北葉山英俊

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北葉山 英俊(きたばやま ひでとし、1935年5月17日 - )は、北海道室蘭市輪西町出身の元大相撲力士である。最高位は大関時津風部屋所属。本名は山田英俊。現役時代の体格は173cm、119kg。得意手は左四つ、寄り、うっちゃり

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[編集] 来歴

中学卒業後家計を助ける為鍛冶屋に奉公に出たが、力士になる夢も捨てがたく、家出同然で[1]同郷である幕内力士双ッ龍を頼り、「ワシが帰りの切符買ってやるから」と一旦は断られるがしぶとく居座り、そうしている間に帰って来た時津風が弟子入りを許し1954年昭和29年)に時津風部屋に入門し同年5月場所で初土俵を踏んだ。

体の小ささであまり期待されていなかったが新序を全勝で通過、序ノ口を飛び越え序二段についたがそこでも8戦全勝と言う成績を挙げ、その後も三段目幕下で全勝優勝、十両でも優勝し、1958年(昭和33年)11月場所に入幕を果たした。この間横綱鏡里の猛稽古に耐えた[2]おかげともいえるであろう。

幕内では着実に実力を上げ、入幕5場所目の1959年(昭和34年)7月場所には小結に昇進。以後2年12場所の間三役から落ちることなく、1961年(昭和36年)5月場所に11勝4敗という好成績を挙げ、大関に昇進した。しかし昇進する前の場所は9勝、さらにその前の場所では8勝しか上げておらずラッキーな昇進という見方ができる。実際北葉山以降に昇進した大関で、昇進前に北葉山より劣る成績だった力士はいない[3]。大関になってからは1963年(昭和38年)7月場所佐田乃山との優勝決定戦を制して13勝2敗で初優勝。横綱大鵬からも11勝をあげ、対大鵬戦では柏戸の16勝に次ぐ勝利数をあげている。一時は「優勝のカギを握る男」と評された。

しかし怪我などの影響で衰えが目立ち、大関在位30場所目の1966年(昭和41年)5月場所を最後に引退した。左を差して頭をつけ右を押っつけて粘りに粘る取り口、土俵際でのうっちゃりも多かった。入門時のエピソードが物語る執念と粘り強さで素質の乏しさを補った。

しかしながら、立合いの「待った」が多く、優勝した1963年7月場所では後半8日間に11回も待ったを掛けたことがある。

現役引退後は年寄枝川として長く審判委員を務め、その後理事にも推され、九州場所部長も務めた。自分の部屋は興さず、時津風部屋の部屋付の親方であった。2000年平成12年)5月に停年退職した。

[編集] うっちゃりの北葉山

北葉山は相手の力を利用するのがうまく、その中でもうっちゃりは得意手の一つであった。右にうっちゃるように見せて、相手が逆の左側に力を入れると、そちらにうっちゃるので見事に決まった。一気に出る押し相撲の相手、特に柏戸には良く決まった。

[編集] 成績

  • 幕内在位:46場所
  • 幕内通算成績:396勝273敗21休 勝率.592
  • 大関在位:30場所
  • 大関通算成績:250勝179敗21休 勝率.583
  • 幕内最高優勝 1回
  • 三賞:殊勲賞1回、敢闘賞2回
  • 各段優勝:三段目1回(1955年5月場所)、幕下1回(1958年1月場所)、十両1回(1958年9月場所)

[編集] エピソード

  • 少年時代から力士を目指していたが、小柄な自分ではこのまま入門しても大成できないと思い、腕力をつけるために中学卒業後に鍛冶屋に就職。仕事で鉄製のハンマーを振り上げ下ろす作業を右腕左腕どちらでも軽くこなせるようになってから時津風部屋に入門した。
  • 北葉山は演歌歌手村田英雄と親交があり、村田の代表作である『男の土俵』を作詞する際にモデルとなった。
  • 前述の通り大関昇進直前3場所の成績はさほど良くはなかった。その為、本人も大関に昇進できるとは思っておらず、昇進伝達式の日の朝は熟睡していて立田川親方(元横綱鏡里)の母親に起こされ慌てて羽織袴に着替えて出迎えた。
  • 若いころは歴代力士の中でもかなりの男前であった。

[編集] 関連項目

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  1. ^ 親に知られて連れ戻されないために青函連絡船が青森の港に着くまでは知らせないように同僚に頼んで上京した
  2. ^ 北葉山に限ったことではないが、非常に厳しい稽古をする力士は「稽古上がりに血尿が出る」と証言する程
  3. ^ ただし、北葉山と同じ3場所通算28勝で大関に昇進した者として、後に横綱になった北の富士がいる。

最終更新 2009年9月27日 (日) 04:43 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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