名護屋城

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名護屋城
佐賀県
名護屋城天守跡
名護屋城天守跡
通称 名護屋御旅館
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 5重7階(非現存)
築城主 豊臣秀吉
築城年 1591年
主な改修者 なし
主な城主 豊臣氏
廃城年 1598年
遺構 石垣、空堀
指定文化財 国特別史跡
位置 北緯33度31分48.12秒
東経129度52分9.75秒
  
名護屋城大手門跡
佐賀県名護屋城博物館

名護屋城なごやじょう)は、肥前国松浦郡名護屋(現在の佐賀県唐津市鎮西町名護屋)にあった豊臣秀吉文禄・慶長の役に際し築かれた城。国の特別史跡に指定されている。

目次

[編集] 概要

名護屋(古くは名久野)は海岸線沿いに細長く広がる松浦郡の北東部の小さな湾内に位置し、中世には松浦党の交易拠点の一つであった。ここにはもともと松浦党の旗頭・波多氏の一族である名護屋氏の居城であった垣添城跡があり、豊臣秀吉は大陸への進攻を企図した際、ここを前線基地として大掛かりな築城を計画した。

[編集] 歴史・沿革

[編集] 安土桃山時代

加藤清正寺沢広高普請奉行となった。九州の諸大名を中心に動員し、突貫工事で僅か8ヶ月後の文禄元年(1592年)3月に完成した。規模は当時の城郭では大坂城に次ぐ広壮なものであった。本丸・二の丸・三の丸・山里曲輪などを配し、本丸北西隅に5重7階の天守が築かれた。城跡からは金箔を施した瓦が出土しており、派手好きの秀吉らしく戦争の為に構えた城郭であっても絢爛豪華であったことが伺える。城郭の周辺には各大名の陣屋が配置された。

西国衆を中心に総勢15万8000の兵が9軍に編成され、4月1日に小西行長宗義智率いる第一陣が朝鮮半島へ出兵したのを皮切りに、名護屋を出発した諸隊は壱岐・対馬を経て朝鮮に渡っていった。秀吉は京都聚楽第を3月26日に出発し4月25日に当地に到着している。以後大政所の危篤時を除いてこの地が本営となる。文禄の役では最終的に20万以上の兵が名護屋から朝鮮に渡った。当地には西国衆の渡海後も東国衆と秀吉旗本衆約10万の兵が駐屯している。多くの人員を養うには水源が足りなかったようで、水不足が原因の喧嘩が絶えなかったという。

朝鮮半島で戦線が膠着すると、翌文禄2年(1593年)4月には講和交渉が開始されるが、交渉が破談すると秀吉は、再び慶長2年(1597年)2月から14万人を朝鮮半島へと上陸させた。

この慶長の役でも、補給・連絡の中継地として名護屋は重要な役割を果たした。慶長3年(1598年)8月18日、秀吉が没したために全軍撤収し名護屋城もその役割を終えた。 出兵の期間中、秀吉が当城に滞在したのは延べ1年2ヶ月であった。

出兵の終わった後、この地は寺沢広高の治めるところとなった。関ヶ原の戦いの後、慶長7年(1602年)広高は唐津城の築城を開始した。この際に名護屋城を解体しその遺材を使用した。また、この際に二度と城が利用できないように要となる石垣の四隅を切り崩すなどの作業を行われたようだが、本格的に城が破壊されたのは、島原の乱以降のことである。島原の乱で徳川幕府が謀反の際名護屋城が利用されること恐れたためと、名護屋城を破壊することで幕府が明国や朝鮮と関係を改善する意思表示をしたと見られている。

[編集] 近現代

大正15年(1926年11月4日、「名護屋城跡並陣跡(なごやじょうあとならびにじんあと)」として国の史跡に指定される。昭和30年(1955年8月22日特別史跡に指定された。名護屋城周辺には100以上の陣跡があるが、史跡に指定された陣跡は以下の23箇所。


黒澤明監督による『』(1985年公開)のロケ地の一つに、名護屋城が選ばれ撮影が行われた。

平成18年(2006年)4月6日、日本100名城(87番)に選定され、平成19年(2007年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。

[編集] 現地情報

所在地

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年11月11日 (水) 19:40 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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