千野皓司

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ちのこうじ
千野皓司
生年月日 1930年12月17日(78歳)
出生地 東京都
職業 映画監督テレビディレクター脚本家
ジャンル コメディ社会派
活動期間 1967年 -
家族 谷口登美子(妻)
千野渓子(長女)
千野真沙美(次女)
主な作品
極道ペテン師』(1969年
パパと呼ばないで』(1972年・TV)
密約 外務省機密漏洩事件』(1978年・TV、1988年・劇場公開)
深川通り魔殺人事件』(1983年・TV)
『海よ眠れ』(1984年・TV)
『THWAY 血の絆』(2004年

千野皓司(ちのこうじ、1930年12月17日 - )は、日本映画監督テレビディレクター脚本家日本映画監督協会元理事、日本映像職能連合前幹事長、ミャンマー関連団体連絡会事務局長。

1967年に『喜劇 東京の田舎っぺ』で監督デビュー。70年代初頭から80年代半ばはテレビドラマの秀作を手がけた。社会でしぶとく生き抜こうとする底辺の人々や、戦争によって人生を翻弄された人々の悲哀を描くことが多い。

妻は舞踏家の谷口登美子。長女は画家の千野渓子。次女はロシアバレエ初の日本人プリマであるバレリーナの千野真沙美。

目次

[編集] 人物略歴

1930年12月17日東京都新橋辺りの花柳界に出入りする行商人の息子として生まれるが、実母は産後間もなく死去。

1949年、芝商業高校から早稲田大学文学部演劇科に進学。芝居を専攻し、在学中に小牧バレエ団へ所属したこともあった。

1954年、早稲田大学大学院文学研究科に進学。俳優を志し文学座に一時所属。

1955年、大学院中退後、日活撮影所へ入社。井上梅次西河克己松尾昭典等の助監督に就く。助監督時代から千野は完璧主義者として有名だったようで、映画評論家田山力哉によれば「自分ですべて完璧に段取りをつけ、『さあ監督、スタートをかけてください』と監督になにもさせなかった」という伝説が映画人仲間の間で語られる程だったという。

1958年、小牧バレエ団の谷口登美子と結婚。3年後の1961年、長女・渓子が誕生。

1967年東京ぼん太主演のコメディ『喜劇 東京の田舎っぺ』で監督へ昇進。同年の『喜劇 ニューヨーク帰りの田舎っぺ』、翌1968年の『ぼん太の結婚屋 いろいろあらアな田舎っぺ』と“田舎っぺ三部作”を手がける。

1969年、次女・真沙美が誕生。同年、作家野坂昭如原作の「ゲリラの群れ」をベースに、釜ヶ崎オールロケで撮った野心的な4作目『極道ペテン師』を公開。注目される。

1970年、先の『極道ペテン師』が石原プロの目に留まり、5作目となる『ある兵士の賭け』の監督をオファーされるも、撮影方針を巡るプロデューサーとの衝突の末、途中降板。映画は公開時に名義上ではキース・エリック・バート、白井伸明との共同監督に。が、この騒動を機に映画界から実質的に干され、劇場用長編映画のメガホンから遠去かる。

1971年ロマンポルノ路線に方向転換した日活に反発し退社。フリーとなる。生活のためにテレビに活動の場を移し、前年に創立されたばかりのユニオン映画制作のドラマ「おひかえあそばせ」のメイン演出を担当。石立鉄男の人気シリーズを誕生させるきっかけとなる。

1972年、ドラマ「パパと呼ばないで」を手がける。これが大衆の人気を得て、シリーズ第3弾で石立のドラマとしての代表作になる。そればかりか、小さなヒロイン“チー坊”役に当時7歳で抜擢された杉田かおるが「天才子役」として一躍ブレイク。

1974年、シリーズ第5弾のドラマ「水もれ甲介」を手がける。これがユニオン映画の石立シリーズでは、千野の最終作となった。

1976年田中邦衛主演ドラマ「泣かせるあいつ」の初回2話のみ演出。これ以降は単発ドラマが中心に。

1978年、当時テレビ朝日にいた福富哲プロデューサーに誘われ参加した「真相」シリーズ第一作として、沖縄返還協定を巡る外務省機密漏洩事件(通称「西山事件」)を題材に「密約 外務省機密漏洩事件」を35ミリフィルム(通常のテレビドラマは16ミリ)で撮り発表。演出と企画から手がけた映像作品は、1978年度の日本テレビ大賞優秀賞を受賞。しかし政治色が強い内容ゆえ、放送はこの一回きりで二度と放送されることはなかった。千野は「テレビ界から2年間干されましたよ。暗黙の制裁ですね」と、2004年4月に行われたインタビュー[1]で当時を振り返っている。「真相」はシリーズで続行し、当時ミュージシャンの泉谷しげるを誘拐殺人犯役に抜擢して役者開眼させた1979年の「戦後最大の誘拐 吉展ちゃん事件」(監督は恩地日出夫)、1980年の「新聞が死んだ日」(監督は岡本愛彦)、1981年の「滋賀銀行九億円横領事件 女の決算」、大地康雄川俣軍司役を演じて注目された1983年の「深川通り魔殺人事件」等といった意欲作を生んだ。

1984年、テレビ朝日開局25周年記念作品のドラマ「海よ眠れ」を2年がかりで完成し放映。テレビドラマの仕事をやりつくしたこと、そしてその実績は映画に決して結びつかないことを悟った千野は、この作品を最後にテレビでの活動に自ら終止符を打ち、映画現場への復帰を目指す。

1988年、「密約」が発表から10年にして初めて劇場公開。1988年度日本映画復興会議奨励賞を受賞し、1989年度モスクワ国際映画祭招待作品に選出。

1990年、原作・脚本も兼ねた長編ドキュメントアニメ『戦争が終わった夏に 1945・樺太(サハリン)』を公開。同年、ミャンマーの人気作家ジャネージョー・ママレーの小説「血の絆」映画化に向けての企画が始動。

2003年バブル崩壊の影響による出資会社倒産、劇映画としては初のオールロケとなったミャンマーの情勢悪化、アジア経済危機による資金難で5年余りの製作中断、当初の主演女優の降板や製作委員会発起人の相次ぐ急逝等といった苦難を経て、映画監督としては13年ぶりの劇場用長編『THWAY 血の絆』を完成させる。2005年公開を目標にしたが、近年の日本映画では珍しいインターミッション付き3時間15分もの上映時間等がネックになったのか、第17回東京国際映画祭「ある視点」部門の出品上映や、各地での有料試写会といったイベント上映のみで正式な公開はない。それでも千野の長年のキャリアは称えられ、第28回山路ふみ子文化賞2004年度日本映画批評家大賞富士フイルム奨励賞、2004年度シナリオ作家協会功労賞をそれぞれ受賞した。

『血の絆』撮影を機にミャンマーに魅せられた千野は、2006年11月7日に発足した「ミャンマー関連団体連絡会」(MMRG)の事務局長に就任。日本・ミャンマー友好に尽力している。

[編集] 監督作品

[編集] 映画

[編集] テレビドラマ

[編集] 助監督作品

  • 東京の孤独(1959年 日活
  • 夢がいっぱい暴れん坊(1962年 日活)
  • 霧の夜の男(1962年 日活)
  • 金門島にかける橋(1962年 日活、中央電影)
  • 歌う暴れん坊(1962年 日活)
  • 夜の勲章(1963年 日活)
  • 関東遊侠伝(1963年 日活)
  • 夕陽の丘(1964年 日活)
  • 風と樹と空と (1964年 日活)
  • 敗れざるもの(1964年 日活)
  • 泣かせるぜ(1965年 日活)
  • 二人の世界1966年 日活)
  • 夜霧の慕情(1966年 日活)
  • 私、違っているかしら(1966年 日活)

[編集] 脚本のみ作品

[編集] 未映像化シナリオ作品

  • 男(キネマ旬報1971年3月下旬号に掲載)※千野が助監督時代から映画化を目指したシナリオ作品。様々な事情が重なり、頓挫。

[編集] 出演作品

[編集] 参考文献

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年11月13日 (金) 01:07 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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