司馬越
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司馬越(しばえつ、生年不明 - 311年)は、中国 西晋の皇族。字は元超。司馬懿の四弟である司馬馗(季達)の孫で、高密王・司馬泰(子舒)の庶長子。太傅。東海王。諡号は孝献王。八王の乱を終結させ、懐帝を即位させる。西晋の実権を握るも、懐帝と対立する中、病死。八王の乱後の政権を支えていた司馬越だが、永嘉の乱を収めきれないままであり、西晋は彼の死の直後には滅亡が決定的となった。
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[編集] 生涯
291年、恵帝の外戚である楊駿討伐の際に功績を上げ、東海王に封ぜられる。
303年、当時、権力を握っていた司馬乂、司馬穎、司馬顒の分裂に際し、司馬乂の部下を味方につけ、洛陽で司馬乂を捕らえることに成功する。それにより、尚書令となるが、翌年、司馬穎、司馬顒を討つため予章王・司馬熾(後の懐帝)とともに挙兵するが、大敗した。
匈奴、鮮卑などを味方につけ、領地である東海で体勢を立て直した司馬越は、司馬顒との講和を拒絶し、306年に長安に遷都させられていた恵帝を洛陽に迎えて入城する。同年、司馬穎を誅殺し、司馬顒を降伏させ、司馬越は権力を手中にすることに成功した。
しかし、311年正月1月、懐帝が司馬越殺害の密書を出したことにより両者の関係が悪化したため、司馬越は洛陽を離れる。同年3月、懐帝により司馬越討伐の勅令が出されたが、項城で病死した。その死後、東海王の軍勢一行が彼の棺を送って都に帰る途中で、趙漢の将軍の石勒(後趙の高祖)に襲撃されてしまい、彼の息子の司馬毗を初めとする多くの東海王の一族や将軍が殺害されたという。
[編集] 宗室
[編集] 子
- 世子司馬毗
- 養子司馬沖(道譲)
[編集] 兄弟
- 新蔡王・司馬騰(元邁)
- 高密王・司馬略(元簡)
- 南陽王・司馬模(元素)
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