厳島

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厳島

広島県、厳島と周辺地域
座標 北緯34度16分
東経132度18分
面積 30.39km²
海岸線長 28.9km
最高標高 535.0m
最高峰 弥山
所在海域 瀬戸内海 安芸灘
所属国・地域 日本広島県廿日市市[1][2]
  
厳島神社大鳥居
夜の厳島神社

厳島(いつくしま)は、瀬戸内海西部、広島湾の北西部に位置する島である。通称は宮島、また安芸の宮島ともいう。行政区分は広島県廿日市市宮島町。

目次

[編集] 概要

日本三景のひとつとして知られる景勝地である。古代から島そのものが自然信仰の対象だったとされ、平安時代末以降は厳島神社の影響力の強さや海上交通の拠点としての重要性からたびたび歴史の表舞台に登場した。江戸時代中期からは、日本屈指の観光地として栄えてきた。現在では人口1800人余りの島に、年間300万人近い参拝客・観光客が訪れる。

景勝地としての厳島の中心は、厳島神社である。海上に浮かぶ朱の大鳥居と社殿で知られる厳島神社は、平安時代末期に平清盛が厚く庇護したことで大きく発展した。現在、拝殿・廻廊・能舞台(いずれも国宝)などのほか、建造物はすべて国宝または国の重要文化財に指定されている。皇族・貴族や武将、商人たちが奉納した美術工芸品・武具類にも貴重なものが多く、中でも清盛が奉納した「平家納経」は、平家の栄華を天下に示すものとして豪華絢爛たる装飾が施されており、日本美術史上特筆すべき作品の一つとされる。厳島神社および弥山(みせん)原始林は、1996年世界遺産に登録されている。

島の最高峰・弥山(535メートル)山頂から望む瀬戸内海の多島美も人気があり、毎年元旦未明には初日の出を目指す人で混み合う。この地を愛した伊藤博文は「厳島の真価は弥山からの眺望に有り」と絶賛し、それがきっかけで明治時代後期に弥山への一般登山路が整備された。

島の全域(周辺海域を含む)が1934年昭和9年)に瀬戸内海国立公園に編入され、自然公園法が定める特別保護区域となっている。 1952年(昭和27年)には国の特別史跡及び特別名勝に指定され、弥山の原始林は国の特別天然記念物にもなっている。

かつて島全体が佐伯郡宮島町と一致していたが、2005年に廿日市市と合併した。

[編集] 地理

広島湾の北西部にあり、対岸の本州(廿日市市阿品~大野)に寄り添うように北東から南西方向に楕円形に伸びている。大野瀬戸を挟み、対岸とは最も近いところで300メートルしか離れていない(フェリーの航路は1.8キロメートル)。外海側の宮島瀬戸には絵の島、大奈佐美島、能美島江田島等と一体)など多くの島が点在する。島の北端・聖崎の先端は風化によりやや崩落して、満潮時に「蓬莱島」という島になる。その沖合に暗礁があり、上には石灯篭が置かれている。 広島市中心部からは直線で約12キロメートル南西にある。

[編集] 地質

全島が花崗岩で構成されている。平地は少なく山が急峻で、東西方向と南北方向に断層が見られる。

[編集] 植生

典型的な暖地温帯常緑広葉樹林である。ただし一般的な照葉樹林とは趣が異なり、例えば南方系のミミズバイ(高地性である)と針葉樹のモミ(西日本の低海抜地域には通常見られない)が海岸の同一地点で見られるなど、厳島にしかない特徴がある。

この島にしかない固有種として、ミヤジマカエデとミヤジマシモツケがある。

信仰上の理由から人間活動がほとんど加えられてこなかったこともあって、日本古来の自然の姿が良く残されている。特に弥山山頂付近の原始林は状態が良いため、国の特別天然記念物および世界遺産にも指定されている。

近年、厳島神社の社殿・大鳥居のある御笠浜に、海藻の一種アオサが大量繁茂している。景観を損ない、また腐敗臭を放つので、宮島観光協会と廿日市市、地元自治会がボランティア活動を主催し、年に数回程度清掃活動を行っている。繁茂の原因は明らかではない。水質の悪化と海水温の上昇を原因に挙げる説もあるが、広島湾の水質自体は高度経済成長期に比べてむしろ大幅に改善している(最も水質が悪かった時代には、大量繁茂は確認されていない)。島内の他の地域ではアオサがとくに増えている徴候は観察されず、減少している場所もある。このため、周辺海域の埋め立てによる海流の変化が影響しているのではないかという意見もある。

[編集] 動物相

弥山にて

厳島のシカサルは、フェリー桟橋付近にも現れたり、マスコットキャラクターとして図案化されたりして、「宮島のシンボル」ともいうべき知名度がある。なお、厳島のシカは神の使い「神鹿(しんろく)」として神聖視されていたが、第二次世界大戦後に厳島を接収したGHQの兵士がハンティングの対象として撃っていたために絶滅した。現在島にいるシカは、GHQ撤退後に奈良公園から移入されたものである。サルについては、江戸時代以前には記録がなく、外部から持ち込まれたものが野生化したとする説が一般的である(小豆島から移入したという説もある)。

厳島のシカによる対人被害について
近年、シカが観光客の持っている飲食物を狙って観光客がケガをするなどの被害が報告されている。マスコミによって報道されることもしばしばあり、地元観光協会や廿日市市は観光地としてのイメージダウンを懸念して対策を実施している(土産物店でどこでも売っていた「シカのえさ」の販売を取りやめる、など)が、抜本的な解決には至っていない。被害が継続している原因としては、観光ルートに食料になるもの(えさや残飯)が豊富にあることでシカの生息数が増えすぎたこと、その半面で松枯れや温暖化によって山中に食料が乏しくなり、腹をすかせた山のシカが観光ルートにあふれ出したことなどが可能性として指摘されている。厳島のシカはあくまで野生動物であり、生息数調整には動物愛護の観点への配慮という難題が付きまとう。2009年現在、地元住民・廿日市市は「野生のシカにえさをやらない」「観光客にもシカにえさをやらないようお願いする」とする方針を掲げているが、これに反対する一部の動物愛護団体が入島してえさやりを続けているなど、問題は混迷を深めている。

島には他に、中国地方に一般的に棲息するタヌキ・アナグマ・モグラのほか、100種を超す鳥類が確認されている。

昆虫の固有種として、ミヤジマトンボがある。

[編集] 弥山の標高について

島の最高峰「弥山(みせん)」の標高値は,国土地理院の1/2.5万の地形図を見ると529.8mと表記されてきた。これは1892年設置の二等三角点の高さであるが、現在では三角点より南南西方向約16.8mの地点が535mであることが確認されている[2]

[編集] 歴史

厳島神社に関連する文献史料については豊富な研究・考察の実績がある一方、厳島という島そのものの歴史・民俗史については依然として未解明の部分も多い。

[編集] 先史時代

本州に人が住み始めた旧石器時代には、厳島を含む瀬戸内海の島々にも人々が続々と渡ったと考えられている。 広島大学の植物実験所のある厳島北岸の下室浜では、後期旧石器時代のものとみられるナイフ形石器が採集されている[3]

多々良潟、大江ノ浦、御床浦、大元園地などからは縄文時代後期から弥生時代中期のものとみられる遺跡が見つかっており、出土品は宮島歴史民俗資料館に展示されている。

2004年以降、広島大学による考古学調査が行われ、島の北西岸に位置する大川浦をはじめ、下室浜、御床浦、須屋浦などの大野瀬戸に面した海岸一帯から、縄文弥生時代土器石器が数多く発見されている[4]

[編集] 古代・中古

593年推古天皇元年)、厳島に住む豪族佐伯鞍職により厳島神社が創建されたと伝えられる。

上述の大川浦や須屋浦からは、奈良~平安時代の製塩土器が数多く採集されており、盛んに塩作りが行われていた事が伺える。推古朝から奈良時代にかけて、祭祀色の強い遺物が発掘されている。大川浦からは、10世紀のものと見られる瑞花双鳥八稜鏡が採集され、古代祭祀の場である可能性が指摘されている。

平安時代には「恩賀(おんが)の島」と呼ばれた歌枕の地でもあり、以下のような和歌が伝わる。

入り海の二十浦(はたうら)かけて十島(としま)なる中に香深き島は七浦 (小野篁

恩賀島(たぐいなきしま)の姿は自ずから蓬の山も此処にありけり (在原業平

恩賀の名は「神の御香が深い」ことに由来する。

現在の威容を構築したのは、平氏一門の後ろ盾を得た平安時代末期である。

1146年久安2年)、安芸守に任ぜられた平清盛は、父・平忠盛の事業を受け継いで高野山大塔の再建をすすめていたが、1156年保元6年)の落慶法要に際し、高野山の高僧に「厳島神社を厚く信奉して社殿を整えれば、必ずや位階を極めるであろう」と進言を受ける。折しも保元の乱平治の乱と世情は混迷の相を表していたが、平治の乱で源頼朝が捕らえられ、清盛も正三位に列せられると、さっそく厳島神社を寝殿造の様式に造営した。海上に浮かぶ現在の壮麗な様式は、1168年仁安3年)の大修造によるものである。さらに河内四天王寺から舞楽を移し入れ、また多くの甲冑刀剣などの美術工芸品を奉納したが、中でも特筆されるのが絢爛豪華な装飾を施した平家納経(国宝)である。また社領も加増されていった。

清盛の大きな狙いは日宋貿易にあった。父・忠盛は舶来品を院に進呈して朝廷の信を得ており、清盛は一層の貿易拡大を図っていた。博多の湊(日本最初の人工港)や大輪田泊(平氏政権の拠点・摂津国福原の外港。現在の神戸港の一部)を開いて自ら瀬戸内海航路を掌握し、「厳島大明神」は畿内へと通じる航路の守護神ともいえる重要性をもつようになった。呉市倉橋島と本州の間にある音戸の瀬戸は、清盛が「一晩で」開削させたという伝説が残されているが、このときの航路整備に関連するものである。

清盛の庇護によっての雅な文化が移入され、後白河上皇高倉上皇建春門院建礼門院ら皇族や貴族が多く社参する一方、上述した貿易航路開拓により、の文物ももたらされた。清盛は宋船による厳島参詣も行っている。

[編集] 中世

平家の滅亡(壇ノ浦の戦いを参照)後、鎌倉時代に入ると、厳島神社ははじめ源氏の崇敬を受けたが、政情が不安定になる中で徐々に衰退する。神主家を世襲していた佐伯氏は、1221年承久の乱後鳥羽上皇側についていたために乱後に神主家の座を奪われ、代わって御家人の藤原親実が厳島神主家となった。厳島神社は1207年承元元年)と1223年貞応2年)に火災に遭っており、朝廷の寄進も受けて一応の再建はされたものの、戦国時代にかけて荒廃した時代であったと伝えられる。

そうした中でも参詣する人は絶えず、例えば出家して旅路にあった後深草院二条1302年乾元元年)に厳島を訪れ、秋の大法会がきらびやかであったことを「とはずがたり」に書き留めている。

戦国時代に入ると、安芸を本拠に勢力を伸ばしていた毛利氏と、衰退しつつこそあったものの周防長門を領有していた大内氏が対立し、安芸・周防国境はその最前線となる。厳島は周防から安芸への水運の要衝とみなされ、1555年弘治元年)、毛利元就は厳島を舞台に、大内氏の実権をにぎる陶晴賢を討ち、大内氏を滅亡に追い込む(厳島の戦いを参照)。これ以後毛利氏は中国地方10か国に加え豊前伊予をも領有する西国随一の大大名に成長していくが、もともと厳島神社を崇敬していた元就は神の島を戦場にしたことを恥じ、戦後はこの島の保護・復興につとめた。現在の厳島神社の基盤は、元就の社殿大修理によるところも大きい。

1587年天正15年)、すでに関白太政大臣となっていた豊臣秀吉は、多くの戦で亡くなった者の供養のため、厳島に大経堂を建立するよう政僧・安国寺恵瓊に命じる。建築に際して、柱や梁には非常に太い木材を用い、屋根に金箔瓦をふくなど、秀吉好みの大規模・豪華絢爛な構造物を企図していたことが伺えるが、秀吉の死により工事が中断されたため、御神座の上以外は天井が張られておらず、板壁もない未完成のままで今日に伝えられている。本堂は非常に広く、畳が857畳敷けることから「千畳閣」と通称され、明治廃仏毀釈のときに厳島神社末社豊国神社本殿となって現在に至る。

1595年文禄4年)に現ベルギーアントウェルペン(アントワープ。当時はスペイン南ネーデルラント)で刊行された、ヨーロッパ最初の日本地図とされる「テイセラの日本図」[5]には、厳島がItoqulchimaとして記されている。この地図には令制国名といくつかの港町・大きな島名程度しか書かれておらず、厳島が重要視されていたことがうかがえる。

考古学的には、町内での建設工事に伴う発掘調査により、菩提院遺跡や祝師(ものもうし)屋敷跡などの遺跡が発見され、中世から近世にかけての遺物が数多く出土している[6]

[編集] 幕末

尊皇攘夷・公武合体を掲げる長州藩徳川幕府の対立が頂点に達し、長州征討において厳島対岸も戦場となった。1866年(慶応2年)8月、第二次長州征討の停戦会談が厳島・大願寺において行われた。幕府方代表は勝海舟、長州藩代表は広沢真臣井上馨

勝海舟の自著「氷川清話」に、厳島の旅館で勝が毎日髪を結い直させていたというくだりがある。 「おれの首はいつ切られるかしれないよって、死に恥をかかないためにこうするのだ。」 と言うと、髪結いの老婆はすっかり怖がってしまったという。

[編集] 近代

1868年明治元年)に神仏分離令が出されると、民衆を巻き込んだ廃仏毀釈運動が激化し、厳島の寺院は主要な7ヶ寺を除いてすべて廃寺となった。厳島神社や千畳閣などに安置されていた仏像等も寺院へ移されたり、一部が失われたりするなどしている。

1876年(明治8年)、老朽化していた海上の大鳥居が建て替えられた。これが現在の朱の大鳥居である。

初代の内閣総理大臣・伊藤博文は厳島の弥山三鬼大権現を厚く信奉しており、たびたび島を訪れている。三鬼堂や大願寺の掲額は、伊藤の直筆によるもの。また大願寺境内には、「伊藤博文お手植えの松」が9本残されている。なお、「宮島みやげ」としてのみならず、広島県を代表する銘菓となったもみじ饅頭の起源について、「伊藤博文が厳島を訪れた際に島の茶屋の娘をからかったエピソードを基に発案された」という説が広く流布している(もみじ饅頭の項を参照)。

島の東沖合いにある江田島海軍兵学校が設けられたことから、神の島・厳島は兵学校生徒の尊崇も受けた。兵学校の訓練の一環として、弥山登山や遠泳も行われており、海軍の幹部にとっては思い入れのある島であるとともに、「神聖な島」というイメージが天皇への絶対的な忠誠という意識を喚起させていたことも、当時の日記などから読み取ることができる。

1889年(明治22年)、町村制により厳島町が発足。区域は厳島全島。

1923年大正12年)、厳島は国の史蹟名勝に指定され、以後近代的な保護・整備体制が充実していく。

第二次世界大戦中には、厳島の南沖合いの柱島沖が聯合艦隊の泊地となり(柱島泊地)、海軍工廠を持つ呉市や、第2総軍・陸軍第5師団司令部が置かれた重要拠点・広島市の防衛上、周辺海域は重要さを増していた。厳島においても海岸に砲台や高射砲陣地が築かれ、そのうちのいくつかは現存している。

1945年8月6日広島市への原子爆弾投下では、爆風により島内の民家の窓ガラスが割れるなどの被害を受けた。

[編集] 現代

日本の敗戦と共に、厳島は連合国軍・GHQに接収された。占領後の1954年(昭和29年)には、新婚旅行代わりの日本訪問中のマリリン・モンロージョー・ディマジオ夫妻が厳島を訪問している。

1950年 - 瀬戸内海国立公園の指定区域に厳島が加えられる。町名を「宮島町」に変更。

1952年 - 「昭和大修理」竣工。

1959年 - 宮島水族館が開館。現在では広島県唯一の水族館である。

1991年 - 台風19号により厳島神社左楽房(国宝)・能舞台(国宝)などが倒壊し、甚大な被害が出る。

1996年 - 厳島神社が世界遺産(文化遺産)に登録される。同時に原爆ドームも登録された。

2004年 - 台風18号により厳島神社左楽房・能舞台・平舞台・高舞台・祓殿・長橋・廻廊などが倒壊・浸水する。近年、海水面の上昇が著しく、ややまとまった雨量程度でも浸水の被害が出ており、地球温暖化との関連を指摘する説もある。

2005年11月3日 - 宮島町は大野町とともに廿日市市に編入される。ちなみに「廿日市市宮島町1-1」は、厳島神社である。

[編集] 風習

厳島は信仰上の理由から、独特の風習を多くもっている。時代とともに薄れたものや行われなくなったものも多いが、今も受け継がれているものもある。中央政権から離れた島の習俗であるために文献として記録されることは少なかったが、戦国時代に陶氏毛利氏の御師として精神面を支え、大内氏から「社奉行」に任じられた厳島神主家の棚守房顕が記した「棚守房顕覚書」(1580年(天正8年))には、膨大な業務文書を司る立場ならではの生々しい記録が残っていて価値が高い(「棚守房顕覚書」は、説明を付して1975年に宮島町から出版されている)。

[編集] ケガレの忌避

島全体が神域(御神体)とされたため、血や死といったケガレの忌避は顕著であった。

  • 島に死人が出ると、即座に対岸の赤崎の地に渡して葬る(房顕覚書)。赤崎は現在のJR宮島口駅のやや西にあり、遺族は喪が明けるまで島に戻ることができなかった。「~の向こう」と言うと「あの世」を連想するため、「~の前」と言い換えていた。この風習は第二次世界大戦頃までは続いていた。
  • 島には墓地も墓も築いてはならない。現在でも1基もない。
  • 島の女性に出産が近づくと、対岸に渡って出産後、100日を経て島に戻るしきたりであった。「婦人、児を産まば、即時に、子母とも舟に乗せて、地の方に渡す。血忌、百日終わりて後、島に帰る。血の忌まれ甚だしき故なり。」(房顕覚書) 厳島神社の外宮を地御前神社(廿日市市地御前)というように、「地の方」とは対岸の本州を指す。
  • 女性は生理の時期には、町衆が設けた小屋に隔離されて過ごした。「『あせ山』とて東町・西町の上の山にあり。各々茅屋数戸を設けたり。「あせ山」は血山なるべし。島内婦人月経の時、その間己が家を出て此処に避け居たりし。」(房顕覚書)

[編集] 耕作・機織りの禁止

鉄の農具を土に立てることを忌み、耕作は禁じられた。また、「女神の御神体内」であることから、古来より女性の仕事の象徴とされた機織りや布さらしも禁忌とされていた(山の神を参照)。「絶えて五穀を作らず、布織り布さらす事を禁ず」(房顕覚書)。

特に耕作が禁じられていることはよく知られ、島に生活する人のために対岸から行商人が船を出す光景は第二次世界大戦後まで続いた。廿日市(二十日の市)は鎌倉時代、厳島のために立った市場から発展した町である。

[編集] シカ・サルとの共生

厳島のシカは太古から生息していたと見られるが、歴史時代に入ると奈良春日大社にある神鹿(しんろく)思想の影響も受けつつ、神の使いとして大切に扱われた。シカが家に入らないように「鹿戸」を立て、家々で出た残飯は「鹿桶」に入れて与えた。房顕覚書によると、シカを害するのを避けるため、島内では犬を飼わず、外から犬が入り込むと島民が捕まえて対岸に放したという。

サルが家に入り込んで食べ物を盗っていっても、捕まえて罰することはなかった。

[編集] 潮汲み

町の商家や民家では、鳥居のある浜で海水を汲み、門前を清める「潮汲み」という習慣がある。元旦に行うものを「新潮迎(わかしおむかえ)」という。戦後は数人が行うのみにまで減っていたが近年見直され、行う家や店が増えつつある。

[編集] 文化・施設・観光

毎年8月14日には宮島水中花火大会が行われ、県内外から多くの見物客が訪れる。

島内には厳島神社以外にも大聖院をはじめ多くの仏閣がある。また、厳島神社宝物館、宮島水族館、宮島歴史民俗資料館、広島大学大学院理学研究科附属自然植物実験所、宮島町伝統産業会館などの文化施設がある。

国内外から観光客が多く訪れ、その数は年間300万人近い(2006年の船舶運輸実績(片道)は約283万人[7])。宮島桟橋から厳島神社へと続く道沿いには多くの旅館が点在している。

2007年から毎年1回、廿日市商工会議所により「宮島検定」が行われている。検定では、宮島の歴史や文化・自然に関する知識を問う問題が出題される。合格者には認定カードが発行される[8]

同商工会議所は、宮島に関する多くの情報を網羅した「宮島本」(宮島検定試験の公式参考書も兼ねる)を発行している。

[編集] 交通アクセス

島内の家並

[編集] 鉄道

広島電鉄宮島線の終点広電宮島口駅かJR山陽本線宮島口駅で降り、すぐそばにある宮島口桟橋からJR西日本宮島フェリーまたは宮島松大汽船の宮島港行きに乗船する。

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車の場合、広島市街地からは西広島バイパスから、山陽自動車道からは廿日市ICから国道2号を走り、宮島口駅周辺の有料駐車場に駐車し、宮島連絡船または宮島松大汽船を利用するのが一般的である。なお、観光客用の駐車場は島内は無く、一部の宿には宿泊者用の駐車場を備えている場合もあるが、道路が極めて狭いことは考慮すべきである。

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広島電鉄宮島線の終点広電宮島口駅かJR山陽本線宮島口駅からすぐにある宮島口港からJR西日本宮島フェリーまたは宮島松大汽船の宮島港行きフェリーに乗船する。10-15分で宮島に到着する。JR宮島航路は宮島港行きの昼間時間帯のみ厳島神社に近いコースをとり、満潮時には大鳥居に接近する。

宇品港より、ファーストビーチの高速船が利用できる。プリンスホテルまたは観音マリーナホップに寄港して、約30分で宮島に到着する。

平和記念公園そばにある元安桟橋より、アクアネット広島の高速船が利用できる。利用料金は大人1900円(往復3400円)・子供950円(同1700円)とやや高いものの、広島市内から宮島(厳島)へダイレクトで向かうことができ、遊覧観光を楽しむこともできる。


[編集] 唱歌

1900年(明治33年)に大和田建樹によって作詞された『鉄道唱歌』第2集山陽九州編では、大和田が歴史的意義のある地において多く歌詞を割く傾向があったことから、厳島も4番にわたって歌われた。

  • 19. 己斐(こい)の松原五日市 いつしか過ぎて厳島 鳥居を前にながめやる 宮島駅につきにけり
  • 20. 汽笛ならして客を待つ 汽船に乗れば十五分 早くもここぞ市杵島(いちきしま) 姫のまします宮どころ
  • 21. 海にいでたる廻廊の 板を浮かべてさす汐に うつる燈籠(とうろ)の火の影は 星か蛍か漁火(いさりび)か
  • 22. 毛利元就この島に 城をかまえて君の敵(あだ) 陶晴賢(すえはるかた)を誅せしは のこす武臣の鑑(かがみ)なり

なお19番の宮島駅は、現在の宮島口駅を指す。

[編集] 脚注・参考文献

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  1. ^ 日本離島センター (2004). 日本の島ガイド『SHIMADAS(シマダス)』, 第2版, 日本離島センター. ISBN 9784931230224. 
  2. ^ "厳島の最高峰「弥山(みせん)」の標高値が変わります". 国土地理院 (2005-10-06). 2009-09-20 閲覧。
  3. ^ 荒木亮司・三枝健二「宮島町下室浜遺跡のナイフ形石器」『研究紀要』第5集(2005) 広島県立歴史民俗資料館
  4. ^ 古瀬清秀・他「厳島における考古学的踏査とその検討」 『内海文化研究紀要』第34号(2006) 広島大学大学院文学研究科付属内海文化研究施設
  5. ^ 愛知学院大学貴重資料デジタルギャラリー テイセラ日本図。正確には、アブラハム・オルテリウスがテイセラの原図を基に「世界の舞台」1595年版に収録したもの。
  6. ^ 『菩提院遺跡発掘調査報告』 宮島町立歴史民俗資料館収蔵庫建設に伴う発掘調査の記録(2005) 宮島町教育委員会、『祝師屋敷跡発掘調査報告書』(1995) 祝師屋敷跡地内埋蔵文化財発掘調査団
  7. ^ 廿日市市統計書 H.運輸・通信(PDF)
  8. ^ 宮島検定(廿日市商工会議所)

[編集] 関連項目

弥山山頂付近にある三鬼権現堂

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ

最終更新 2009年11月10日 (火) 15:35 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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