呉質

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呉 質(ご しつ、? - 230年)は、後漢末期から三国時代の政治家、文学者。に仕えた。季重。済陰(現山東省)の人。子に呉応、呉夫人(司馬師の妻)。孫に呉康。『三国志』に独立した伝は立てられていないが、魏書王粲伝の注に引用された『魏略』にまとまった記述がある。

[編集] 略歴

曹操に仕え、広い才能と学識によって、曹操の長男・曹丕(文帝)をはじめとする諸侯から寵愛された。曹丕と曹植による後継争いが起きると、兄弟の間をうまく立ち回りつつ、曹丕の擁立に尽力した。曹丕に曹操の前で嘘泣きさせて、あたかも感動させているように見せかけたという逸話がある[1]劉楨とともに曹丕の賓客として出入りしていたが、劉楨が不敬罪で処罰を受けた時、地方に出され朝歌の県長となり、元城の令となった。217年の疫病で建安七子を初めとする当時を代表する文学者が次々に没する中、生き残った呉質は王象などと共に曹丕の寵愛を受けるようになる[2]。曹丕が太子となると、司馬懿陳羣、朱鑠と共に太子四友となったという(『晋書』宣帝紀)。曹丕が皇帝として即位すると、かつての遊び仲間の中で、呉質のみが長史という低い身分のままであったのを哀れみ、呉質を召しだして北中郎将に任命し、列侯に取り立て、さらに使持節督幽并諸軍事に任じ、信都においた。時期は不明だが、最終的には振威将軍・仮節都督河北諸軍事に昇進したとある。

宴席などでも曹丕は呉質にいろいろと特別待遇を与えた。呉質は曹丕の寵愛をかさにきて、他人には傲慢で勝手に振る舞う一面があったとされ、曹真や朱鑠に対し宴席で無礼な振る舞いをしたとされる(呉質伝が引く『呉質別伝』)。また、北中郎将時代、呉質は幽州刺史の崔林が頭を下げようとしなかったため、功績を挙げていたにも関わらず河間太守に降格したとある(崔林伝)。

曹丕が226年に亡くなると詩を送り痛惜した。

あるとき、の胡綜は、呉質が魏の中で疑いの目で見られているという噂を聞きつけ、呉質の偽の降服文をでっち上げようとした。この文章が世に出回ったときは、既に呉質は侍中に任命されて中央に召喚されていた。

太和年間に入朝したとき、本籍の郡の人々から軽視されていることに怒り、無礼な言葉を放ったが、同郡出身者である董昭にたしなめられた。230年、侍中となった。曹叡(明帝)に対し、陳羣を誹謗するような発言を行い、明帝もそれを容れて陳羣を問責したが、周囲には呉質の進言こそが的外れなものだと考えられていた。同年のうちに病没した。

死後「醜侯」とされた。後に息子の呉応が事実に反すると上奏し、正元年間に「威侯」に改められた。

[編集] 脚注

  1. ^ 西晋の郭頒『世語』より
  2. ^ 『魏略』や『文選』には曹丕が彼に宛てて送った書簡「朝歌令呉質に与うる書」「呉質に与うる書」が収録されている。その中では建安七子たちとの交流の楽しみや彼らに対する評価、自らの不才と皇太子であることへの孤独や不安、呉質の近況を気遣う気持ちが率直に表されている。これは曹丕の呉質に対する信頼の厚さと同時に「胸襟を開いた相手には身分を越えた親愛を示し、時として身分にふさわしくなく、軽佻に見えることもあった」と評される曹丕の性格の一面をうかがわせるものとなっている。

[編集] 外部

最終更新 2009年8月9日 (日) 05:53 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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