吉田兼好
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吉田 兼好(よしだ けんこう、弘安6年(1283年)頃か -文和元年/正平7年(1352年)以後)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての官人・遁世者・歌人・随筆家。治部少輔卜部兼顕の子。本名は卜部兼好(うらべ かねよし/うらべ の かねよし)。卜部氏の嫡流は後の時代に吉田家、平野家などに分かれ、兼好は吉田家の系統であったことから江戸時代以降は吉田兼好と通称されるようになった。また出家したことから兼好法師(けんこうほうし)とも呼ばれ、中学校国語の検定済み教科書ではすべて「兼好法師」と表している。
日本三大随筆の一つとされる『徒然草』の作者であり、また私家集『兼好法師家集』がある。
[編集] 経歴
卜部氏は古代より卜占を司り神祇官を出す神職の家柄であり、父兼顕も吉田神社の神職であった。母や生年は明らかでないが、一般には弘安6年ごろの出生と考えられている。堀川家の家司となり、正安3年(1301年)に後二条天皇が即位すると、天皇の生母である西華門院が堀川具守の娘であったことから六位蔵人に任じられる。従五位下左兵衛佐にまで昇進した後、30歳前後に出家遁世するが、その詳細な時期や理由は定かでない。『徒然草』に最初に注目したと言われる正徹の歌論書『正徹物語』以来、後宇多法皇の死を悲しんで発心したとする説もあったが、1324年の法皇崩御のはるか以前、1313年以前には遁世していたことが文書から確認されており、後宇多院崩御を契機とする説は現在では否定されている。法名としては、俗名を音読した兼好(けんこう)を名乗った。
出家した後の兼好の生活については修学院や比叡山横川などに籠り仏道修行に励む傍ら和歌に精進した様子などが自著から窺われるがあまり明確ではない。鎌倉には少なくとも2度訪問滞在したことが知られ、鎌倉幕府の御家人で後に執権となる金沢貞顕と親しくしている。その時、現在の神奈川県横浜市金沢区の上行寺の境内に庵があったと伝えられる。
二条為世に和歌を学び、為世門下の和歌四天王の一人にも数えられる。その詠歌は『続千載集』・『続後拾遺集』・『風雅集』に計18首が収められている。また、散文で思索や見聞した出来事を記した『徒然草』は、室町時代中期以降、高く評価され、現代においても文体や内容が文学的に評価されているだけでなく、当時の社会風潮などを知るための貴重な史料ともなっている。
室町幕府の九州探題である今川貞世(了俊)とも文学を通じて親交があった。また晩年は、当時の足利氏の執事高師直に接近したとされ、『太平記』にその恋文を代筆したとの記述がある。
没年は、『大日本史料』所引の『諸寺過去帳』収載『法金剛院過去帳』の記載や、17世紀中葉の大和田気求『徒然草古今抄』の記す伝承により、観応元年/正平5年4月8日(1350年5月14日)ともされていたが、この日付以降の活動を示す史料が複数指摘され、その中でもっとも遅いものとして1352年8月の『後普光園院殿御百首』奥書に名前がみえることから、現在の通説ではこの年以後と考えられている。なお、生年の弘安6年というのは、観応元年を没年とする伝承の一部に享年を68歳と記すことからの逆算であるが、特に否定する史料が発見されていないことから、恐らくこの頃の生誕とされている。
[編集] 参考文献
- 川平敏文『兼好法師の虚像 偽伝の近世史』 平凡社 2006年 ISBN 4582842267
[編集] 関連項目
最終更新 2009年8月16日 (日) 09:07 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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