和田惟政
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和田惟政
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| 時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
| 生誕 | 天文元年(1530年?[1]) |
| 死没 | 元亀2年(1571年)8月28日 |
| 別名 | 弾正忠、紀伊入道 |
| 墓所 | 伊勢寺 |
| 官位 | 弾正忠・伊賀守・紀伊守 |
| 幕府 | 室町幕府摂津半国守護 |
| 主君 | 六角氏、足利義輝、足利義昭 織田信長 |
| 氏族 | 和田氏 |
| 父母 | 和田宗立(惟助) |
| 兄弟 | 惟政、惟増、定利、定教 |
| 妻 | 高山友照の娘 |
| 子 | 惟長 |
和田惟政(わだ これまさ)は日本の戦国時代の武将。室町幕府末期の幕臣である。父は和田宗立(惟助)。弟に和田惟増、和田定利、和田定教。子に和田惟長。伊賀守。紀伊入道。
近江国甲賀郡和田村(滋賀県)の有力豪族であった。はじめは六角氏および室町幕府13代将軍・足利義輝の幕臣として仕える。 永禄8年(1565年)、義輝が家臣の松永久秀らによって暗殺されると、軟禁されていた義輝の弟・覚慶(足利義昭)を仁木義政とともに一乗院より救い出して一時は自身の屋敷にも匿い、のちに放浪する義昭に付き従っている。越前国(福井県)の朝倉義景、尾張国(愛知県)の織田信長の援助を得て還俗した義昭が15代将軍に就任すると、信長によって摂津国芥川山城、のちに高槻城を与えられ、足利義昭からは池田勝正、伊丹親興とともに摂津の守護の1人として任命され、「摂津三守護」と称された(足利季世記)。以後、足利幕臣として京都周辺の外交・政治に大きく関与しながら、織田家臣としても信長の政治や合戦に関わるという義昭と信長の橋渡し的役割を務めている。
永禄12年(1569年)10月には、信長に援軍を要請した播磨国の赤松氏の援軍として、備前国の浦上氏攻めに参加する。その後、義昭と信長が対立すると、幕臣である惟政も疎まれ蟄居を命じられたともされるが、その後の姉川の戦いには織田氏方として参加している[2]。
元亀元年(1570年)11月、多方面に敵を抱える形となった信長は将軍・義昭の権威を利用して六角氏と和睦をしているが、この際に、三雲成持・三雲定持宛てに惟政が宛てた書状(福田寺文書)があり、かつて六角氏の影響下で同じ甲賀の土豪であった三雲氏との繋がりから、この六角氏との和睦にも一役買っていたものらしい。
元亀2年(1571年)、松永ら三好三人衆と手を結んだ池田知正を討つため、伊丹氏や茨木氏と共に摂津国白井河原の戦い(茨木川畔)で池田氏家臣の荒木村重に敗れ戦死したという。惟政の首級を挙げたのは当時池田氏の傘下の国人であった中川清秀とされる。
惟政の没後まもなく、子の惟長は高山友照、高山右近父子により追放され、和田氏は没落することになる。
[編集] 惟政とキリスト教
惟政はキリスト教を自領内において保護したことで知られ、イエズス会の宣教師であるルイス・フロイスが織田信長と会見するとき、その仲介役を務めたという。さらに、畿内におけるキリスト教の布教にも積極的に協力した。しかし、惟政自身は洗礼の儀式を受けることはなく、戦死してしまったために、その死をフロイスは大変嘆いたという。
墓所は大阪府高槻市の伊勢寺。享保年間(1716~36年)に高槻城を改修したときに墓石が発見され、移されたといわれている。
[編集] 脚注
- ^ 寛政重修諸家譜、諸家系図などによる没年齢42歳からの逆算
- ^ ただし、この姉川の戦いに参加したとする記録は宣教師の記録にあるのみで、合戦の同日に摂津国内で惟政が出した寺社への禁制の文書(今西文書)が存在する事や、他の公方衆も参戦していない事などから、実際に参加したかどうかは疑わしい。ただ、永禄12年(1569年)10月の浦上攻め後から、元亀元年(1570年)3月まで信長関係の資料に一切登場しなくなるのは事実であり、信長と義昭の対立の中で一時存在を疎まれたのは事実のようである。
[編集] 関連項目
最終更新 2009年11月28日 (土) 09:28 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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