吉村禎章
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| 読売ジャイアンツ コーチ #77 | |
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| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | 奈良県御所市 |
| 生年月日 | 1963年4月27日(46歳) |
| 身長 体重 |
180cm 89kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 左投左打 |
| 守備位置 | 外野手 |
| プロ入り | 1981年 ドラフト3位 |
| 初出場 | 1982年7月20日 |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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選手歴
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コーチ歴
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この表について
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吉村 禎章(よしむら さだあき、1963年4月27日 - )は元プロ野球選手(外野手)。現在は読売ジャイアンツの野手総合コーチ。奈良県御所市出身。サッカー元日本代表の岩淵功は岳父にあたる。
目次 |
[編集] 来歴・人物
[編集] プロ入り前~札幌円山球場での事故
PL学園高で西川佳明、若井基安らと共に1981年の第53回選抜高等学校野球大会にて優勝を果たした。1982年、ドラフト3位で読売ジャイアンツに入団。高いバッティングセンスと身体能力を武器に2年目の1983年に84試合の出場を果たし、規定打席未到達ながら打率3割2分6厘の好成績を挙げる。その活躍をきっかけに、翌1984年からレギュラーに定着、将来を有望視されていた。
- 1985年、阪神のランディ・バースが54本を打って対巨人最終戦に挑んだため、当時巨人監督だった王貞治の持っていたシーズン55本塁打の記録更新かと騒がれ、巨人はバースに敬遠攻めをしたが、この結果バースはそれまで出塁率リーグトップであった吉村を最後の最後に抜き、吉村は最高出塁率のタイトルを逃した。
- 1986年は主軸として128試合にフル出場(当時は130試合制)。打率5位、23本塁打を記録。
- 1987年も打率5位、86打点をマーク、30本塁打も達成。後半戦は30代後半にさしかかったウォーレン・クロマティにかわり、3番打者として出場した。
30号目は「2ストライク4ボール」からの本塁打で有名。[1]10月18日、対広島後楽園球場最終戦、ボール4つに達した際に球審がそれを失念しており、吉村自身もアピールしないまま白武佳久投手が次の1球を投げ、ホームランを打った。その本塁打で吉村はシーズン30号に到達。翌年から巨人は本拠地を東京ドームに移転したため後楽園球場での公式戦最後の本塁打となった。ちなみに、この球審のミスに気付いたジャイアンツの選手は篠塚利夫だけだったという。
- 1988年は往年の名外野手簑田浩二の加入と駒田徳広の台頭により、定位置だったライトから松本匡史の引退で空いたレフトへコンバートされた。3月18日東京ドームが完成して初めての試合(阪神戦)でオープン戦ではあるが記念すべき第1号ホームランを放った。
シーズン67試合目、1988年7月6日の対中日ドラゴンズ戦(札幌市円山球場)で、3回に通算100号本塁打を放ったものの、8回の左翼手としての守備で中尾孝義の放った外野フライを捕球した際、この回から中堅手の守備に入った栄村忠広と激突し、左膝の4本の靱帯のうち3本が完全に断裂し、さらに神経まで損傷するという、主治医曰く「交通事故レベル」という、プロ野球史上でも前例の無い大怪我を負った[2]。長い療養生活を余儀なくされ、それでも後遺症が確実に残るあまりにも深刻な負傷であり、負傷直後は再起不能という報道が飛び交う状態で、果たして本当に復帰が叶うか疑問視される事も少なくなかった。
- けがをする前までのプロ7年間の通算打率は3割2分1厘。5歳年上の右の主砲の原と3番4番を打ち、近く確実に4番を奪う男と目されていた。左打者ということから王貞治監督(当時)の後継者とも言われていた。
[編集] リハビリ~復帰
左膝靭帯断裂は重度の障害者認定を受けるほどの大怪我であった。一旦北海道大学付属病院に入院したが、当時の日本の医療レベルでは手に負えるものではなく、渡米し、スポーツ医学の権威であるフランク・ジョーブ博士の執刀を受けた。リハビリで使用したギプスはジャイアンツの選手寮に飾られている。2度の手術と神奈川県厚木市の神奈川リハビリテーション病院にて1年以上の苦しいリハビリ生活を経て、最終的には特注品のレガースとシューズを付け、直線100メートルを11秒台前半で走れるまでに復活。
1989年9月2日に代打で復帰した際は「バッター斎藤に代わりまして、吉村」というアナウンスがかき消されるというほどの大歓声に東京ドームが包まれた。この打席での相手投手は当時ルーキーの川崎憲次郎であった(内野ゴロ)。サヨナラ本塁打で優勝を決めた時も、相手投手は川崎であった[3](川崎も吉村同様にカムバック賞受賞者)。1990年9月8日、チームのリーグ優勝を自らのサヨナラ本塁打で決めた(なお、巨人の優勝決定サヨナラ本塁打は、10年後の2000年9月24日の対中日戦で、この1990年に吉村が付けていた背番号と同じ「7」を付けた二岡智宏も記録している)。1990年代前半は貴重な打てる外野手として貢献。
- けがによって、中長距離ヒッターにとってオーソドックスな軸足(左脚=けがをした脚)に体重を乗せる打ち方が不可能になり、リハビリを通じて前脚(右脚)を軸に回転する打ち方に取り組むことになったが、以後の数字は吉村がその非凡なセンスでそのイレギュラーな打ち方で中長距離ヒッターとして復帰したことを物語っている。
[編集] 代打要員、現役引退以降
その後も主に左の代打の切り札として福王昭仁、後藤孝志らと共に活躍し、1997年シーズン終了後には長嶋茂雄監督から第16代・キャプテンに指名された。1998年に現役引退後、巨人コーチや野球解説者などを務め、2006年には巨人の二軍監督に就任。
2006年はシーズン後半、怪我人が続出した1軍へ脇谷亮太を1番打者として送り出すなど貢献。2007年は世代交代を受け坂本勇人など4人のルーキーを優先起用した。このことも重なりチーム出塁率・犠打数などはリーグ最低の数字となったものの、再調整中の1軍投手などにも助けられイースタン・リーグ優勝を成し遂げた。野手の入れ替えは少なかったが、頻繁に上下する投手の再調整などで1軍優勝にも貢献している。
2009年からは一軍野手総合コーチに就任。
[編集] 年度別打撃成績
| 年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1982 | 巨人 | 4 | 3 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 |
| 1983 | 84 | 104 | 95 | 26 | 31 | 1 | 4 | 5 | 55 | 11 | 3 | 0 | 1 | 0 | 8 | 1 | 0 | 11 | 1 | .326 | .379 | .579 | .958 | |
| 1984 | 115 | 298 | 260 | 56 | 89 | 26 | 3 | 13 | 160 | 34 | 8 | 8 | 4 | 1 | 29 | 1 | 4 | 30 | 0 | .342 | .415 | .615 | 1.030 | |
| 1985 | 120 | 418 | 344 | 57 | 113 | 19 | 1 | 16 | 182 | 56 | 8 | 6 | 4 | 6 | 59 | 3 | 5 | 36 | 4 | .328 | .428 | .529 | .957 | |
| 1986 | 128 | 534 | 474 | 84 | 148 | 25 | 6 | 23 | 254 | 72 | 10 | 4 | 7 | 5 | 41 | 3 | 7 | 68 | 8 | .312 | .372 | .536 | .908 | |
| 1987 | 127 | 464 | 428 | 76 | 138 | 21 | 2 | 30 | 253 | 86 | 5 | 1 | 8 | 3 | 24 | 3 | 1 | 62 | 9 | .322 | .357 | .591 | .949 | |
| 1988 | 65 | 256 | 222 | 33 | 67 | 12 | 1 | 13 | 120 | 39 | 4 | 0 | 1 | 5 | 26 | 1 | 2 | 23 | 3 | .302 | .373 | .541 | .913 | |
| 1989 | 17 | 31 | 28 | 0 | 5 | 0 | 0 | 0 | 5 | 4 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 0 | 0 | 3 | 0 | .179 | .226 | .179 | .404 | |
| 1990 | 84 | 241 | 208 | 26 | 68 | 11 | 0 | 14 | 121 | 45 | 0 | 0 | 0 | 1 | 29 | 6 | 3 | 25 | 4 | .327 | .415 | .582 | .997 | |
| 1991 | 93 | 271 | 242 | 25 | 55 | 6 | 0 | 10 | 91 | 42 | 0 | 1 | 0 | 1 | 27 | 2 | 1 | 31 | 6 | .227 | .306 | .376 | .682 | |
| 1992 | 91 | 248 | 224 | 25 | 71 | 10 | 0 | 6 | 99 | 32 | 1 | 0 | 0 | 2 | 20 | 2 | 2 | 22 | 5 | .317 | .375 | .442 | .817 | |
| 1993 | 94 | 351 | 311 | 26 | 84 | 14 | 1 | 8 | 124 | 43 | 0 | 1 | 1 | 6 | 28 | 1 | 5 | 46 | 6 | .270 | .334 | .399 | .733 | |
| 1994 | 81 | 174 | 160 | 14 | 28 | 6 | 0 | 3 | 43 | 23 | 0 | 0 | 0 | 0 | 14 | 0 | 0 | 20 | 9 | .175 | .241 | .269 | .510 | |
| 1995 | 53 | 75 | 66 | 5 | 19 | 2 | 0 | 4 | 33 | 13 | 1 | 0 | 0 | 0 | 9 | 1 | 0 | 8 | 4 | .288 | .373 | .500 | .873 | |
| 1996 | 53 | 65 | 61 | 2 | 15 | 0 | 0 | 2 | 21 | 11 | 0 | 1 | 0 | 1 | 3 | 0 | 0 | 9 | 1 | .246 | .277 | .344 | .621 | |
| 1997 | 69 | 69 | 62 | 2 | 16 | 6 | 0 | 1 | 25 | 14 | 0 | 0 | 0 | 3 | 4 | 1 | 0 | 11 | 3 | .258 | .290 | .403 | .693 | |
| 1998 | 71 | 76 | 65 | 2 | 17 | 2 | 0 | 1 | 22 | 10 | 0 | 0 | 0 | 0 | 11 | 2 | 0 | 12 | 1 | .262 | .368 | .338 | .707 | |
| 通算:17年 | 1349 | 3678 | 3253 | 459 | 964 | 161 | 18 | 149 | 1608 | 535 | 40 | 22 | 26 | 35 | 334 | 27 | 30 | 418 | 64 | .296 | .364 | .494 | .858 | |
[編集] タイトル
[編集] 背番号
- 55 (1982年 - 1985年)
- 7 (1986年 - 1998年)
- 87 (2002年 - 2003年)
- 77 (2006年 - )
[編集] 関連項目
[編集] 出典
- ^ sponichi annex
- ^ 1988年7月7日付読売新聞19面、当初は「じん帯損傷」と発表された。王監督(当時)も、この試合について「試合に勝ったことより、吉村のケガが心配だ。起きてしまったことは仕方ないが……」と述べた。
- ^ 『巨人軍5000勝の記憶』 読売新聞社、ベースボールマガジン社、2007年。ISBN 9784583100296。 p.70~
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最終更新 2009年9月19日 (土) 16:06 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【吉村禎章】変更履歴

