国鉄157系電車

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方向転換のため回送中の157系お召し編成
1978年6月19日 山手貨物線目黒付近

国鉄157系電車(こくてつ157けいでんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が1959年昭和34年)に設計・製造した長距離用直流特別準急電車で、後に運用の実績から特殊特急形車両に分類された。最初に投入された列車の名を採って、「日光形電車」とも呼ばれる。

クロ157形は157系に組込まれる車両ではあるが、特殊用途のため他車とは別節にて解説する。

目次

[編集] 概要

東京から日光へは、1956年10月からキハ55系気動車による準急日光」が運転されていたが、1958年には東北本線日光線電化が完成したため、国際的観光地である日光市に向かう「日光」号を電車化し、スピードアップすることが計画された。そのうえで国際観光列車としての色彩や競合する東武鉄道への対抗ならびに将来の急行形車両の設備向上の試作的意味から準急列車用に開発されたものではあるが、151系電車に準じたデラックスな特急形車両並みの車内設備を有して設計・製造され、後に特急列車にも投入されることになるのが本系列である。1963年までに一般旅客用車両31両と皇室用貴賓車クロ157形の1両をあわせた合計32両が、日本車輌製造川崎車輛汽車製造で製造された。

計画時は22系電車と称したが、落成が同年6月の車両称号規程改正後となったため157系として登場した。

[編集] 構造

[編集] 車体・機器

性能的には、153系をベースに主電動機には出力100kWのMT46系を採用。歯車比は4.21(19:80)とし、勾配の介在する日光線内の運転条件を考慮して抑速発電ブレーキを装備した。台車はDT24形(電動車)・TR59形(付随車)を採用した[1]

編成内の電動車比率(MT比)を高めるため、編成両端をクモハ157形(Mc)+モハ156形(M')の電動車ユニットとし、その間に付随車のサロ157形(Ts)サハ157形(T)を2両ないし3両組み込むことを基本とした。また、準急用であることから食堂車は製造されてない。

新製時の外板塗色は、キハ55系と同様のクリーム色クリーム4号)にスカーレット(赤11号)を採用した。なお先頭部の裾(後部標識灯・タイフォンの下)のクリーム色の帯は、1次車の落成時は細いものであったが、2次車から太くなり統一されている。後に冷房装置の搭載にともない、赤色が他の特急用車両と同様の深い赤(赤2号)に変更した。

車体断面は153系に準じた形状としたが、出入口は151系と同様の幅700mmの片引戸が2か所に設けられたほか、横揺れ防止の車端ダンパも搭載された。側窓は冷房装置の搭載が当面見送られたことから、開閉可能なバランサー付き1段下降窓を採用した[2]。ただし、将来の冷房化を考慮した準備工事が施工されており、冷房装置設置予定部分の屋根上は鉄板で塞がれ客室内側には扇風機が設置された。その後、1963年にAU12S形分散式冷房装置の搭載工事が全車に対して施工された。

[編集] 車内設備

特急形車両と同等の車内設備を持たせるということで、座席1等車リクライニングシート2等車回転クロスシートを採用した。

1等車のリクライニングシートは151系のものと基本構造は同一だが、準急形ということで表地は赤7号の合成繊維となり、シートラジオは省略された。テーブルは151系と同様に通常は座席背面の袋に収納し、使用時に袋から出して肘掛け横の穴に差し込む構造である。

2等車の回転クロスシートは151系のものを改良し、座席背面の折畳みテーブルを外付け式とした。また座席背面のほか、側面窓下の壁面にも灰皿を設けている。

荷物棚は当時としては珍しいパイプ式を採用。

トイレ洗面所はすべての車両に設置されたが、サロ157形には外国人観光客に配慮して洋式トイレを採用した。

[編集] 形式

は当初の計画段階での形式である。

クモハ157-1 - 10(Mc・※モハ22形奇数番号) 
モハ156形とユニットを組む2等(→普通制御電動車。前面は非貫通で踏切事故などの際に乗務員を保護するために3.2mm厚の鋼板を使用し、高運転台構造になっている。運転室後部には冷房装置搭載時の電源供給用大型電動発電機(MG)[3]を納める機器室が設けられた。
前面には、この形式独特の列車愛称表示器(ヘッドマーク[4]が設置された。青地に白線で翼をモチーフとした逆台形で、中心部の正方形部分に紙芝居式に差し換えて表示する原始的なものだが、正方形部分の上部に蛍光灯が設置された電照式であり、そのためクモハ157形の前面部右側には電源供給用のコネクタが設置されていた[5]。なお、「あまぎ」・「白根」については新しいデザインのヘッドマークに変更されている。
モハ156-1 - 10(M'・※モハ23形偶数番号) 
クモハ157形とユニットを組む2等中間電動車。1位側にトイレを設置し、2位側のドア・デッキに続く車両端には車内販売の基地を兼ねた売店が設けられた。戸棚やショーケースのほかに流し台こそないものの電気冷蔵庫電気コンロが設置され簡単な調理も可能である。売店の向かい側には立食も可能な小カウンターが設置されており、冷房搭載時に冷水機も設置された。
冷房搭載時の電力負荷増に備えてパンタグラフも1基を増設できる準備工事がなされており、冷房改造と同時に2基搭載とした[6]
サロ157-1 - 6(Ts・※サロ27形) 
1等付随車(→グリーン車)。6は、1963年の増備車で冷房改造工事や「ひびき」定期化で予備車が不足することから製造されたが、当初からの冷房車である。
サハ157-1 - 5(T・※サハ28形
2等付随車。
クロ157-1(Tsc) 
貴賓車。詳細は#貴賓車クロ157形を参照。

[編集] 運用

田町電車区(現・田町車両センター)に配置された1次車14両をもって1959年9月22日から東京 - 日光間の「日光」、新宿 - 日光間の「中禅寺」、上野 - 黒磯間の「なすの」の各準急、および間合い運用で日光 - 黒磯間の快速列車で運転を開始した。

編成と運用(1959年9月22日~11月10日・1960年3月20日~11月30日)
下り「日光」→(臨時「第2日光」)→上り「中禅寺」
  • ←(日光・東京・新宿・上野)McM'TTsM'Mc(宇都宮)→
下り「中禅寺」→快速黒磯→「なすの」→快速日光→上り「日光」
  • ←(日光・東京・新宿・上野)McM'TsTM'Mc(宇都宮・黒磯)→

上記6両編成[7]で、準急は全車指定席。新宿発着の「中禅寺」は田町区からの出入が山手貨物線を介在するために編成が逆向きとなる関係から、上り「中禅寺」で帰区した編成は翌日の下り「中禅寺」で、上り「日光」で帰区した編成は翌日の下り「日光」に投入する制約があった。また同年10月31日・11月2・7日には下り「日光」 - 上り「中禅寺」の運用間合を活用して、上野 - 日光間の臨時準急「第2日光」に投入された。

当時の運転計画では「日光」は通年運転であったが、他の2本は春から秋にかけての季節運転でために同年11月10日に「中禅寺」「なすの」が運休になると、11月21日から翌1960年1月31日まで余剰となる1編成を投入して東海道本線の混雑緩和用に東京 - 大阪間の臨時特急「ひびき」が運転されたほか、上り「日光」は東京 - 伊東間で延長運転を行った(伊東からの田町帰区は回送)。

編成と運用(1959年11月21日~1960年3月19日)
下り「日光」→快速黒磯→快速日光→上り「日光」
  • ←(日光・東京・伊東)McM'TTsM'Mc(宇都宮・黒磯)→
下り「ひびき」→上り「ひびき」
  • ←(大阪)McM'TTsM'Mc(東京)→
ただし、「ひびき」運用と上り「日光」伊東延長は1月31日まで。

1960年3月20日からは冬季運休だった「中禅寺」「なすの」の運転が再開され、前年と同様の運用が11月30日まで行われた。

1960年12月には2次車16両が落成し、12月10日から臨時特急「ひびき」の増発が年間を通じて可能となった[8]

「ひびき」の編成
1960年12月10日~1961年1月31日
  • ←(大阪)McM'TsTM'Mc+TsTM'Mc(東京)→
1961年2月1日~1963年4月19日
  • ←(大阪)McM'TsTM'Mc(東京)→

1961年4月1日からは、伊豆と日光の両観光地を直結する季節準急「湘南日光」が伊東 - 日光間に運転された。この列車は季節により利用状況が異なるものと推定されたため、シーズンにより日光~東京間を「第2日光」、東京~伊東間を臨時「いでゆ」とに分けて運転するケースもあった[9]

1961年10月1日のダイヤ改正では、「ひびき」が季節特急に格上げとなり、2往復に増発された。なお、冷房装置のない157系「ひびき」は、夏季の間は1等220円・2等100円を割引く特定特急料金が設定された。また臨時準急列車として、上野 - 黒磯間の「ゆのか」と東京 - 日光間の「臨時日光」にも投入された。

1963年1月からは、本系列の冷房改造及び編成の変更実施で不足となる予備車確保のためサロ157形1両が増備された。同年4月20日には「ひびき」1往復が定期特急に格上げされ、それに先立つ3月には「中禅寺」「なすの」「湘南日光」が165系に変更されている。「日光」は157系で存続したが、サロ157形を「ひびき」に捻出したためサハ157形に置き換え次の編成に変更された。

「ひびき」用編成(使用2本)
  • ←(大阪)McM'TTsTsM'Mc(東京)→
「日光」用編成(使用1本)
  • ←(日光・東京)McM'TTM'Mc(宇都宮)→
共通予備車[10]
  • McM'ユニット4組8両・Ts2両・T1両

なお、「ひびき」は好評のために度々McM'ユニットを大阪方もしくは東京方のいずれかに増結した9両編成で運転されるケースも多かったが、同年12月21日の年末年始輸送から恒常的に9両での運転となった(ただし、増号車扱いは継続)。この措置は「第1富士」脱線転覆事故の影響で車両運用が大幅に変更された翌1964年5月6日まで継続した。

東海道新幹線開業による1964年10月1日のダイヤ改正では東海道本線の昼行特急は全廃となったため、「ひびき」充当車は同年11月1日から急行第1・第2伊豆」に転用されることになった。

急行「伊豆」編成
  • 多客期には、下田編成にMcM'ユニットを増結する場合がある。

上記の13両編成が、熱海分割併合を実施し、7両編成が伊豆急行線に乗入れ伊豆急下田まで、6両編成が伊豆箱根鉄道駿豆線に乗入れ修善寺まで運転された。

しかし、クモハ157形同士は元々片渡り構造のために向かい合わせで連結することが不可能だった。そこで東京オリンピックの臨時列車として10月3日 - 28日は横浜 - 日光間の臨時準急「特別日光」を改正前の「ひびき」所定の7両編成で運転をしながら、大井工場(現・東京総合車両センター)で順次クモハ157形の助手席側に制御用KE57形ジャンパ連結器を2基増設して両渡り構造とする改造工事が行われた[11]
なお「伊豆」「日光」充当期間中の1966年3月25日には、走行キロ100km以上の準急列車は急行列車に格上げを行う料金制度改定が実施され、「日光」も急行列車に格上げされた[12]
また1968年10月1日のダイヤ改正では、以下に示す列車愛称の整理が行われた。

  • 同一区間の運転系統を持つ列車に関しては愛称を統一する。
  • 上記列車の運転本数が1往復以上の場合は、「~1号」・「~2号」の番号区分に統一する。

そのために本系列充当列車の「日光」は「下り3号・上り2号」に、「第1・第2伊豆」は「下り1・8号・上り3・8号」への変更が行われた。

一方1968年7月には、信越本線東京 - 中軽井沢間に臨時特急「そよかぜ」2往復が設定され、横川 - 軽井沢間では補機EF63形が連結された。これに伴い、横軽対策・耐寒耐雪改造が全車に施工[13]された。ただし、本系列による「そよかぜ」は同年8月限りで、翌9月からは181系に変更されている。

1969年4月25日、東京 - 伊豆急下田間に特急「あまぎ」定期2往復・季節1往復・臨時1往復を新設し、本系列が投入された。

特急「あまぎ」編成
  • ←(伊豆急下田)←McM'TsTsTM'Mc+[M'Mc](東京)→
  • [ ]内は定期列車で9両編成。季節・臨時列車は7両編成。

これに先立ち4月5日に急行「伊豆」での運用を終了させたほか、「日光」も165系に変更となり、本系列は発祥の地日光線での運用を終了した。

1971年4月24日には吾妻線長野原以遠の延長開業にともない、上野 - 長野原(現・長野原草津口)間に不定期特急「白根」下り2本・上り1本が設定され、土曜・休日を中心に7両編成で運転された。なお、同年冬までに運転区間が万座・鹿沢口間に延長されている。

1972年3月15日のダイヤ改正で、「白根」は予定臨時列車の2往復として設定されるようになり、季節毎の時刻変更はなくなる。それ以降は「あまぎ」「白根」などで運用された。

しかし、下降窓である構造上の問題から雨水が浸入しやすい上、冷房の使用にともなう結露の発生により車体の腐食が早く、一部車両は外板の更新や窓の固定化等の対策が実施されたが、1976年2月に全車が営業から退き、183系1000番台に置換えられた。
実働はわずかに17年[14]であるものの落成から廃車まで田町電車区から転出することはなかった。なお、廃車・解体まで開設間もない国府津機関区国府津電車基地(後の国府津電車区→現・国府津車両センター)に留置された。

後述の貴賓車クロ157形およびその牽引用の4両を除く車両は同年中にすべて廃車されている。

[編集] 試験運転・特殊な運用・他系列との併結運転

1962年信越本線長岡 - 新潟間の電化が完成することになり、上越線経由で特急電車を運転するという計画がなされた。全線直流区間ということもあり、151系に白羽の矢が立ったが、本来は平坦区間用の電車が山岳路線で20勾配の続く上越国境での運用に耐えられるのかの疑問が残った。そこで1961年6月21日 - 22日にかけて10月のダイヤ改正用に早期落成した151系と1本系列を持込み上越線の新前橋 - 長岡間での比較走行試験を行った。

その結果は、山岳路線である上越線の連続勾配で151系4M3Tでは、歯車比が3.5と高速指向だったため電動機への過負荷による発熱が見られ、さらに4M2Tであっても同様な状況で問題が残った。一方、歯車比4.21の本系列では何も問題はなく安定した走行を得られたため、151系の車体に本系列の走行装置を組み合わせた161系電車が開発されることになった。

1963年4月15日、アジア極東経済委員会一行が建設中の東海道新幹線を視察することになり、東京 - 鴨宮間の特別臨時列車「ECAFE SPECIAL(エカフェ スペシャル)」に投入された。

1964年1月24日、2007M下り「おおとり」が車内に消毒薬を撒き過ぎ使用不可能となり、本来投入予定の151系[15]に代わり153系との混結編成で運転することになった。なお、当日の編成は以下に示す。

  • ←(名古屋)クモハ157・モハ156-4+サロ・サハ157-2+モハ156・クモハ157-5+クハ153-34+サハ153-203+モハ152・153-123+クハ153-21(東京)→

1964年4月24日に発生した「第1富士」脱線転覆事故の影響で本系列は下記の運用変更が行われている。

5月7日 - 5月31日
  • 4月25日 - 5月6日に代走を勤めた宮原電車区(現・宮原総合運転所)の153系(いわゆる「替えだま」)に代わり、本系列9両編成で「下り第1こだま」「上り第2こだま」に投入。このため定期「ひびき」は7両編成での運転となるとともに不定期の「第2ひびき」は運休とした。
6月1日 - 6月30日
  • 151系「特8編成」の大阪方先頭車をクハ161-3に差し換えたため、上越線特急「とき」に161系との混結編成で充当された。
  • ←(上野)クハ161+モロ161+モロ160+サシ161+モハ160+モハ161+サハ157+モハ156+クモハ157(新潟)→
  • なおサハ157形を捻出した関係で、この間の「日光」はサハ1両を減じた5両の変則編成で対応した。また6月16日には新潟地震が発生したため、「とき」は17日 - 26日は運休[16]となった。

[編集] 貴賓車クロ157形

クロ157-1(特急色)
1977年6月24日 品川

クロ157形は、従来の貴賓車クロ49形に代わる皇室の小旅行用(御用邸に移動する際など)並びに外国賓客用の貴賓車で、お召し列車の簡素化を目的として1960年7月に川崎車輌で製造された。

[編集] 構造

車体は、中間車としての使用も考慮して前面貫通構造とし、前面形状・運転台構造はクハ153形初期車に限りなく類似している。運転室は半室構造になっており、使用しないときはシャッターを降ろして入れないようになっている。また153系との併結運転も可能であり、初期の試運転で実際に行われた。

新製時から空調設備を完備しており、屋根上にAU11形分散式冷房装置冷房装置を搭載し、電源はサロ85020での冷房試験で使用した自車給電用18kVAのMG[17]を再整備して搭載している。客用扉は戸袋を廃した4枚折戸を採用。コンパートメント形式の貴賓室を車体中央部に有し、その前後を控室で挟み込む構造とした。貴賓室の窓は、大型の合わせガラス[18]が片側3枚設けられ、そのうち中央の1枚は、賓客の答礼の便を図るために電動で開閉できる構造となった。また貴賓室は光天井方式で、冷房は隣の控室からダクトで導く構造とされている。さらに、テーブルを挟んだ2つの主賓用の椅子は安楽椅子を採用したほか、絨毯の床・ソファ・飾り棚・ラジオなども装備する。定員は6人。

製造当初の車体塗装は、他の157系と同様クリーム4号と赤11号の塗り分けで、赤11号から赤2号への塗り替えも他車と同時期に実施されている。

[編集] 運用

当初はクモハ157・モハ156-1が牽引にあたり、クロ157形を後部に連結した3両編成で運転されたが、1962年6月に電気系統の故障により運転不能な状態に陥ったために、次の変更措置がとられた。

  • 牽引車にクモハ157・モハ156-2を追加指定し、両ユニットでクロ157形を挟み込む5両編成を基本[19]とした。
  • 二重の安全対策として、冷房化に先立ちモハ156-1・2に第2パンタグラフを設置する工事が緊急に行われた。

また牽引用McM'ユニットは、他車の廃車後もクロ157形牽引用に残ったが、1980年2月15日の牽引を最後に同年11月28日付けで廃車[20]1982年11月に解体された。

その後の牽引車は、183系1000番台が充当されたが、1985年3月に田町電車区からの183系転出により、185系0番台がその任に当たるようになり、クロ157形の外板塗色も当時の185系に準じたアイボリー地に帯に改められた。

1987年国鉄分割民営化に際しては東日本旅客鉄道(JR東日本)に承継され、後継のハイグレード車両・特別車両E655系電車登場後の2009年平成21年)現在でも、田町車両センター[21]に在籍するが、特別扱いを嫌う今上天皇の意向やその他の諸事情により、列車による行幸は一般向けの車両を使用した「団体列車」形式で行われるケースが主流となり、部品確保も難しくなったことから、1993年5月13日の運用を最後に全く運転実績のない状態が続いている。

なお、クロ157形による列車は原則的に通常の定期列車とは別に設定されるが、過去に一度だけ1962年10月13日の準急「日光」に併結されて運転されたケースがある。

1962年10月13日の準急「日光」
  • ←(日光・東京)McM'Tsc+McM'TTsM'Mc(宇都宮)→
  • 東京方3両は増号車扱い。またクモハ157形と向かい合わせのために通り抜け不可。

[編集] 関連項目

ウィキメディア・コモンズ

[編集] 参考文献

  • 交友社『鉄道ファン』1985年昭和60年)6月号(通巻290号)・1990年平成2年)6月号(通巻350号)、同『電車のアルバム(I/II)』

[編集] 脚注

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  1. ^ 1960年以降製造の増備車は、改良形のDT24A形・TR59A形。
  2. ^ 近畿車輛のシュリーレン式バランサーである。
  3. ^ 落成時5KVA、冷房搭載時70KVA。
  4. ^ ヘッドマークには列車名以外にも「特急」・「快速」など種別のみを表記したものもあった。
  5. ^そよかぜ」に用いられた際のヘッドマークは、デザインはそれまでと同じだが、一枚板で蛍光灯を装着しないタイプ。
  6. ^ クロ157形の牽引車を兼ねる1・2は、冷房化前の1962年にパンタグラフ2基搭載改造を施工している。
  7. ^ 運転開始初日は、下り「日光」からの編成がMcM'ユニット2両増結の8両で運転された。
  8. ^ 151系による「ひびき」も運転されたこともある。詳細についてはこちらを参照。
  9. ^ この改正では「伊豆」が上り1本増発されている。この列車に「湘南日光」または「臨時いでゆ」の間合使用で本系列を投入した場合は、翌朝、伊東へ送り込み回送列車を運転して上りの「湘南日光」または「臨時いでゆ」に充当した。
  10. ^ 不定期の「第2ひびき」は夜間大阪停泊となるため、田町での折り返し間合いで検査を行う関係から恒常的に「ひびき」編成は3本が組成されていた。そのために実質の予備車はMcM'ユニット2組4両であったともいえる。
  11. ^ 同時に助手席側には、三相引き通し用のKE5形ジャンパ連結器も装備された。
  12. ^ この措置により「伊豆」と同一区間を走行する153系使用の準急「あまぎ」・「いでゆ」も急行列車に格上げされたことで本系列と153系の設備の違いが問題化している。
  13. ^ クロ157形と牽引車であるクモハ157+モハ156-1・2は1965年に先行して工事を完了している。
  14. ^ 1963年製のサロ157-6に至っては13年であった。
  15. ^ この編成はヒーター投入乾燥後名古屋へ回送され、翌日の2008M上り「おおとり」に充当された。
  16. ^ この編成は逗子などに疎開したが、新潟運転所(現・新潟車両センター)の165系が多数罹災して不足したため、20日 - 23日には急行列車に投入された。
  17. ^ 1969年に40kVAのものに交換。
  18. ^ 防犯上防弾ガラスである。
  19. ^ 一部の文献では「安全上等の理由から、通常クロ157形が編成端につくことはない」と誤解された文献も見受けられる。
  20. ^ 廃車前日の11月27日に両McM'ユニットの間にサロ165-50・12を挟み、大船工場(現・鎌倉車両センター)に自力回送されている。
  21. ^ 現車は東京総合車両センター内の御料車庫に保管されている。

最終更新 2009年11月20日 (金) 21:54 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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