吉田実 (競輪選手)

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吉田 実(よしだ みのる、1934年昭和9年)5月1日- )は香川県出身の元競輪選手である。ホームバンクは観音寺競輪場であった。

1950年(昭和25年)7月25日選手登録(期前選手)。

目次

[編集] 経歴

[編集] 少年時代は草レースの常連

吉田は小さい頃から俗に「草レース」と呼ばれる自転車レースに親しみ、地元の観音寺市はおろか、四国にその名をとどろかせるほどであったという。もし競輪がなければオリンピックを目指していたはずであるが、丁度1948年に競輪が誕生したことから、好きな自転車を職業にできると興味を持ち、上記の通り、1950年に競輪界入りした。

[編集] 石田雄彦が目標

ところで、吉田が競輪界入りした頃は関西、つまり近畿地区の層がかなり厚く、記念競輪ではそこそこ勝てても、特別競輪(現在のGI)となると厳しい戦いを余儀なくされていた。

そんな中、吉田と同年齢の大阪石田雄彦が昭和30年代初頭からタイトルを次々と制覇していったことに触発され、しかも石田は吉田とは違い、競輪界入りするまではまともなスポーツ歴さえなかったことから、とにかく石田があそこまでできるんだったら、自分にもできるはずだと思い、まずは石田に追いつけ追い越せという考えをもつようになった。

[編集] 特別競輪史上に残る大激闘を制す

1958年の第13回全国争覇競輪(現 日本選手権競輪)決勝はゴール前で稀にみる大激闘となった。後楽園競輪場での12車立てレースで行われた一戦において、何とそのうちの約半数が落車(いわゆる、ゴール寸前における落車で、競輪用語では「落車滑入」と言われるもの)し、吉田の後輪も大破したが、「残った」前輪一つ分他に先んじてゴール線を切っていたという、今もなお競輪史上語り継がれる伝説のレースを制し、見事初のダービー王に輝くとともに、待望の特別競輪制覇を果たした。

同レースの映像は現存しないが、吉田が前輪一つ分先んじてゴールした決勝写真は残っており、それがこの一戦の大激闘を物語っている。

[編集] 雪辱を期した一戦

1959年の第14回全国争覇競輪決勝において、吉田は宿敵・石田に悔しい敗戦(詳しくは石田雄彦を参照)を喫し、しばらくその悔しさのあまり、なかなか寝られない日々が続いたという。

そして翌1960年の第15回の同大会は何としても優勝せねばならないという意気込みで臨み、予選から全勝で決勝へと進出。そして11月3日の決勝の日を迎えた。

ところがこの日、祝日だった上に、前年の同大会がきっかけとなった石田との因縁の対決という触れ込みが戦前から伝えられていたこともあり、開催地の後楽園競輪場ではレース前から観客で一杯の状態。ついには途中からスタンドにあぶれた観客がバンク内へとなだれ込み、何と決勝戦はバンク内に観客を入れて行うという事態となった。

たまたまこの一戦において、広島古田泰久が吉田の前で駆けることを宣言したこともあり、古田は吉田を従えて主導権を奪い、直線に入って吉田は古田を差して見事完全優勝。と同時に前年の雪辱を果たした。

しかし観客をバンク内に入れてレースを行ったことに対して、主催者の東京都は事態を重く見て、翌年の同大会も既に決定していたにもかかわらず、開催を返上。その後同大会は2年間に亘って開催に名乗りを上げるところが現れず、一時は廃止の危機に立たされた(詳しくは日本選手権競輪を参照)。

[編集] 事実上、日本最初のスプリンター

吉田がトップクラスに君臨していた頃の競輪選手の使用ギアというのは、3.80あたりの、今でいえば「大ギア」が主流であった。

ところが吉田はその主流ギアに相反し、3.50台のギアで競走しており、多くの選手たちは、よくあんな軽いギアでレースができるものだ、と言っていたほどであった。

しかし少年時代から自転車で世界に伍して戦いたいという思いをもっていた吉田にとって、世界一流のスプリンターは軽いギアで戦うことを常としており、また吉田自身、長い距離をもがけないと述べていることから、自身にとって最善のギアだったということがいえる。

また吉田は自転車競技にも力を入れていて、世界自転車選手権スプリント種目にも3回出場。いずれも予選落ちに終わったが、吉田の考え方は後に、平間誠記(日本プロ選手史上初の入賞)や阿部良二(同史上初のメダル獲得)にも受け継がれ、ひいては中野浩一の同大会プロ・スプリント10連覇へと繋がっていくことを考えると、吉田の存在は成績以上に大きなものを物語っているといえる。

[編集] 石田・吉田時代

一方で競輪のほうでは、吉田は石田とともに、競輪界の第二期と言われる黄金時代を支えた。

特に昭和30年代において、吉田は6回、石田は5回の特別競輪制覇を果たしており、同年代終盤こそ、高原永伍がタイトルを量産することになるが、事実上同年代は二人の時代だったということがいえる。

事実上2人の時代が終焉を迎えるのは1965年川崎オールスターであり、そのときもまた、決勝戦の当日、川崎競輪場ではバンク内に客がなだれ込むという非常事態が発生したが、当時3強と言われた高原・平間・白鳥に対し、吉田と石田が果たして巻き返すことができるのか、というファンの期待が大きかったからだとも言われている。

[編集] 不死鳥・鉄人

吉田は50歳の時に交通事故に遭い、年齢的なことを考えると、現役選手として続行するのは難しいと言われた。ところが、まだ競輪で遣り残したことがあると考えた吉田はその後、懸命にリハビリにはげみ、ついには競走に復帰した。このことにちなみ、吉田のことを不死鳥鉄人と呼ぶ人も少なくない。

[編集] 獲得タイトルなど

  • 日本選手権競輪・・・1958・60(=完全優勝)
  • 通算勝利数・・・1232勝(歴代第2位)
  • 賞金王・・・1961・62
  • 吉田の功績を讃え、観音寺競輪場では毎年、S級シリーズ「吉田実杯」が開催されている。

[編集] 関連項目

先代:
加藤晶
都道府県選抜4000m優勝者
1962年~1963年
次代:
高原永伍

最終更新 2009年9月17日 (木) 05:03 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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