呂布
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| 呂布 | |
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| プロフィール | |
| 出生: | 不詳 |
| 死去: | 198年 下邳 |
| 出身地: | 五原郡九原県 |
| 職業: | 軍人 |
| 各種表記 | |
| 繁体字: | 呂布 |
| 簡体字: | 吕布 |
| 拼音: | Lǚ Bù |
| 発音転記: | リュイ ブゥ |
| 英語名: | Lü Bu |
呂 布(りょ ふ、? - 建安3年(198年))は後漢末期の武将、群雄。字は奉先。五原郡九原県(現在の内蒙古自治区内)の生まれ。戦乱の後漢末期にあって群を抜く武勇を誇り、三国志の物語等では最強の武将として描かれる。
目次 |
[編集] 事跡
[編集] 董卓政権下
『三国志』によると、その勇猛を買われ[1]、河内に并州刺史として駐屯していた騎都尉の丁原に主簿として仕え、重用された。中平6年(189年)、霊帝死後の混乱の中で丁原とともに首都洛陽に入るが、中央の権力獲得を図る董卓とやがて衝突した。董卓は丁原殺害を目論むと、その下にいる呂布に謀反をもちかけた。誘いをかけられた呂布は丁原を斬り、そのまま董卓に仕えて信頼を得た。董卓は呂布を非常に重用し、養子とした。さらに董卓によって丁原が就いていた騎都尉に任ぜられ[2]、まもなく中郎将に累進し、さらに都亭侯に封じられた。 絶大な権力を握った董卓は傍若無人な振る舞いで多くの人の恨みを買ったが、傍らに呂布が侍していたために誰も表立って意見する者はいなかった。
呂布は腕力が常人よりもはるかに強く、弓術・馬術にも秀でていたため、前漢時代に活躍した李広になぞらえて飛将と呼ばれていた。『三国志』の注に引かれている『曹瞞伝』(これ自体は散逸)によると、彼の愛馬「赤兎」とともに「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と賞されたという。その一方で知謀には欠け、敵対する者からでも利益で誘われるとすぐに行動をおこしてしまうという、節操がなく物欲の強い性格であったようである。
[編集] 董卓暗殺
ある時、董卓は一時の怒りから呂布に手戟(小さな剣)を投げつけたが、体術に優れていた呂布は見事にかわして事なきを得た。しかしそれ以来、呂布は董卓に不満を持つようになった。さらに呂布は董卓の侍女(『三国志演義』では司徒王允の養女貂蝉)と密通しており、それが露顕することを恐れていた。この両者の隙に乗じ、暴虐の限りを尽くす董卓の抹殺を目論む王允は呂布に董卓暗殺を唆す。初平3年(192年)、ついに呂布は董卓を殺害し、その恐怖政治を終わらせた。
しかし董卓を殺害後、呂布は董卓の故郷である涼州出身者を恐れ憎んだので、呂布は涼州の人々に恨まれた。それが原因の一つとなり、董卓の軍事力の基礎であった郭汜・李傕ら涼州の軍勢が首都長安(董卓によって洛陽から遷都)を襲撃した。呂布は応戦したものの防ぎきれず、李傕らに長安を奪われた。ちなみに『三国志』の注に引く『英雄記』によると、この攻防戦の際に呂布は郭汜に一騎打ちを挑み、郭汜を負傷させたが、郭汜は味方に助けられた。
呂布は数百騎を率いて武関から逃亡した。
[編集] 中原を彷徨う
呂布はまず袁術を頼ろうとするが、拒否されている。次に張燕ら黒山賊と戦う河北の袁紹に助太刀した。呂布の軍は強く、精強を誇った黒山賊を撃破した。しかし、その後、呂布は袁紹に兵力の補充を要求し、彼の兵も略奪などを行ったので、袁紹の忌むところとなり、呂布もそれを察して彼の下を離れようとした。さらに袁紹は呂布に刺客を送るが失敗、呂布は袁紹の元から逃走した。流浪の途中、呂布は陳留を通過し、曹操の親友であり信頼も厚い陳留太守の張邈に厚くもてなされたが、袁紹はその事を大いに悔しがった。結局、呂布は河内の張楊を頼った。
以前、袁紹は張邈と口論になり、袁紹は曹操に張邈を殺させようとしたが、曹操は袁紹に「張邈は自分の親友であるので、許してやって欲しい。今は仲間割れをする時ではない」と反論したので、張邈は曹操に恩義を感じたといわれる。しかし、やがて張邈は時の権力者の袁紹に色々と恨みを買っていることから、袁紹の命令で曹操に攻撃されることを恐れるようになった。さらに張邈は曹操の部下でありながら彼に不満を持つ陳宮に説得され、呂布を盟主として迎え入れて兗州刺史とし、曹操に反旗を翻した。
曹操・呂布の両軍は蝗害に苦しみつつも1年以上にわたって激しく戦い、呂布軍は曹操に重症を負わせたが、ついに呂布軍は曹操軍に敗れ、呂布と陳宮は徐州を支配していた劉備を頼って落ち延びた。
[編集] 徐州を支配
まもなく劉備が袁術と合戦を行うようになり、袁術は呂布に劉備の背後を衝くようにもちかけた。呂布は張飛と曹豹の争いに乗じて劉備の本拠下邳を奪い取り、徐州の刺史を自称した。行き場を無くした劉備は結局、呂布に従う羽目になり、小沛に駐屯させられた。
この後、袁術は武将紀霊らに兵三万を率いさせて再び劉備を攻め、劉備は呂布に救援を求めた。呂布軍の諸将は「将軍は常に劉備を殺そうとしていたのですから、袁術に手を貸すべきです」と救援に反対したが、呂布は「いや、もし袁術が劉備を撃破すれば、北の泰山の軍閥と連携することになり、わしは袁術らに包囲されてしまうことになる。救援せざるをえない」と主張して、劉備の陣中に介入した。紀霊たちは呂布が現れたと聞くや兵を纏めて攻撃を中止していたが、呂布は両陣営の将を安屯に集めさせて和解させようと図った。
呂布は、「劉備はわしの弟だ。弟が諸君らのせいで困っておるので、助けに来たのだ。わしは合戦を好まず、和解を喜ぶ性格なのだ」と言い、軍候に命令して戟を陣営の門に植えた。「わしが戟の小支を射るのを見よ。一発で当たれば兵を引いて去れ。引かぬというのなら好きにやれ」と言って呂布が放った矢は見事に命中し、驚愕した諸将は皆、引き揚げていった。
しかし、その後、呂布は劉備を攻め、小沛を陥落させた。劉備は逃走し、曹操を頼った。
[編集] 最期
その後、袁術は呂布に婚姻を持ちかけ、呂布もこれを受けようとしたが、沛国の相である陳珪はこの二人が連携することで騒乱がさらに深まることを恐れ、呂布を唆して縁談を破談させ、曹操と連携させた。怒った袁術は呂布に大軍を差し向けるが、陳珪とその息子の陳登の離間の計により袁術軍は混乱し、そこを突いた呂布軍によって大敗した。曹操は呂布に左将軍の官位を与えた。一方で陳珪は陳登を首都許昌(曹操によって遷都)に遣わし、皇帝を擁して急速に勢力を強大化しつつあった曹操に呂布を討つようそそのかした。
建安3年(198年)、呂布は再び袁術側につくと、部下の高順を派遣して小沛の劉備を攻撃した。曹操は夏侯惇を派遣して劉備を救援させたが、高順に敗退し、小沛は陥落し、劉備の妻子は捕虜となった。そこで曹操は自ら大軍を率いて徐州に攻め込んだ。呂布は優れた武勇を見せたものの、計略に疎く猜疑心が強いため部下の諸将を統御できず、連戦連敗となり、下邳城に追い詰められた。
包囲3ヶ月、曹操の参謀荀攸と郭嘉は沂水と泗水の水をひき、呂布を下邳城ごと水攻めして消耗させる策略を考案した(『三国志』魏書・武帝紀/荀攸伝)。冬季の水攻めに遭った呂布軍の士気は沮喪し、ついに将軍の侯成・宋憲・魏続が反乱を起こし、参謀の陳宮を捕縛して曹操に差し出して降伏した。追い詰められた呂布は残った部下とともに白門の城楼に上ったが、包囲が厳しくなるのを見てついに降伏した。呂布は縛り首に処され、重臣の陳宮・高順らは斬首された。
陳寿は「歴史上、彼のような人物が破滅しなかったためしはない」と評価する。
[編集] 三国志演義
「軍門に戟を射る」等、小説『三国志演義』ではそのまま使用された挿話も多い。身長は一丈、赤兎馬にまたがり、方天画戟を愛用の武器とし、きらびやかな鎧をまとうという、豪壮な武者である。猛々しく・華やかに、また欲望に弱く、判断力に欠ける点など人間的な面も際立たせ、『演義』を彩る大きな個性として際立った存在感を持つ。また、彼の驍勇無双ぶりを最もよく表す描写としては、虎牢関の戦いにおいて張飛と互角の打ち合いをし、関羽、劉備が加わってもなお持ちこたえる「三英戦呂布」が特に有名である。
また、籠城中に自分だけ豪勢な食事をし、酒ばかり飲んでいて部下を殴りつけたり怒鳴り散らしていたため人心を失い、自分を戒めるために禁酒令を出したが、部下の侯成が善意から猪料理と酒を薦めたのに対し腹を立て、百叩きの刑とした。それが恨みを買う一因となって酒に酔って寝ていた所を侯成・宋憲・魏続に捕らえられてしまう。 陳宮・高順らが斬首された後、捕らえられて曹操に命乞いをするものの、劉備に「丁原や董卓の時のように裏切るかもしれませんぞ」と言われた曹操は処刑を決意する。これに激怒した呂布は「この大耳野郎が。陣門で戟を射て助けてやったことを忘れたのか!この恩知らずめ」と口を極めて劉備を罵ったが、同じくして処刑のために連行されてきた張遼に「見苦しい」と罵られた。主を殺し、裏切り、自分の武勇のみで乱世を生き抜き、最期は部下に裏切られその生涯を終えた。
[編集] その他
『三国志』の「夏侯惇伝」には、建安24年(219年)に曹操によって呂布軍が郟県の摩陂で撃破されたことが記述されている。また「満寵伝」では樊城を包囲した関羽が郟に別将を派遣したという記述がある。
これらの記述から、関羽配下には同姓同名の呂布が存在していたと見ることができるが、「夏侯惇伝」の記述が衍字であるとの説もあり、ちくま学芸文庫の正史『三国志』の日本語訳でも、その説に従ってこれを訳していない。
[編集] 脚注
[編集] 関連人物
- 所属配下等
侯成 蕭建 秦宜禄 成廉 薛蘭 宋憲 曹性 張弘 趙庶 張超
- 同盟関係





