国鉄労働組合
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| 国鉄労働組合 National Raliway Workers Union |
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|---|---|
![]() 組合員による 東日本旅客鉄道・新宿本社付近での抗議活動(2007年) |
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| 略称 | 国労 NRU |
| 設立年 | 1946年 |
| 種類 | 労働組合 |
| 本部 | 東京都港区新橋5-15-5交通ビル4F |
| メンバー | JRグループの職員・社員 |
| 公用語 | |
| リーダー | 佐藤勝雄(中央執行委員長) |
| 関連組織 | 全国労働組合連絡協議会 |
| ウェブサイト | http://www.kokuro.net/ |
国鉄労働組合(こくてつろうどうくみあい、英: National Raliway Workers' Union, NRU)は、日本国有鉄道(国鉄)およびJRグループの職員・社員による労働組合の一つ。 略称国労(こくろう)。国鉄民営化後も組合名は変更していない。組合員約1万7000人(2005年7月現在)[1]。中央執行委員長・佐藤勝雄。全国労働組合連絡協議会に加盟。
目次 |
[編集] あらまし
[編集] 国鉄との対立とスト権スト
国鉄時代の1946年2月に結成され組合員対象者ほとんど全員を組織した。後に国鉄機関車労働組合(機労)などが次々分裂したものの、鉄道労働組合(鉄労)や国鉄動力車労働組合(動労、機労の後身)などと並び、国鉄の有力労組の一つであった。また、かつては労働運動の機関車役とも言われる力を持ち、 日本労働組合総評議会(総評)傘下の労組単産の中では最有力なものの一つであった。しかしながら、それが故に日本社会党の左右両派、民社党、日本共産党をはじめ極左勢力までもが組織に入り込み、セクト間の対立が深刻になる。
1962年に民社党系の構成員が脱退し、新国鉄労働組合(1968年鉄道労働組合と改称)として分離していた。こちらは労使協調路線をとった。1960年代後半より国鉄当局が行った生産性向上を目的とするマル生運動においては、国労および動労の組合員に対して当局側から組合からの脱退や、鉄道労働組合への移籍を強く勧奨する事態が起きたことから、この両組合は「マル生粉砕」をスローガンに当局との対決姿勢を強める。1971年に公共企業体等労働委員会(公労委)が、マル生運動に関して国鉄当局側に不当労働行為があったと認定し、当時の磯崎叡総裁が国会で陳謝することとなった。この闘争勝利は国労の士気を大いに高め、さらなる要求の実現に向け遵法闘争など闘争を激化させることとなる。
中でも当時法律で公共企業体職員に認められていなかったストライキ権の承認は最大の課題と位置づけられた。1975年11月26日、国労は動労と共に、経営側の内諾を得てスト権承認を求めるスト権ストを起こした。しかし、与党・自民党の強い反発を招き、当初は妥協の構えを見せていた三木武夫内閣もスト権容認を拒否(この動きの裏には後に国鉄の分割・民営化を実現させた後の総理大臣中曽根康弘の強い意志があったとされる)。12月3日、ストの継続を断念した。スト決行にもかかわらず、国民生活には大きな影響はなく[2](サラリーマンが会社に缶詰状態になり、自宅に帰れない等の事態はあった)、国鉄の影響力の低下を表面化させただけに終わった。一方で、国民生活を巻き添えにしたことで一般市民を敵に回し、そのため組合活動への非難は決定的なものとなり、国鉄当局も再び対決姿勢を迫られた。1976年2月、国鉄は違法なストにより損害を被ったとして、国労と動労に202億円の損害賠償を求める訴訟を起こした。自民党は三塚博を委員長とした国鉄再建小委員会を組織し、組合批判を強めた。一方、当の国労はセクト間対立が深刻なものとなり、穏健な労使関係の構築を目指す勢力もあれば公然と革命を主張する勢力まで多岐にわたり、組織としての意志決定能力を失いつつあった。端的な例が1975年のスト権ストの収拾にあたり、動労と内々に決めたストライキ戦術放棄の件である。意志決定能力を欠いた国労は「まず動労が決めないと国労は意見がまとまらない」と動労に対し先にストライキ放棄宣言を求めたが、国労側は意見が分裂し結局ストライキ放棄を決めることができなかった。この件で国労に梯子を外された格好の動労は激怒し、両者の路線対立は決定的になる。
[編集] 分割・民営化と国労排除
国労は国鉄の分割・民営化に最後まで反対したが、このため分割・民営化において、国鉄当局側から激しい切り崩しにあった。当初、国鉄側は穏健な姿勢を取っていたが、葛西敬之(現JR東海会長)・井手正敬(元JR西日本相談役。JR福知山線脱線事故後に辞任)・松田昌士(現JR東日本相談役)の「国鉄改革三人組」を中心にした勢力が実権を握ると、強硬路線に転じる。
従来は、当局側は最大組合の国労と真っ先に交渉し、国労とある程度の合意ができてから、他の労組と交渉していたが、これを全組合横一線に変えた。当局側は分割・民営化などへの協力を求める労使共同宣言を提案したが、国労は賛否をめぐって内部対立が深刻になったものの結局は拒否し、動労・鉄労・全施労は応じた。しかし実は、動労には内密に、当局に対する訴訟を取り下げるなら202億円の損害賠償訴訟を取り下げると持ちかけ、承諾を得ていた。鉄労にも、動労への交渉の内容を伝えて根回しし、賛同を得た。しかし国労には何も連絡は無く、このような交換条件が出されることもなかった[3][4]。
分割・民営化に意欲的な中曽根康弘内閣のもと、1986年7月の衆参同日選挙(第38回総選挙・第14回参院選)で自民党が大勝し、国労側はさらに劣勢に追い込まれた。当局側は動労への違法スト損害賠償を取り下げ、標的を国労に絞った。このころから国鉄側は「人材活用センター」を作り、余剰人員であるとして国労組合員を隔離した。その実態は、本来の職務をさせず、草むしりなどの雑用をさせたものであったという(「日勤教育」は人材活用センターの手法を受け継いだものといわれている)。
国労でも労使共同宣言を受け入れ、分割・民営化を認めるべきとの主張が出されたが、賛否はまとまらなかった。さらに、当局側は労使共同宣言を受け入れるなら、(1)国労が当局を相手取り地方労働委員会に行った不当労働行為申立ての取り下げ(2)人材活用センターの容認(3)職場の点検摘発行動、安全問題の内部告発をしないという条件も呑むよう要求した。さらに、裏では共産党系、革同系、協会派を切れば残りは採用してやると持ちかけられていた[4]。国労は10月9日に臨時大会を開き、五十嵐中央執行委員率いる非主流派(旧社会党系左派)と、徳沢中央執行委員率いる反主流派(共産党系)が足並みを揃え、激論の末採決に持ち込まれ、投票の結果は分割・民営化反対が大多数を占めた。結果として山崎俊一委員長は退陣に追い込まれ、後任として盛岡地方本部から六本木敏が選出された(修善寺大会)。六本木は分割・民営化反対のもと組織を守り抜く方針を明確にしたが、それは現実を直視しない教条主義と批判され、山崎率いる主流派である分割・民営化容認派(右派)は国労を脱退し、やがて鉄産労連を結成した。この修善寺大会で国労は自壊し、その力を大きく失った。鉄産労連結成は、JRに採用されるための次善の策として、社会党側からの働きかけもあったとされる[4]。
当局側は国労組合員、特に共産党・協会派など非主流派をJRから排除する方針を固めていた。葛西の『未完の「国鉄改革」』によると、ある国鉄法務課の法律専門家の助言に従ったという。分割・民営化によって、新会社を作り、一旦国鉄から退社して新会社に応募させ、採用させる。応募しなければ、自動的に国鉄を継承する国鉄清算事業団送りになる。という方式をとれば、合法的に新会社に振り分けられるというものだった。結果的には国鉄と別会社による新規採用という形式を取ることで、政治活動や革命運動に没頭する特定組合員の排除を合法化させたのである。一方で全面対決一本槍の六本木体制に失望し職場単位で脱退が相次ぎ、国労からは20万人以上の組合員が脱退し、一挙に少数組合に転落した。六本木執行部の主張に正当性があったかとは別次元で末端組合員の生活や雇用への不安に答えられなかったことは否定できない。しかし、当局側はもともと非主流派などを(不当労働行為に該当することは承知で)排除する予定であったから、主流派は非主流派を見捨てることで一部だけでも助かるか、全滅を覚悟で徹底抗戦するかという究極の選択を迫られたのである。結果として、主流派は前者を選んだことになる。
なお、この法律専門家とは、のちに高松高等裁判所長官となった江見弘武である。葛西の著書を元に、国労闘争団側の弁護士が割り出したものだが(「意見陳述(国労闘争団)」)、2008年6月2日、鉄建公団訴訟で葛西が証人として呼ばれた際、みずから江見のことであると証言した(「共闘会議」 史的な決戦!JR東海葛西会長証人尋問行われる)。
[編集] JR以降と政府・経営側の評価
1987年の分割・民営化によるJR移行において、なお多くの国労組合員が残っていたが、方針通り新会社に引き継がない措置を取った。不採用者は5009名。組合員一人一人の業績は考慮されず、国労に所属していただけで懲罰的に新会社から閉め出された実例が複数指摘されている。特に、「人材活用センター」に隔離された組合員は、三島会社(JR北海道、JR四国、JR九州)ではほぼ全員が閉め出された。また、組合員の自殺は200人を超えた。一方、国労を脱退した社員は、その多くが採用された。このため組織は大幅に縮小したが、現在でも全国に組合員が存在する。国労組合員の採用率は、本州・四国で高く、北海道・九州で43.1~48%と低い(不採用者のうち、4950名までが北海道・九州)。これは、JRに見切りをつけ、国鉄を去った職員が予想以上にいたため、本州・四国では国労組合員で穴埋めを余儀なくされたためである。
鉄労・動労は合同して鉄道労連(会長は鉄労出身の志摩好達)を結成した。鉄道労連は、もっとも協力的であったことから優遇され、JR全社で99%以上が採用された(不採用者は29名。残る1%の動労幹部組合員は、名目は不採用だったがJR子会社取締役になっているケースが多かった)。また、鉄産労連所属のJR採用率は低い会社でも80%前後であったとされる。
民営化直前の2月2日、鉄道労連は結成大会で次のような「新会社の採用・配属に関する特別決議」を採択した。
本州の三旅客会社では、定員割れといわれている。このことが事実であるとすれば、国鉄改革に反対する不良職員が採用されかねない。しかし、このようなことは許されるものではないし、われわれは断じて許さない。(中略)新会社は第二次労使共同宣言の趣旨に沿って、まじめに努力した者によって担われるべきである。(中略)われわれの仲間たちが派遣や広域異動に応じたのに対して、汗も涙も流さぬ不良職員が現地で採用される、などということは絶対に認めない。(後略)
民営化に反対した職員(有り体に言えば、ライバルである国労、全動労組合員)を「不良」と断定し、たとえ定員割れになっても採用しないよう、公然と不当労働行為を要求した内容であった。2月9日、この決議は杉浦喬也総裁に手渡された。法政大学大原社会問題研究所は、鉄道労連を指して「労働組合」と鉤括弧でくくることで、その決議をまともな労組のものとは言えないと暗に批判した(「IV 日本労働年鑑 第57集 1987年版 国鉄分割・民営化関連諸法の成立と新会社への移行準備」)。さらに志摩会長は民営化後、「本来採用すべきでない人たち(国労・全動労組合員)を採用したのだから、この人たちを絶対に本務(本来の鉄道の仕事)につけないこと。もし本務についてドライバー(運転士)や車掌をやるといつストライキをやるか分からない」と差別待遇を要求した。実際にJRは、国労組合員らの大半を本務から左遷し、慣れないキヨスク・立ち食い蕎麦屋・パン屋などの店員、自動販売機の補充などに回された様が報じられた。しかし、国労への悪評(遵法闘争・上尾事件を参照のこと)を背景に、このような経営側・他労組の言動はさほど批判されなかった。ところが、皮肉にもJR東海以西でストライキをしたのはJR総連組合員であり、そのストをきっかけに、JR総連は分裂することになる。また、国労組合員の左遷についても労働委員会への異議申し立てを受け、一部は撤回した。しかし、差別待遇を止めたわけではなく、JR東日本の例では、「ベンディング事業所」に一部の国労組合員(組合活動に熱心な者が特に狙われたという)を隔離し、自販機補充などの雑務を行わせていた。2005年2月1日になって、ようやくほとんどの組合員は本務に復帰した。
スト権ストに対する損害賠償訴訟は、当時の亀井静香運輸大臣らの斡旋で1994年12月27日、国労会館を清算事業団に明け渡すことを条件に和解した。その後分割・民営化容認を発表したため、これも条件だったのではないかとする説もある。「明け渡し」と言っても借地権や長年の便宜供与が存在しており、移転地を斡旋されていた。清算事業団・国労双方の顔を立てたというのが実情である。ただし、この際に国労執行部に対し国労会館の明け渡し金の名目で補償金が支払われたとされるが、その金額や使途は明らかにされていない。また、ストライキ基金(ストライキの際にカットされる賃金の補償のため組合員が積み立てた資金で他用途に流用できない規定)を役職員の退職慰労金に流用する、関連会社の不明朗な取引など国労執行部による資金の不明朗な流れも指摘されている。
2008年3月27日にJR貨物との間で昇進や配転、手当などをめぐり救済を求めていた紛争について中央労働委員会において和解が成立した。株式上場に向け貨物部門の黒字転換を目指すJR貨物と不採用問題解決への足掛かりを得たい国労との思惑が一致したもの。これにより、国労とJR各社との紛争は不採用問題を除き終結した。
[編集] JR採用差別闘争
新会社に引き継がれず、また他の会社に再就職できなかった(あるいは、しなかった)国労組合員は、国鉄清算事業団に移された。1990年の清算事業団解雇時に、1047名(国労組合員以外を含む)が残っていた。国労組合員は相次いで全国で36の国労闘争団を結成した。彼らと動労千葉、全動労の不採用組合員は民営化に伴う措置を、不当労働行為であるとし、地元の地方労働委員会に救済を申立てた。
地方労働委員会は組合員側の主張を認め、JR採用を認める救済命令が出された。しかしJR側は受け入れを拒否し、中央労働委員会に再審査を申立てた。ここでも大部分は組合員側の主張が認められたが、JR側(救済命令を出されたJR北海道、JR東日本、JR東海、JR貨物)はあくまで命令取消を求め、中労委を東京地裁に訴えた。また、JR総連(鉄道労連のことだが、民営化後は略称をJR総連とした)などの他労組は、従来の対立関係に加え、分割・民営化を支持した経緯から、JR側を引き続き強く支持した。それどころか、JR総連はJR側が救済命令に従うなら、抗議のストライキをするとJR側を脅しさえした(なお、JR総連は内紛により旧鉄労系が離脱し、その多くは鉄産労連と合同してJR連合を結成した。これは救済命令を支持したからではなく、古くからの労使協調派として、旧動労系の支配やスト決行を嫌ったからである)。
1997年12月17日、東京地裁は和解を勧告し、国労は受け入れの姿勢を見せたが、JRは拒否した。1998年5月28日、東京地裁はJRの主張を認め、救済を全面的に取り消した。不当労働行為があったとしても、国鉄とJRは別会社であり、JRは責任を取る必要がないというのがその理由だった。
2003年12月22日、最高裁判所は中労委と国労の上告を棄却し、新会社に引き継がない処分は確定した。しかし、国労闘争団が日本鉄道建設公団(国鉄清算事業団を引き継ぎ、さらに現在は鉄道建設・運輸施設整備支援機構に継承)への訴訟(鉄建公団訴訟、鉄運訴訟)を起こした。これについて、2005年9月15日、東京地方裁判所はJRへの採用で国鉄労働組合の組合員を不当に不利益に扱ったとしてJR側の組合差別を認め、組合員一人当たり500万円、総額14億1500万円の慰謝料の支払いを命じた。ただ、事業団が1990年に国労組合員を解雇したことについては、JRの不採用者を事業団職員として雇用し続けたのは再就職準備のためとし、その根拠法が失効したこの年に雇用が終了するのは合理的とした。被告の機構側は判決を不服として控訴し、原告の闘争団側も解雇無効が認められなかったなどの理由で控訴した。
JR採用差別闘争が長期化すると、JR・国に対する徹底抗戦を続ける国労闘争団側と、JR・国への屈伏やむなしとする国労本部側の内部対立が表面化した。前述のスト権スト訴訟和解の条件に、JR・国への屈伏が含まれていたという説もある。
2000年5月30日、組合は「JRに法的責任なし」を受け入れる条件で、自民、公明、保守の当時の与党三党、および社民がJRに働きかけ、解決金を支払わせるよう検討する内容のいわゆる四党合意の受け入れを決めた。しかし、闘争団側にとって「JRに法的責任なし」という条件は受け入れられるものではなく、また四党合意は国労がJRの法的責任無しを認める内容の一方で、JRの解決金支払いを確約したわけではなかった(あくまでJRに働きかけをするだけである)。こうした事情から両者の対立が続いたため、与党三党は合意を破棄した。また、鉄建公団訴訟は国労闘争団が独自に起こしたもので、組合側の意向ではなかった。これと前後して組合側が闘争団への支援を一部打ち切り、鉄建公団を提訴した組合員の一部を権利停止処分(役員への立候補禁止)にした。さらに実行はされなかったが、組合除名さえ検討され、国労執行部と闘争団の内ゲバの様相を呈した。支援は2004年7月より再開されたが、裁判には無関係との態度を取り、さらに裁判から手を引かせようと働きかけ続けた。そのため闘争団と国労本部の対立は変わらず、険悪な状況が続いた。
しかし2005年の鉄建公団訴訟東京地裁判決で、国労が差別を受けていたとの主張がある程度認められたことから、2006年1月28日に方針転換を決定。鉄建公団訴訟について原告を支援することになった。
2008年には、東京地裁で1月23日に全動労組合員による鉄運機構への損害賠償請求事件、3月13日には国労組合員による解雇無効・損害賠償事件の判決が相次いで出された。前者の判決(佐村浩之裁判長)では、不当労働行為の一部を認め、国鉄民営化時、遅くとも1990年の清算事業団解雇時を時効の起点として、消滅時効(このケースでは3年間)を主張した被告の見解に対しては、2003年の最高裁判決を時効の起点としてこれを退けた。その結果、原告1人あたり500万円の賠償金に加え、弁護士費用と遅延分の利息を支払うよう鉄運機構に命じた。しかし、JRへの不採用については、JRに採用されること自体については、権利や法的利益は何もないという判断を示した。一方、後者の判決(中西茂裁判長)では、消滅時効についての被告の見解を支持し、原告の全面敗訴となった。また、清算事業団からの解雇も有効とした。組合差別の有無への判断は示さなかった。
一方、3月27日のJR貨物との和解により、JR各社との紛争は不採用問題を除いて終結した(#JR以降と政府・経営側の評価参照)。国労の高橋伸二委員長は「政治解決の中で求めている雇用の確保ではJR各社に協力してもらわなければならず、各社との和解でその環境が整った」とコメントした。
[編集] その他
[編集] マーク
枠囲みの“レール断面の横にNRUの文字”。色は黒地に金色。組合員章(いわゆる国労バッジ)はマークを縮小した物。
かつて国鉄末期に「組合バッジ着用禁止」(不当労働行為として裁判所から撤回命令が出ている)になった際には「国労ネクタイ」「国労タイピン」果ては「国労ペン」まで登場させ、マークを表示させることに奔走した。
しかし、国鉄の労使関係が極度に険悪化し、順法闘争が繰り返されると順法闘争に不満を持つ乗客からは国労の組合員であることを示す格好の目印となり、乗客に取り囲まれたり物を投げつけられるなどの事件が多発した。このため、危険防止でマークを外した地区もあった。
[編集] 組合歌
- 「国鉄労働組合歌」(作詞:向日雅夫、作曲:服部正)
1950年のメーデー当時、「赤旗をなびかせて進むデモ隊の歌としてふさわしい曲を!」という国鉄労働組合の呼びかけに応じ、全国で400篇の詩が集まった中から、当時、田端電務区で国鉄詩人連盟の日向雅夫のものが歌詞として採用された。作曲は日本ビクターに委託され、服部正が担当した。服部は「私の背後の50万の国鉄労働者諸君の偽りなき情熱が赤々と燃え、私はこの曲を作った」とコメントを寄せた。
国労の組合歌には、「国鉄労働組合歌」が正式な題名であるとする説と、「私たちは俺たちは」が正式な題名であるとする説がある。日本音楽著作権協会 (JASRAC) への曲名登録は後者で行われている。関係者の話によれば、国労の中には複数の音楽活動サークルがあり、そのうち国労音楽協議会は「国鉄労働組合歌」を正式な題名とする一方、広島ナッパーズ(主に広島県内の国鉄労働者で構成されるうたごえサークル)や国鉄うたごえ協議会等の団体では「私たちは俺たちは」という題名で呼んでいる。一方で、国労関係者の持つ「国労手帳」には国鉄労働組合歌という題名で掲載されており、一般的にもこちらの方が広く浸透しているとされる。
[編集] 参考資料
[編集] 関連項目
[編集] 関連人物
[編集] 参考文献
- 佐藤昭夫『国家的不当労働行為論 国鉄民営化批判の法理』(1990/7 早稲田大学出版部 ISBN 4657907271)
- 葛西敬之『未完の「国鉄改革」 巨大組織の崩壊と再生』(2001/2/8 東洋経済新報社 ISBN 4492061223)
- 立山学『JRの光と影』(1989/2/20 岩波書店・岩波新書 ISBN 4-00-430060-6)
[編集] 外部リンク
- 国鉄労働組合(国労本部)(公式サイト)
- がんばれ国労闘争団
- 1047名の不当解雇撤回、国鉄闘争に勝利する共闘会議(国鉄闘争共闘会議)
- H15.12.22 第一小法廷・判決 平成13(行ヒ)96 各不当労働行為救済命令取消請求事件(最高裁判決)
- アルバショップ 国労闘争団の運動資金支援のための会社。食料品の販売など。
- 経済よもやま話* 国鉄の民営化他
- 人らしく生きようトップ(ビデオ「人らしく生きよう ―国労冬物語―」紹介)
最終更新 2009年10月22日 (木) 14:41 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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