南部鉄器

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鉄瓶。表面には細微な模様が描かれている

南部鉄器(なんぶてっき)は、岩手県奥州市盛岡市で作られる鉄器。1975年には伝統工芸品に指定された。

目次

[編集] 歴史

南部鉄器と総称されているが、水沢の南部鉄器と、盛岡の南部鉄器の歴史は異なる(明治・大正の南部鉄器以降は、共通で著す)。

[編集] 水沢の南部鉄器

平安後期に、豊田館(とよたのたち、藤原経清の居館。場所には諸説あるが、豊田館跡擬定地として、奥州市江刺区岩谷堂字下苗代沢が挙げられている)にいた藤原清衡近江国滋賀県)より鋳物師を招いて始めた。これが、次第に南下して水沢に伝わったと語り継がれている。中世の鋳物師は「歩き筋」と呼ばれるように、必要に応じて地域を転々することが常である[要出典]。需要主である清衡が平泉に移ると彼らも一緒に移った。実際、奥州藤原氏の時代の遺跡からは鋳型が出土している。奥州藤原氏の滅亡以降は、日用品を細々と鋳造した[要出典]

水沢に鋳物師が定住するようになったのは室町時代初期で、黒脇千葉家がその始めだったといわれている[要出典]江戸初期には地域に鋳物業が定着していく。1683年天和3年)に鋳物業を興した及川喜右衛門光弘という人が、中興の祖と讃えられている。以後、仙台藩の庇護を受け、鉄鍋、鉄釜を中心に、仏具なども生産し、幕末には大砲も鋳造している[要出典]

[編集] 盛岡の南部鉄器

盛岡の鋳物は、始まりが慶長年間(1596年-1615年)の盛岡藩主南部氏が築城の頃といわれている[要出典]。それからは、歴代藩主庇護の下、育まれてきた。藩の鋳物の受注はこの4家がほぼ担っていたため、盛岡の南部鉄器の歴史は、有坂家、鈴木家、藤田家、釜師小泉家の歴史とも言える[誰?]

[編集] 有坂家

初代は京都の人で、7代目のとき甲州に、13代目のときに、盛岡に移住してきた[要出典]

[編集] 鈴木家

甲州から1641年寛永18年)に、藩に召し抱えられた鈴木縫殿家綱を祖とする。製造したのは梵鐘や燈籠などの大作が知られていて、幕末には大砲も製造している。1646年正保3年)には盛岡城の時鐘も製造している[要出典]。これは、後に花巻城に移されるが今も現存している。

[編集] 藤田家

甲州の出で、2代目から盛岡に移住[要出典]。鍋類を主に製造し、その品質の良さから「鍋善」と呼ばれ、後に藩に召し抱えられた。

[編集] 小泉家

藩主が茶の湯を好んだことから、1659年万治2年)に召し抱えられ、茶釜を製作する。祖は京都出身の小泉五郎七清行といわれている。本業は茶釜だったが、現在も残る1679年延宝7年)の時鐘を始めとする多くの製品に名を残している。[要出典]

また三代仁左衛門は南部鉄瓶の創始者と伝えられ、四代仁左衛門は、大砲鋳造の技術を江戸で学んだ。

[編集] 明治・大正の南部鉄器

水沢、盛岡とも、仙台藩盛岡藩の庇護の下、発展してきたが、この後ろ盾が明治維新により消え去り、衰退を余儀なくされる。しかし、生産と流通の体制が整い、展覧会にて入賞するなど名声を高まると、各地からの注文が増える。さらには、1890年明治23年)の東北本線開通と相まって(水沢、盛岡とも、これに接していた)一気に販路拡大となった。

明治末には、再び停滞気味になるが、1908年(明治41年)の皇太子(後の大正天皇)東北行啓の際、八代小泉仁左衛門が鉄瓶の製造を実演して見せて話題を呼んだことをきっかけに、県や市を挙げての取り組みが始まる。

1914年大正3年)には、旧盛岡藩南部利淳が「南部鋳金研究所」を開所。人材育成にも貢献した。

[編集] 昭和・平成の南部鉄器

第二次大戦中は戦時体制により「銑鉄物製造制限規則」が施行され、軍需関連品以外の製造が禁止された。南部地域では150人いたといわれる職人のうち、わずか16人しか鋳物の鋳造を続けられなくなった[要出典]

終戦後は、アルミニウム製品に押されて需要は減り、南部鉄器は衰退した。

[編集] 製造される鉄器の種類

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  • 鉄瓶
  • 風鈴
  • 鉄玉子 鉄分補給用に調理中に鍋の中に入れて使う。玉子型の南部鉄の塊。漬物の発色をよくするために使用されるなす型もある。

[編集] 製造手順

まず、デザインを決める。(鉄瓶を例にとるが、他の製品もほぼ同じ)鉄瓶の形はもとより、表面の模様から何まで原寸大で描く。これを、「木型」と呼ばれる鉄板で(昔は木で作っていたため)、実際に作る。鉄瓶の場合にはこれが3つ必要である。これを回転させて鋳型を作る(半円の板を回転させると球ができるのと同じこと)。また、大抵は、「中子(なかご)」と呼ばれる木型より一回り小さいものも作る。これは、鉄瓶に空洞を開ける為である。

木型を使って鋳型を作る。実型(さねがた)とよばれる外枠に川砂や粘土などを入れ、そこに木型を回転させて形を取る。これを「型挽き」という。これを乾燥しないうちに文様を押す。

この型を乾燥し、焼き、銑鉄を流し込む。型から取り出した鉄瓶を800度から1,000度の木炭の火で焼き、磁性酸化被膜を付け、を防ぐ。これが「金気止め」と呼ばれ、この技法は南部鉄器から始まったもの。

以上は概要であり、実際の工程はもっと多く、完成まで2ヶ月近くかかる場合もある。

[編集] 記録・その他情報

  • 水沢江刺駅前にある「ジャンボ鉄瓶」は、直径2.5メートル、重さ1.8トンで、日本一のサイズである。
  • 毎年10月に行われる、水沢産業まつりにおいて、日本一の大きさの「ジャンボ鉄鍋」で作る芋の子汁が振舞われる。直径3.5メートル、重さ5トンの鉄鍋で一度に6,000人分が調理される。
  • 水沢駅の南部風鈴は、日本の音風景100選に選ばれている。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年11月25日 (水) 16:48 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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