営州
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上古の中国の九州の一つに数えられている。具体的な区域については、『爾雅』では「斉」であるとしており、現在の山東省周辺にあたる地域を指していたと思われる。一方で、『書経』鄭玄注では「青州から海を渡った区域を斉から分割して営州とした」としており、山東半島から渤海を渡った遼東半島、すなわち現在の遼寧省にあたる地域のこととしている。
後漢末の遼東で軍閥の公孫氏が割拠すると、渤海を渡って山東半島の一部をも版図に収め、ここに営州刺史をおいた。しかし、後漢の派遣した将軍張遼によって営州は打ち破られた。陶元珍はこの時張遼に打ち破られたする「柳毅」なる人物が営州刺史だったのではないかと推測している。
南北朝時代に、北魏が北燕を滅ぼすと、太平神君5年にもとの北燕の区域に営州を設置した。州治は龍城であった。
隋唐に入っても営州(柳城郡)は郡レベルの地方行政区分として存続し、北辺の防備の要所として都督府が置かれ、開元7年には平盧節度使が置かれた。異民族と接していたため兵事多く、契丹や奚に占領されては奪還を繰り返していたが、上元2年に奚に占領された後は奪還することができず、営州は現在の昌黎県周辺に後退した。しかし五代十国時代の後唐の同光年間に契丹に占領された。その後皇統2年に金が占領すると、平州に統合され、営州の名は消滅した。
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