司馬亮

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司馬亮(しば りょう、? - 291年)は、西晋皇族子翼司馬懿の第3子(或いは第4子とも)。生母は伏夫人で、司馬伷の同母兄。また、司馬師司馬昭の異母弟、司馬幹の異母兄に当たる。諡号文成王

[編集] 略歴・人物

若い頃はの東中郎将などを歴任した。甥の武帝(司馬炎)が魏を滅ぼして、帝位に即くと扶風王に封じられ、277年8月汝南王に移った。その信頼は絶大で、太尉・録尚書事・領太子太傅となった。

武帝が病床につくと皇后楊氏の父・楊駿から排斥され、大司馬・仮黄鉞・大都督・督予州諸軍事として、許昌に赴任する事になった。290年4月、武帝は司馬亮がまだ出発前だったので楊駿と共に皇太子司馬衷(恵帝)の後見役を遺託しようとした。しかし楊駿が詔を中書監に留める内に崩御した。楊駿が自分を討ち取ろうしている事を察知して、大司馬門外から哀悼して、夜に許昌へ向かい危機を逃れた。

恵帝が即位すると楊駿は全権を掌握し、司馬氏の王公から怨まれた。殿中中朗の孟観と李肇は、楊駿を排除する計画を立てていた。一方、恵帝の皇后である賈南風も、政事に預かるのに楊駿が邪魔者だったので、腹心の董猛と廃皇太后を考えていた。ついに孟観、李肇、董猛らは結託する。李肇が賈南風から楊駿を誅殺する命令を届けると司馬亮は了承した。さらに賈南風は、21歳の若き荊州都督の王・司馬瑋(武帝第5子)にも李肇を派遣した。同意した司馬瑋は291年2月洛陽に戻った。3月孟観と李肇が夜に恵帝から詔書を出させると、楊駿を初めとする楊一族は皆殺しにされた。

こうして楊一族が誅滅されると、司馬亮を名誉職である太宰に任命され、太保衛瓘と共に輔政の任に就いた。そして衛将軍・領北軍中候に楚王・司馬瑋が就いた。宗室の長老である司馬亮は、衛瓘と相談の上、従孫の司馬瑋の軍権を剥奪し、「封地の楚に戻るべし」との命を出し、これを聞いた司馬瑋は逆上した。6月司馬瑋の部下から司馬亮と衛瓘が誣告されると、二人を嫌悪していた賈南風は我が事成れりと判断し恵帝に「太宰、太保の長老は謀反を企んでおります。直ちに楚王に命じて、討伐すべきです」と上奏した。恵帝は妻の言いなりのままに司馬瑋に詔を下した。司馬瑋は直ちに軍隊を動かし、司馬亮と衛瓘を討伐した。司馬亮の長史の劉準は「これは陰謀です、戦うべきです。」と言ったが抵抗せず、李肇に捕らえられ「私の忠心を破って、この無道を天下に示せ。」と嘆いた。誰も手を出そうとしなかったが、司馬瑋が「司馬亮を斬れば恩賞を出す。」と言うと、兵士達に惨殺された。

これをきっかけに、八王の乱という大規模な内乱に発展していった。

[編集] 宗室

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  • 世子・司馬粋 (早世
  • 汝南懐王・司馬矩
  • 西陽王・司馬
  • 南頓繇王・司馬宗
  • 汝陽王・司馬煕
  • 汝南侯・司馬祐 (字:矩子)

最終更新 2009年9月29日 (火) 07:44 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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