国鉄キハ35系気動車
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| 国鉄キハ35系気動車 | |
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キハ35形(1994年2月、八高線・金子-箱根ヶ崎)
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| 最高速度 | 95km/h |
| 車両定員 | 58(席)+74(立)=132名(キハ35形) 62(席)+74(立)=136名(キハ36形) 56(席)+72(立)=128名(キハ30形:) |
| 最大寸法 (長・幅・高) |
20,000×2,929×3,945(mm) |
| 車両質量 | 32.0t(キハ35形0番台) 31.2t(キハ35形500番台) 28.4t(キハ35形900番台) 31.0t(キハ36形) 32.4t(キハ30形0番台) 32.6t(キハ30形500番台) |
| 機関出力 | 180ps/1,500rpm DMH17系エンジン×1 |
| 駆動装置 | 液体式 |
| 変速段 | TC2A/DF115A |
| 台車 | コイルばね台車 DT22C(動力)・TR51B(付随) |
| ブレーキ方式 | 自動空気ブレーキ DA1(キハ35形・キハ36形) DA1A(キハ30形) |
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この表について
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キハ35系気動車(キハ35けいきどうしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が1961年から製造した通勤形気動車である。
この呼称は車両形式称号規程に則った正式のものではないが、同一の設計思想によって製造された気動車のグループを便宜的に総称したものである。具体的には、キハ35形・キハ36形・キハ30形およびこれらの改造車を指す。
目次 |
[編集] 概要
昭和30年代の高度成長期、大都市近郊の非電化通勤路線向けとして開発されたものである。1961年~1966年にグループ総計で413両が製造され、関西本線を皮切りに首都圏・新潟・中京圏・関西を中心に日本各地で使用された。
旅客乗降の効率化のため、両開きの幅広ドアを片側あたり3か所に設け、収容力を重視して車内の座席をすべてロングシートとしたことが特徴である。ラッシュ時の輸送に絶大な能力を発揮したが、大都市近郊の路線が軒並み電化されたことと、転用先ローカル線での長距離運用に不向きな設備が災いし、1980年代以降は急激に淘汰された。このため後継車はとくに開発されなかった。
1987年の国鉄分割民営化時には、キハ35形とキハ30形が北海道旅客鉄道(JR北海道)を除く各旅客鉄道会社に承継された。
[編集] 開発の経緯
関西本線の湊町(現・JR難波)~奈良間は大都市近郊区間であり、1950年代以降通勤客が大幅に増加していた。この区間は戦前に電化も計画されたことがあるが実現せず、1960年当時でも非電化のままだった。当時の関西本線は蒸気機関車牽引の客車列車が主力として運転されていた。
客車は老朽化しドアは手動で蒸気機関車の煤煙に悩まされる昭和初期と大差ない前時代的な旅客サービス水準であり、並行する複線電化の近畿日本鉄道奈良線には、列車本数・スピード・接客設備とも大きく水を開けられていた。
また蒸気機関車が主力であったことから、輸送量が同等の国鉄他線区に比べると固定資産が多く、輸送コストが割高で営業成績が低迷し、収支改善のテコ入れを迫られていた。この状況に対して国鉄は、当時の関西本線の輸送量では電化では採算が合わないと判断し、気動車の大量投入により輸送力強化を図ることを決定した。
この頃、関西本線には既に気動車が部分的に導入されていたが、車両は2ドアセミクロスシートのキハ10系・キハ20系であり、ラッシュ時の客扱い能力にはいささか難があった。そこで、ラッシュ対応型の通勤形気動車として、新たにキハ35系気動車を開発することになったのである。
[編集] 構造
[編集] 車体
国鉄は1957年に斬新な通勤形電車101系を開発し、中央線等に投入して輸送改善の成果を挙げていた。通勤形気動車についてもこの101系の基本構造を踏襲している。
したがって、オールロングシート、切妻形の簡素な車端形状、気動車としては初採用となる1.3m幅(有効幅は1.2m)の両開き扉、グローブ形ベンチレーター[1]、前面行先表示器、蛍光灯照明と扇風機の装備等は、101系にならったものである。
しかし、気動車ゆえに次のような改変がなされている。
- 3ドア・外吊りドアの採用
- 101系並みの片側4ドア車体は最混雑線区でもない限り過剰装備であり、本系列は3ドアとされた。
- しかし、気動車が運行される路線の駅は客車基準の低いホームが普通であり、乗降口にはステップを設ける必要があった。ステップ設置は台枠の切り欠きを伴い、台枠強度を低下させるおそれがある。片引き狭幅扉の在来型2ドア気動車では切り欠き長さはわずかで、強度対策はステップ下に補強を入れるだけで済んだが、戸袋式広幅3ドア車体をステップ付きで製造するとなると、ドアと戸袋部分の合計長は在来2扉車の2倍ほどにもなり、簡単な補強では済まず、著しい車体重量の増加が予想された。
- そこでドア両脇の戸袋を廃し、この部分の車体強度を高めることで全体の強度を確保した。このためドアは通常の戸袋式でなく、ドア上のレールから車体外側に吊り下げられる「外吊り式」を用いることになった。ドア下部は車両限界内に収めるため一段薄くされている。その結果、武骨な外観を呈し、本系列最大の特徴となった。この構造を採用したことにより、冬期には車体との隙間から冷気が入りやすく、乗客からの不評も聞かれた。
- 窓は簡素な2段式であるが、通常なら戸袋窓に当たるドア両脇の小窓は開閉可能なものの、閉まるドアに手を引き込まれる事故を防止するため、開口可能寸法は上段150mm・下段50mmと狭くしてある。
- 正面貫通扉の設置
- 気動車は頻繁な分割併合運用を行うことから、利便性確保のため、連結面の通り抜けを可能とする正面貫通扉の設置が一般化していた。本系列にもこれは踏襲され、特急形以外の車両との互換性を有している。埋め込み式前照灯・尾灯・貫通扉・正面窓の位置関係はキハ20系に準じた簡素なデザインに仕上げたが、多くは後年施工された踏切事故対策の前面強化のため、印象を大きく変えている。
- トイレの設置
- キハ35形は比較的長距離の運用を想定し、トイレを設置している。トイレ向かい側の座席は、トイレ利用者と着席客双方の心理を考えクロスシートとされた。
その他、電車との相違点として、小型の灰皿が座席の端のつかみ棒に取り付けられていた(当時は電車特定区間以外は禁煙区間ではなかったため)。
[編集] 主要機器
同時期に登場した急行形気動車のキハ58系と共通の設計である。温水式暖房や客室容積を犠牲にしないよう車端部に設置され排気管などもキハ58系に引き続き採用された手法である。
[編集] エンジン・変速機
エンジンもキハ58系と同様の、水平シリンダ形のDMH17H (180PS/1,500rpm) である。本系列では車両中央部にもステップ付きの扉を設けているので、車体中央部分の床下面積が小さくなることからエンジン2基の搭載は困難とされ、全形式が1基エンジンである。垂直シリンダエンジンは調達コストがやや低いものの、床に点検蓋を設ける必要があり補強も必要となるための重量増を避け企画段階で廃案となっている。これに標準型の液体変速機であるTC-2AまたはDF115Aが組み合わされた。
[編集] 台車
台車は標準型を改良した金属バネ式のDT22C(動台車)・TR51B(付随台車)を装着する。ラッシュ時の荷重を考慮し、車軸径が僅かに大きくされている。
[編集] 電気関係機器
本系列では長大編成の電圧降下に対応した、総括予熱・始動回路を設置した。エンジン予熱用のグロープラグと機関始動回路と補助リレーを接続したもので、先頭車からの操作で、先頭車の電源によって編成各車の補助継電器を作動させ、個々の車両が自車電源でエンジン予熱と始動を行うようになっている。
[編集] 個別形式
[編集] キハ35形
本系列の中核となる片運転台・トイレ付車。1961年~1966年に258両が製造された。
[編集] 0番台(1~217)
温暖地向けの一般形。最終番号の217は便所内の照明に蛍光灯が採用され、便所の窓が細長くなっている。
[編集] 500番台(501~531)
1962年から製造された新潟地区向けの寒冷地形。寒地対策として、押し込み式ベンチレーター、複線用のスノープラウ、前面窓への電熱式デフロスター設置、水タンクのカバー設置などの設計変更がなされた。主に弥彦線や越後線で使用された。
[編集] 900番台(901~910)
東急車輛製造がアメリカ・バッド社のライセンスによるオールステンレス車両開発の一環として製造したもので、1962年開発の東急7000系電車と並び、日本におけるオールステンレス車両の草分けとなった車両である。車体の基本諸元は0番台に準じるが、外板・骨組み・台枠に至るまで全てステンレス製で、幕板・腰板部分にはコルゲートが走り、側面外吊りドア上の戸車カバーは、車体全長にわたる長大なものとなった。0番台に比して、3.6tもの軽量化を実現している。
ステンレス車開発は、房総東線(現・外房線)・房総西線(現・内房線)勝浦~館山間における潮風による塩害対策という名目であったが、当時の房総半島各線は、朝夕の通勤時間帯には蒸気機関車牽引の客車列車を多用していた状況で、気動車列車で鋼製車とステンレス車の使い分けができるだけの数の余裕はなく、実際には鋼製車と混用された。
ステンレスが普通鋼より硬く、錆びない特性を生かし、薄肉化[2]による軽量化と、塗装省略によるメンテナンスフリーを長所とした。しかし、当時の塗装費と比較して製造コストが高すぎること、バッド社のライセンスの関係から東急車輛以外での製造が難しいこと、鋼製車との取り扱いの差異、塗装現場省力化に対する労働組合の拒否反応等、多くの障害があり、量産化には至らなかった。
製造時点は無塗装で銀色のステンレス地肌であったが、当初の配属先の房総半島は霧の発生しやすい気候のため、後に安全上の問題から、遠方視認性を高める目的で前面に赤帯が入り、さらに末期には一般車と同様のとなる朱色5号の「首都圏色」に塗装された[3]。
なお、映画『パッチギ! LOVE&PEACE』の撮影のため、塗装がスカイブルーになっている。(2006年11月4日)
904は、後述する相模線にて電化されるまで使用され、末期は相模線カラーになって運用されていた。電化後も他数両のキハ30・35とともに茅ヶ崎運転区の中に留置されていたが、1995年11月に廃車となっている。
[編集] キハ36形(1~49)
片運転台・トイレなし車。1962年に温暖地用のみ49両が製造された。基本構造はキハ35形0番台に準ずるが、トイレがなく、車内が完全ロングシートであり、後位側の連結面にも窓を設けているなどの相違点がある。
当初、キハ35形とのペアを組むことを想定されたが、その目的ならより小回りの利く両運転台車の方が有利なため、翌1963年以降の量産はキハ30形に移行し、本形式は短期間製造されたのみに終わった。早くから廃車が進み、JRに引継がれた車両もなかった。関東鉄道に譲渡された車両のうち、17と28が同社キハ3518・351として現存している。
[編集] キハ30形
トイレのない両運転台車。1963年~1966年に106両が製造された。
[編集] 0番台(1~100)
温暖地向けの一般形。基本仕様はキハ35形0番台に準ずる。
[編集] 500番台(501~506)
寒冷地向けの耐寒形。基本仕様はキハ35形500番台に準ずる。1964年~1965年に6両のみ製造された。
[編集] 改造車
[編集] キハ35形300番台(301~304)・キクハ35形300番台(301~304)
西日本旅客鉄道(JR西日本)が1990年に鷹取工場でキハ35形0番台より改造した山陽本線支線(和田岬線)向け仕様車である。一駅間のみの短距離路線で、朝夕ラッシュ時のみ運用されるという同線の特殊条件を考慮し、多くのユニークな改造がされた。本系列における、形式番号の変更をともなう唯一の改造例である。
- 形式番号の新旧対照は、次のとおり。
- キハ35 123・137・189・207→キハ35 301~304
- キハ35 156・157・181・195→キクハ35 301~304
保守費低減のため兵庫方のキハ35形からはエンジンが撤去され、キクハ35形としてキハ35形と1M1Tの2両ユニットが組成された。車両1両当たりの平均出力はわずか90PS、1軸駆動で満員の乗客を乗せた2両編成を動かすことになった。分割民営化後の旅客車両としては例のない低出力編成であるが、トルクコンバータの働きによるトルク増大効果で発進は可能であり、部分的に8‰の勾配が存在するもののほぼ平坦で最高速度が30km/h程度の和田岬線では実用上問題なかった[4]。
車体関係では座席の一部とトイレの撤去などのほか、兵庫と和田岬のホームが和田岬に向かって右側にしかないことから、キハ35形の運転席側とキクハ35形の助士席側の客用扉は非常用となる中央扉を除いて埋め込まれた。また、キクハ35形には熱源となるエンジンが搭載されていないことから、機関予熱器を搭載しこれを温水暖房の熱源とした。
それまでの旧型客車オハ64形・オハフ64形に代わり、和田岬線専用車として通常3ユニットを連結した6両編成として朝夕のラッシュ輸送に用い、残る1ユニットは検査予備とされた。2001年の和田岬線の電化により全車が運用離脱し、この時点でキクハ35形は全車除籍されて廃形式となったが、もう一方のキハ35形については3両は廃車解体されたものの、トップナンバーの301のみは2004年11月末まで保留車として亀山鉄道部で屋内保管された。しかし、その後同車も後藤総合車両所へ回送され、同年12月25日付で除籍・解体処分された。キハ35形はこの時点をもって形式消滅となっている。
[編集] 運用
[編集] 主として使用された路線
- 関西本線
- 前述の輸送力増強計画により、1961年12月10日のダイヤ改正よりキハ35系気動車が順次大量投入され、奈良機関区に計81両を配置し、従来の蒸機牽引旅客列車はごく一部の通勤列車を除いてすべて気動車化された。これにより湊町 - 奈良間にて国電型の定間隔運行ダイヤが実施され、国鉄は「オールDC化」「待たずに乗れる関西本線」と大々的にPRした。特に快速は、天王寺 - 奈良間を途中王寺・郡山のみ停車で30分、表定速度75km/hという、現行の大和路快速をも超える駿足で走破した。この体制は1973年9月の湊町 - 奈良間電化まで続き、一部は奈良以東の亀山や名古屋まで直通する運用もあったが、長距離客へのサービス面ではロングシートのキハ35系はいささか難があった。さらに冬期の伊賀地方においては、冷気が入りやすい車体構造だったこともあり、暖房効果という点でも問題があった。奈良電化後のキハ35系は奈良以東および周辺支線区での運用に移り、一部は他線区へ転出した。
- 奈良線・草津線・桜井線・和歌山線・紀勢本線・片町線
- 関西本線向けに奈良機関区に配置された車両を使用した。関西本線一部電化以降は一部が和歌山機関区に転属し、紀勢本線でも使用された。紀勢本線のうち新宮-亀山間では伊勢運転区所属の車両が使用された。なお、上記各線が電化されるごとに運用が縮小され、最後に残った奈良線・和歌山線五条以西が1984年10月までに電化された時点で奈良・和歌山区のキハ35系はすべて廃車または転属となった。また、その頃から関西本線奈良以東ではキハ35系から、冷房付きで勾配にも強いキハ58系に次第に置き換えられるようになる。また、紀勢本線で使用された伊勢運転区所属車のうち6両は東海旅客鉄道(JR東海)に継承されたが、1989年にキハ11形の投入に伴い、後述する保存用車両1両を除き全て廃車になっている。紀勢本線では長距離の運用が多いため、オールロングシートのキハ35系単独での運用はなく必ずキハ58系やキハ40系などのクロスシート車と組み合わせて使用された。片町線では主に長尾 - 木津間で1989年まで運用された。奈良気動車区廃止後は亀山所属の車両が充当された[5]。
- 房総地区
- 川越線
- 八高線
- 1965年から高崎第一機関区に6両が新製配置され使用開始。1972年から1975年にかけて千葉から大量に転入し、川越線と共通運用となり、同線の大半の列車に本系列が運用されることとなった。弥彦線・越後線の電化による一部の500番台の転入を経て、1996年3月16日の八王子 - 高麗川間電化開業および高麗川 - 高崎間へのキハ110系投入にともなって撤退し、久留里線などに転用されたごく一部の車両を除いて大部分が廃車となった。最終期にはキハ38形と共通運用を組んだが、朝のラッシュ時には最大5両編成となるなど、本系列の設計思想に合致した環境で運用されていた。
- 川越・八高線用の車両は半自動扉を押しボタン操作式に改造する工事が1972年から実施されている。
- 相模線
- 弥彦線・越後線
- 山陰本線京都口
- 筑肥線
[編集] 廃車とJR発足後の動き
キハ30 6は、1969年に草津線を走行中に落石と衝突し転覆、その後本系列初の廃車処分となった。
1983年からは経年による老朽廃車が始まり、国鉄分割民営化時点では東日本旅客鉄道(JR東日本)にキハ35形46両・キハ30形43両、JR東海にキハ30形6両、JR西日本にキハ35形19両・キハ30形11両、四国旅客鉄道(JR四国)にキハ35形・キハ30形各2両、九州旅客鉄道(JR九州)にキハ35形10両・キハ30形17両が承継された。
2008年4月時点では、JR東日本幕張車両センター木更津派出にキハ30 62・98・100が残存しており、久留里線で営業運転に用いられている。
JR四国およびJR九州では1991年までに、JR西日本では和田岬線用の300番台を除き1996年までに、300番台も2004年までに全廃された。JR東海では営業運転終了後も保存目的でキハ30 51が長らく伊勢車両区に在籍し、美濃太田車両区で保管されていたが、2008年3月31日付で廃車された[7]。
この他、1986年にキハ35形の改造名義で製造されたキハ38形が、久留里線で使用されている。
2009年6月、キハ30 98が国鉄色になり、7月4日には「キハ30塗装変更記念臨時列車」として運行された[8]。
[編集] 他事業者への譲渡車・類型車
[編集] 関東鉄道
1987年から1992年にかけて、各形式計39両が関東鉄道常総線へ譲渡され、キハ300形・キハ350形・キハ100形となった。キハ300形のうち1両は1986年に筑波鉄道に譲渡された後、同鉄道線の廃止により関東鉄道に移ったものである。これらは、ほとんどが冷房装置の搭載や機関の換装を受けたが、21世紀に入ってからは老朽化が進んでいることからその数を減らしている。
このほか、関東鉄道の前身の常総筑波鉄道ではキハ35系に類似した片側3扉のキハ900形を1963年に2両製造している。エンジンや車体の基本寸法・前面形状はキハ35系と同一であるが、トイレはなく窓は上段Hゴム支持固定、下段上昇式のいわゆる「バス窓」で、扉はステップなしの片開き扉、台車は空気ばね台車となっている。関東鉄道に承継された後も引き続き常総線で使用されていたが1995年に廃車となった。
[編集] 会津鉄道
会津鉄道ではJR東日本のキハ30 18を譲り受け、展望用トロッコ車両のAT-300形・301に改造して使用している。
[編集] 車籍なしで現存するもの
[編集] 保存車
保存車としては、前述のJR東海のキハ30 51のほか、次の車両が静態保存されている。
- キハ35 901 - 群馬県安中市「碓氷峠鉄道文化むら」
- キハ30 69 - 兵庫県多可郡多可町・旧鍛冶屋線鍛冶屋駅跡
- キハ30 70 - 兵庫県西脇市・旧鍛冶屋線市原駅跡「市原鉄道記念館」
- キハ30 72 - 同上
[編集] 他の用途での利用など
他の用途で利用されているものとしては、次の車両がある。
- キハ30 15 - 鉄道総合技術研究所で試験車として使用。湘南色に変更されている。動力伝達方式などの駆動制御系に関する研究・開発に使用されている。研究成果はJR九州キハ200系気動車に採用された。
- キハ30 93・キハ35 158 - 関東鉄道に売却され、未入籍のまま水海道駅構内で部品取り車となっていたが、既に解体されている。
- キハ30 35・キハ35 70 - わたらせ渓谷鐵道足尾駅構内に留置。転換後に運ばれて来たものと思われるが、状態は悪かった。2009年4月から6月にかけて、キハ30 35は国鉄一般色に復元された。また、キハ35 70は首都圏色になる予定[9]。
[編集] 脚注
- ^ 寒冷地形のベンチレーターは押し込み式。
- ^ 腐食代・ふしょくしろ、くさりしろが不になる。
- ^ 国鉄におけるステンレス車両は、これに限らず取り扱い上の問題から後に一般車に準じて塗装された例が多い。
- ^ 所属車両基地でもある鷹取工場のある鷹取-兵庫間で山陽本線上を自力回送されていたが、空車では最高速度60~70km/hに達していたという。
- ^ 非電化時代は奈良直通も一部存在した。それは関西本線亀山-奈良間の普通列車と共通運用していたためである。関西・片町線においても晩年は単独では使用されず、やはりキハ58系などとの併結で朝夕を中心に運用されていた。
- ^ 相模線カラーは前面補強部が青に塗られており、JR化後正面運転席窓下に形式と番号が白文字で斜めに入れられた。
- ^ 現在も美濃太田車両区に留置中。
- ^ 編集長敬白 国鉄色キハ30いよいよ運転開始。
- ^ 鉄道ファン2009年9月号 「まいあくと、まいとりっぷ」より。
[編集] 関連項目
最終更新 2009年8月30日 (日) 05:43 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【国鉄キハ35系気動車】変更履歴







