き替えが上手く、取り組みで常に多用したため、評論家からは「横綱の相撲としてはいかがなものか」と批判もされた。しかし、元横綱安藝ノ海には、「あの巻き替えがあるから勝てるのだ」と絶賛されていた。右四つになっても右腕(かいな)を返して腰を下ろせば盤石で、こうなったときの識者からの評価は高かった。

突っ張りもあり、関脇までは押し相撲が主体だったが、足首を怪我してからは四つ相撲に改めた。巨体ながら非常にスピードがあり、器用さも兼ね備え、その相撲には独特の躍動感があった。

現役時代に北の湖に勝ち越した力士は少ない。ほとんどの力士には大きく勝ち越し、完封もいる。典型的なのは栃光で、29戦全勝というもの。栃光は取り口にムラがあったと評されるが横綱と29回も当る番付におり、決して弱い力士ではない。もう一人、蔵間に対しても17戦全勝と圧倒している。後の横綱三重ノ海が、全盛期の北の湖に何とか勝とうと、奇策猫騙しをしたのも話題になった(ただし奇策は通じず三重ノ海は敗れている)。

北の湖は負けると騒がれた。殊勲者として昇進後前半では黒姫山麒麟児栃赤城。後半になると若島津大寿山などがいる。若島津とは左がっぷり四つからの投げ合い。大寿山とは吊り出し合戦。また、現役後半の好敵手千代の富士とは、横綱に昇進してからは分が悪かった。

強烈に強い反面、一度負けた相手に翌場所も連敗するという脆さを見せることがあった。また初顔合わせの相手に取りこぼすことも多かった。4代朝潮とは相性が悪く、7勝13敗(不戦敗1含む)という不本意な成績に終わっている。朝潮との取り組みでは自分の相撲を忘れてしまっていたとコメントしているとともに、遠まわしに「朝潮の顔がおかしくて、力が抜けた」とも言っている。いずれも全盛期を含めてのことである。北の湖はせっかちな点があり、立ち合いまでの所作が速く、相手の所作が遅いといらだちの表情を見せ、制裁の意味からか勝負を急ぐところがあった。朝潮を苦手としたのもこのためとの見方がある。朝潮は立会いまでの動作が遅く、相手が横綱でも合わせようとしないので、北の湖がますます苛立ったのではないかと思われるからだ。

優勝決定戦に弱く、負けて優勝を逃すことが続いた。大関だった1974年7月場所では、横綱昇進を決定的とし2場所連続優勝という花を添えるべく臨んだ千秋楽で、横綱の輪島に本割り、決定戦と連敗。まず負けないだろうと思われた相手とのときも勝てず、優勝決定戦では初回から実に4連敗している。1976年5月場所、輪島に勝ってやっと決定戦初勝利。1978年3月場所、5月場所と2場所続けて大関若三杉に勝つまで「決定戦に弱い横綱」と評された。通算成績は3勝5敗である(対輪島1勝1敗、対魁傑1敗、対貴ノ花2敗、対若三杉2勝、対千代の富士1敗)。千代の富士と決定戦を戦った1981年1月場所のように「自力逆転優勝(直接対決で並び、決定戦で勝つケース)なるか」というところまで、逆転優勝を達成することはなかった。

通算24回の優勝のうち東京場所で16回優勝した(大鵬と並ぶ最多タイ記録)が、地方場所ではなかなか優勝できず、このため特に横綱昇進直後には「地方場所に弱い」と評されることもあった。結局地方場所の初優勝は横綱昇進から2年以上経った1976年11月場所(7回目)であった(11月場所での生涯唯一の優勝)。その後は「荒れる春場所」と言われる3月場所で5連覇(1977年~1981年)を果たすなどして評価を覆したが、1981年3月場所の優勝(21回目)を最後に引退までの約4年間地方場所での優勝はなかった。地方場所での優勝は結局8回で大鵬(東京場所、地方場所共に16回ずつ優勝)、千代の富士(東京場所で13回、地方場所で18回優勝)に比べると東京場所での強さが目立っていた。

負ける際は、土俵際でしぶとく粘ったりせず、案外あっさりと土俵を割ることも多かった。比較的怪我が少なく、10年以上横綱を務められたのは、無理な体勢で頑張ることが少なかったからという意見がある。

[編集] 親方として

現役時代に所属していた三保ヶ関部屋には、既に師匠の長男であった増位山が部屋の後継者となることが暗黙の了解となっており、また、北の湖も自身の抜群の実績と人柄が評価され、現役引退後の三保ヶ関部屋からの独立と新部屋創設は規定路線とされていた。

当人やその周囲は、大坂相撲ゆかりで三保ヶ関とも縁のある年寄名跡小野川の襲名と小野川部屋再興の意向を持っていたが、現役時の実績から一代年寄「北の湖」を贈られ、これを受け入れ北の湖部屋を創設する。北の湖部屋は同じく一代年寄である大鵬幸喜の「大鵬部屋」(現在の大鵬相撲道場・大嶽部屋)と同じ江東区清澄二丁目に、50mほどの距離をおいて開かれ、地元住民によってこの両部屋が面する通りは「横綱通り」と呼び習わされた。

引退直後に師匠(先代三保ヶ関、元先代増位山)と父が1日違いで亡くなり、葬儀が同じ日に行われることになった。この時は部屋関係者が帰郷を勧める中、「(師匠は)自分にとっては親以上の恩人」と、親戚中に手紙を出して父の葬儀を欠席し師匠の葬儀への出席した。

師匠として6人の関取を輩出している。ただし番付は巌雄前頭筆頭が最高で、2009年9月場所現在三役力士はまだ一人も育っていない。

日本相撲協会では引退の2年後に審判委員に抜擢されたのを皮切りに審判部副部長など監事、理事として要職を歴任し、2002年から2008年9月8日まで理事長を務めた(2005年二子山事業部長死去後は翌年初場所まで事業部長兼務)。

[編集] 日本相撲協会理事長として

理事長として、出羽海→境川理事長が実施した「年寄株貸借の禁止」という改革を取りやめ、旧に復した。また「協会自主興行巡業」も旧の勧進元制に復した。さらに、総合企画部の設置や広報部の強化によるファンサービスの充実を実施している。土俵の充実を目指し、幕内・十両の定員をそれぞれ東西1枚(2人)増員させた代わりに公傷制度を廃止したり、韓国中国巡業など海外公演を実行に移した。

2006年2月より理事長3期目を迎えた。協会No.2の事業部長に二所ノ関一門の先輩理事を2期据えてきたが、3期目は同じ出羽海一門の武蔵川を事業部長にすることで、「攻め」の姿勢も見せている。また、勧進元制に復しながらも実績不振に陥っている巡業を強化するため、2期目まで監事2名だった巡業部副部長を契約推進担当(高田川親方)を含めた3名にして巡業部スタッフの強化をした。

2006年5月25日放送のフジテレビクイズ$ミリオネア』に息子の北斗潤と一緒に出演した(輪島も応援として出演していた)。

2006年12月末に小野川の年寄名跡を再取得した(現役時に一度取得したが、巌雄に譲っていた)が、現在は潮丸元康を経て燁司大に名跡を貸している。

2007年7月30日、一連の朝青龍バッシング騒動について、朝青龍と師匠の高砂親方から説明と謝罪を受ける。同年8月1日、朝青龍に対して二場所出場停止、4ヶ月自宅・部屋・病院以外で特別な事情がない限り外出を認めない謹慎、4ヶ月30%減俸の処分を下す。

2007年9月10日、東京相撲記者クラブ会友杉山邦博の相撲取材証を、北の湖敏満名義で没収した。2007年7月から続いていた横綱朝青龍の問題に関し、テレビ番組を通じて横綱朝青龍の謝罪を求め、間接的に日本相撲協会批判を展開したことが理由とされる。この件に関しては、東京相撲記者クラブが抗議し、他の報道機関からも「言論統制」と非難された。「会友」ではなく「相撲評論家」の肩書きだったのが問題だったとして、12日になって措置は撤回し取材証は返還した。しかし、これからは「記者クラブに一任した上で」としたが、これからも同じような没収をする可能性にも触れたため、記者クラブとは溝が深まった。

2008年2月、定例の役員選挙で出羽海一門代表として理事に再選、役員の互選により理事長に4選された。広報部長に九重(元・千代の富士)、審判部副部長に貴乃花を抜擢した。

[編集] 在任中に相次ぐ逮捕・不祥事

2007年7月、時津風部屋で序ノ口力士が時津風親方や兄弟子や親方から集団リンチを受けて死亡した時津風部屋力士暴行死事件が起きたことを受けて、文部科学省は日本相撲協会と北の湖理事長に対し、事件の経緯や隠蔽工作の有無などについての説明を求めた。

北の湖は9月29日に文科省を訪れ事件の経緯を説明するとともに、協会の管理に不備があったことを認め、協会を代表して渡海文科相に謝罪した。10月5日には時津風親方を解雇した。協会各部に対しては事件の真相究明と再発防止、そして過去に類似した事件がなかったかどうかについての調査を指示、さらに「再発防止検討委員会」を設置した。

2008年2月7日、元・双津竜(前・時津風親方)が愛知県警傷害致死容疑で逮捕されたことを受け、就任したばかりの九重広報部長と伊勢ノ海総合企画部長を報告のために文部科学省に赴かせた事は、「なぜ理事長自らが文部科学省に行って報告しないのか」と批判を呼んだ。

2008年9月8日ロシア人力士の大麻問題が世間の耳目を集める中で開催された日本相撲協会の臨時理事会において、理事長を辞任し、理事に降格。後任理事長には武蔵川晃偉理事(第57代横綱三重ノ海)が選出された。現在は大阪場所部長。[1][4][5]


[編集] 主な成績

  • 通算成績:951勝350敗107休 勝率.731
通算勝星951は歴代4位
  • 幕内成績:804勝247敗107休 勝率.765
幕内勝星804は歴代2位
  • 横綱成績:670勝156敗107休 勝率.811
横綱勝星670、横綱出場818(不戦敗除く)とも歴代1位
  • 幕内在位:78場所
  • 横綱在位:63場所(歴代1位)
  • 大関在位:3場所
  • 三役在位:4場所(関脇2場所、小結2場所)
  • 連勝記録:32(1979年1月場所8日目~1979年5月場所9日目)
  • 幕内連続勝ち越し記録:50場所(歴代1位・通算では武蔵丸の55場所に次いで歴代2位、1973年7月場所~1981年9月場所)
  • 幕内連続2桁勝利記録:37場所(歴代1位、1975年9月場所~1981年9月場所)
  • 幕内最高優勝:24回
全勝7回(歴代3位タイ)
同点5回、次点12回
  • 年間最多勝:1974年(73勝17敗)、1975年(71勝19敗)、1977年(80勝10敗)、1978年(82勝8敗・当時新記録)、1979年、1980年(共に77勝13敗)、1981年(69勝15敗6休)
  • 三賞:殊勲賞2回(1973年11月場所、1974年1月場所)、敢闘賞1回(1973年3月場所)
  • 金星:1個(北の富士1個)
  • 金星配給:53個(歴代1位)

[編集] 幕内での場所別成績

北の湖敏満
一月場所
初場所(東京
三月場所
春場所(大阪
五月場所
夏場所(東京)
七月場所
名古屋場所(愛知
九月場所
秋場所(東京)
十一月場所
九州場所(福岡
1972年
(昭和47年)
東 前頭 #12
5–10
 
(十両) 西 前頭 #11
9–6
 
東 前頭 #7
9–6
 
東 前頭 #3
6–9
 
西 前頭 #6
10–5
 
1973年
(昭和48年)
東 小結
4–11
 
西 前頭 #5
9–6
西 前頭 #1
6–9
東 前頭 #4
8–7
 
東 小結
8–7
 
東 関脇
10–5
1974年
(昭和49年)
東 関脇
14–1
東 大関
10–5
 
東 大関
13–2
 
東 大関
13–2[6]
 
西 横綱
11–4
 
西 横綱
12–3[7]
 
1975年
(昭和50年)
東 横綱
12–3
 
東 横綱
13–2[8]
 
東 横綱
13–2
 
東 横綱
9–6
 
東 横綱
12–3[8]
 
東 横綱
12–3
 
1976年
(昭和51年)
東 横綱
13–2
 
東 横綱
10–5
 
西 横綱
13–2[6]
 
西 横綱
12–3
 
西 横綱
10–5
 
西 横綱
14–1
 
1977年
(昭和52年)
東 横綱
12–3
 
西 横綱
15–0
 
東 横綱
12–3
 
東 横綱
13–2
 
西 横綱
15–0
 
東 横綱
13–2
 
1978年
(昭和53年)
西 横綱
15–0
 
東 横綱
13–2[9]
 
東 横綱
14–1[9]
 
東 横綱
15–0
 
東 横綱
14–1
 
東 横綱
11–4
 
1979年
(昭和54年)
東 張出横綱
14–1
 
東 横綱
15–0
 
東 横綱
13–2
 
西 横綱
12–3
 
西 横綱
13–2
 
東 横綱
10–5
 
1980年
(昭和55年)
東 張出横綱
12–3
 
西 横綱
13–2
 
東 横綱
14–1
 
東 横綱
15–0
 
東 横綱
11–4
 
西 横綱
12–3
 
1981年
(昭和56年)
東 張出横綱
14–1[10]
 
東 横綱
13–2
 
東 横綱
14–1
 
東 横綱
13–2
 
東 横綱大関
10–5
 
西 横綱大関
5–4–6[11]
 
1982年
(昭和57年)
西 横綱大関
13–2
 
東 横綱
11–4
 
西 横綱
9–4–2[11]
 
休場 東 張出横綱
10–5
 
東 張出横綱
9–3–3[11]
 
1983年
(昭和58年)
西 横綱
5–4–6[11]
 
休場 休場 休場 東 張出横綱
4–1–10[11]
 
東 張出横綱
11–4
 
1984年
(昭和59年)
東 張出横綱
8–7
 
東 張出横綱
10–5
 
西 横綱
15–0
 
東 横綱
11–4
 
東 横綱
0–3–12[11]
 
東 張出横綱
3–4–8[11]
 
1985年
(昭和60年)
西 横綱
引退
0–3–12
x x x x x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 十両・幕下

三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口

幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)
  • 幕内通算勝利・敗戦・勝率はその場所時点での数字
場所 地位 勝数 敗数 休場 優勝 備考 幕内勝 幕内負 幕内休 勝率
昭和47年 1 月 西前頭12枚目 5 10 0 新入幕 5 10 0 .333
昭和47年 3 月
昭和47年 5 月 西前頭11枚目 9 6 0 再入幕 14 16 0 .467
昭和47年 7 月 東前頭7枚目 9 6 0 23 22 0 .511
昭和47年 9 月 東前頭3枚目 6 9 0 29 31 0 .483
昭和47年11月 西前頭6枚目 10 5 0 39 36 0 .520
昭和48年 1 月 東小結 4 11 0 新小結 43 47 0 .478
昭和48年 3 月 西前頭5枚目 9 6 0 敢闘賞 52 53 0 .495
昭和48年 5 月 西前頭筆頭 6 9 0 金星 58 62 0 .483
昭和48年 7 月 東前頭4枚目 8 7 0 66 69 0 .489
昭和48年 9 月 東小結 8 7 0 再小結 74 76 0 .493
昭和48年11月 東関脇 10 5 0 新関脇、殊勲賞 84 81 0 .509
昭和49年 1 月 東関脇 14 1 0 優勝 (初) 殊勲賞 98 82 0 .544
昭和49年 3 月 東大関 10 5 0 新大関 108 87 0 .554
昭和49年 5 月 東大関 13 2 0 優勝 (2回目) 121 89 0 .576
昭和49年 7 月 東大関 13 2 0 優勝同点 134 91 0 .596
昭和49年 9 月 西横綱 11 4 0 新横綱 145 95 0 .604
昭和49年11月 西横綱 12 3 0 優勝同点 157 98 0 .616
昭和50年 1 月 東横綱 12 3 0 優勝 (3回目) 169 101 0 .626
昭和50年 3 月 東横綱 13 2 0 優勝同点 182 103 0 .639
昭和50年 5 月 東横綱 13 2 0 優勝 (4回目) 195 105 0 .650
昭和50年 7 月 東横綱 9 6 0 204 111 0 .648
昭和50年 9 月 東横綱 12 3 0 優勝同点 216 114 0 .655
昭和50年11月 東横綱 12 3 0 228 117 0 .661
昭和51年 1 月 東横綱 13 2 0 優勝 (5回目) 241 119 0 .669
昭和51年 3 月 東横綱 10 5 0 251 124 0 .669
昭和51年 5 月 西横綱 13 2 0 優勝 (6回目) 264 126 0 .677
昭和51年 7 月 西横綱 12 3 0 276 129 0 .681
昭和51年 9 月 西横綱 10 5 0 286 134 0 .681
昭和51年11月 西横綱 14 1 0 優勝 (7回目) 300 135 0 .690
昭和52年 1 月 東横綱 12 3 0 312 138 0 .693
昭和52年 3 月 西横綱 15 0 0 優勝 (8回目) 全勝 327 138 0 .703
昭和52年 5 月 東横綱 12 3 0 339 141 0 .706
昭和52年 7 月 東横綱 13 2 0 352 143 0 .711
昭和52年 9 月 西横綱 15 0 0 優勝 (9回目) 全勝 367 143 0 .720
昭和52年11月 東横綱 13 2 0 380 145 0 .724
昭和53年 1 月 西横綱 15 0 0 優勝 (10回目) 全勝 395 145 0 .731
昭和53年 3 月 東横綱 13 2 0 優勝 (11回目) 408 147 0 .735
昭和53年 5 月 東横綱 14 1 0 優勝 (12回目) 422 148 0 .740
昭和53年 7 月 東横綱 15 0 0 優勝 (13回目) 全勝 437 148 0 .747
昭和53年 9 月 東横綱 14 1 0 優勝 (14回目) 451 149 0 .752
昭和53年11月 東横綱 11 4 0 年間最多勝記録 (82) 462 153 0 .751
昭和54年 1 月 東張出横綱 14 1 0 優勝 (15回目) 476 154 0 .756
昭和54年 3 月 東横綱 15 0 0 優勝 (16回目) 全勝 491 154 0 .761
昭和54年 5 月 東横綱 13 2 0 504 156 0 .764
昭和54年 7 月 西横綱 12 3 0 516 159 0 .764
昭和54年 9 月 西横綱 13 2 0 優勝 (17回目) 529 161 0 .767
昭和54年11月 東横綱 10 5 0 539 166 0 .765
昭和55年 1 月 東張出横綱 12 3 0 551 169 0 .765
昭和55年 3 月 西横綱 13 2 0 優勝 (18回目) 564 171 0 .767
昭和55年 5 月 東横綱 14 1 0 優勝 (19回目) 578 172 0 .771
昭和55年 7 月 東横綱 15 0 0 優勝 (20回目) 全勝 593 172 0 .775
昭和55年 9 月 東横綱 11 4 0 604 176 0 .774
昭和55年11月 西横綱 12 3 0 616 179 0 .775
昭和56年 1 月 東張出横綱 14 1 0 優勝同点 630 180 0 .778
昭和56年 3 月 東横綱 13 2 0 優勝 (21回目) 643 182 0 .779
昭和56年 5 月 東横綱 14 1 0 優勝 (22回目) 657 183 0 .782
昭和56年 7 月 東横綱 13 2 0 670 185 0 .784
昭和56年 9 月 東横綱大関 10 5 0 連続勝越記録 (50) 680 190 0 .782
昭和56年11月 西横綱大関 5 4 6 途中休場 685 194 6 .779
昭和57年 1 月 西横綱大関 13 2 0 優勝 (23回目) 698 196 6 .781
昭和57年 3 月 東横綱 11 4 0 709 200 6 .780
昭和57年 5 月 西横綱 9 4 2 途中休場 718 204 8 .779
昭和57年 7 月 東張出横綱 0 0 15 全休 718 204 23 .779
昭和57年 9 月 東張出横綱 10 5 0 728 209 23 .777
昭和57年11月 東張出横綱 9 3 3 途中休場 737 212 26 .777
昭和58年 1 月 西横綱 5 4 6 途中休場 742 216 32 .775
昭和58年 3 月 西横綱 0 0 15 全休 742 216 47 .775
昭和58年 5 月 西横綱 0 0 15 全休 742 216 62 .775
昭和58年 7 月 西横綱 0 0 15 全休 742 216 77 .775
昭和58年 9 月 東張出横綱 4 1 10 途中休場 746 217 87 .775
昭和58年11月 東張出横綱 11 4 0 757 221 87 .774
昭和59年 1 月 東張出横綱 8 7 0 765 228 87 .770
昭和59年 3 月 東張出横綱 10 5 0 775 233 87 .769
昭和59年 5 月 西横綱 15 0 0 優勝 (24回目) 全勝 790 233 87 .772
昭和59年 7 月 東横綱 11 4 0 801 237 87 .772
昭和59年 9 月 東横綱 0 3 12 途中休場 801 240 99 .769
昭和59年11月 東張出横綱 3 4 8 途中休場 804 244 107 .767
昭和60年 1 月 西横綱 0 3 引退 804 247 107 .765
通算 804 247 107 優勝24回 (全勝優勝7回)

[編集] 主な力士との幕内対戦成績

力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数
青葉城 15 1 青葉山 12 0  朝潮 7 13
旭國 27 7 旭富士 3 3 天ノ山 9 0
荒勢 31 2 板井 1 1 大潮 8 4
巨砲 20 2 大錦 6 0 大乃国 3 3
魁輝 12 2 魁傑 26 9 北尾 0 1
北瀬海 10 0 北の富士 2 4 清國 2 4
麒麟児 28 4 蔵間 17 0 黒瀬川 9 0
黒姫山 26 8 高望山 3 0 琴風 20 3
琴櫻 2 6 小錦 0 1 金剛 9 5
蔵玉錦 5 1 逆鉾 3 1 佐田の海 10 0
陣岳 0 1 大麒麟 4 6 大受 20 3
太寿山 6 5 隆の里 15 7 貴ノ花 36 10
高見山 35 8 多賀竜 2 1  玉輝山 6 0
玉ノ富士 23 2 千代の富士 12 6 出羽の花 14 3
栃赤城 13 2 栃東 3 2 栃光 29 0
長谷川 13 4 富士櫻 27 7 二子岳 4 0
双津竜 7 0 鳳凰 10 0 保志 2 3
舛田山 11 0 前の山 2 2 三重ノ海 25 13
三杉磯 4 1 陸奥嵐 3 2 豊山 21 0
龍虎 7 1 若獅子 5 0 若嶋津 6 8
輪島 21 23 若乃花 25 18 鷲羽山 17 2

[編集] 脚注

  1. ^ "北の湖理事長辞任 相撲協会トップで初". 東京新聞|TOKYO Web. 中日新聞社 (2008-09-08). 2008-09-08 閲覧。
  2. ^ 「朝日新聞」2008年9月7日付「天声人語」. 朝日新聞社. 2008-09-08閲覧.
  3. ^ 「大相撲 記録の玉手箱」内「今日は何の日?-12月4日」を参照。
  4. ^ "親方一覧". 「goo 大相撲」(日本相撲協会共同プロジェクト). 財団法人 日本相撲協会. 2008-09-08 閲覧。
  5. ^ "相撲協会 北の湖理事長が辞任". 日本放送協会(NHK) (2008-09-08). 2008-09-08 閲覧。
  6. ^ 輪島と優勝決定戦
  7. ^ 魁傑と優勝決定戦
  8. ^ 貴ノ花と優勝決定戦
  9. ^ 若三杉(のち2代・若乃花)と優勝決定戦
  10. ^ 千代の富士と優勝決定戦
  11. ^ 途中休場

[編集] 関連項目


最終更新 2009年10月31日 (土) 03:15 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【北の湖敏満】変更履歴

ご利用上の注意