国鉄20系客車
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国鉄20系客車(こくてつ20けいきゃくしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が1958年(昭和33年)に開発した寝台特急列車用客車である。
日本で初めて、同一系列・同一意匠の車両による「固定編成」を組むことを前提として、システマティックな基本構想の下に設計された客車であり、電源車から一括供給される電力による冷房装置や完全電化された食堂車の諸設備、それに空気ばね台車の装備などで居住性を大きく改善した画期的な車両であった。青15号にクリーム色1号の帯を3本巻いた外観はデザイン的にも優れ、以後の客車寝台特急も含めて「ブルートレイン」と呼ばれる起源となった。
1958年10月から、東京 - 博多間を結ぶ特急「あさかぜ」に投入され、運行を開始した。1986年(昭和61年)11月に定期運用を終え、1998年(平成10年)までに全車廃車となった。
最初に投入された列車にちなみ「あさかぜ形客車」と呼ばれ、その設備の優秀さから登場当時は「走るホテル」とも評された。
目次 |
[編集] 沿革
1958年から1970年(昭和45年)までに合計16形式473両が製造[1]され、本州・九州において長距離寝台特急に広く使用された。日本各地に寝台特急列車網を構築した功績は大きい。
1970年代後半からは設備の陳腐化により、本来の定期特急列車としての運用から外されて急行列車や臨時列車に用いられることが多くなった。1980年(昭和55年)10月の「あけぼの」の24系化を最後に特急での定期運用が消滅し、1986年(昭和61年)11月には「だいせん」「ちくま」を最後に急行での定期運用も消滅した。また、1980年代後半からは、塗装が14系や24系と近似したものに順次変更され、最上部の白帯が省略された。
1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化時には主に臨時列車用としてJR東日本に34両、JR西日本に63両が承継され、「カートレイン」や「シュプール号」などの臨時列車に使用された。しかし、老朽化により年々数を減らすと同時に運用の機会も減少し、末期には予備車扱いで少数が残されるのみであった。
1997年(平成9年)11月、JR西日本により新大阪発岡山行の快速「さよなら20系客車」が運転され、これが当系列の最終運用[2]となった。この列車の牽引機にはEF58 150が使用され、新大阪駅では記念式典が行われた。
[編集] 構造
10系客車の延長上にある、軽量車体を備える。国鉄制式客車では最初に、全車両に空調装置・空気バネ台車(TR55系台車[3])を装備し、在来型客車と比較して著しい居住性の向上を成し遂げた。
[編集] 車体
普通鋼を使用するが、台枠だけではなく側板などにも荷重を負担させることで梁や柱などの構造部材を省略して大幅な軽量化を実現した、準張殻構造車体を備える。
その設計は先行する10系のそれを基本としており、断面形状は10系寝台車より採用が開始された側面腰板部で絞った大断面のものが採用されており、特に屋根部は床下冷房搭載により扇風機カバーや通風器などの突起物を一切取り付ける必要が無くなったことから、車両限界を最大限に活用すべく丸く深い切妻構造の断面形状となった。
また完全冷房化により、側窓は車掌室や便所など開閉の必要のあるものを除き全て複層ガラスとゴムシーリングによる固定窓とされており、座席車はシートピッチに合わせた狭窓、寝台車や食堂車は区画に合わせた広窓、と在来車の窓配置を踏襲する形で窓寸法が決定されている。なお、2段式一等寝台車については上段寝台の明かり取り用としてやはり複層ガラスによる小窓が幕板部に設置されており、外観上のアクセントとなっている。
編成最後尾に連結される緩急車は2面の曲面ガラス[4]を用いた流線型デザインを備え、一方で運用により編成の中間に入る緩急車は別途貫通路を備える専用形式が起こされ、全体の意匠を統一した流麗な編成外観となっていた。
内装は当初は10系と同様、ハードボードと称する木質樹脂板を使用していたが、これは中途でメラミン樹脂化粧板に変更されている[5]。
ナロネ20・22形の「ルーメット」と称する1人用個室は国鉄の営業用客車では初めて採用された[6]ものである。
2等寝台車は10系寝台車と同様、3段式の折りたたみ寝台を備える側廊下式配置で、この寝台の組み立て・解体作業には多数の人手と長い時間を要した。なお、この寝台室区画の側廊下には跳ね上げ式の折りたたみ座席が設置されている。
客用扉は自動ドアとはなっておらず、電磁弁で遠隔ロックのみ可能な手動式折り戸である。このため新造以来、各車両に配置された列車ボーイ(車掌補)により乗降扉の開閉作業が行われていたが、1976年10月に車掌補が廃止[7]されると、以降は開扉は乗客が自分で行わなければならなかった。閉扉は車掌の業務となったため、扉が開いた状態のまま発車し走行中に車掌が各車を巡回して閉める光景もしばしば見られた[8]。
編成端部となる車両(電源車および緩急車)には、電照式の愛称表示装置が設置された。連解結を前提とした切妻のナハフ21形およびナハネフ23形では巻き取り式の幕であったが、それ以外の丸妻の車両は5角形の大形の表示装置(アクリル板をはめるタイプのもの)であった。
これは初期の運用列車では列車によって配色を変える試みがなされ、地色は「あさかぜ」は薄水色、「さくら」はピンク色、「はやぶさ」は黄色、「みずほ」は水色(文字は黄色)といった具合であったが、1964年の「富士」「はくつる」以降は簡略化のため白の地色に濃青の文字にほぼ統一され、前記の各列車も次第にそのスタイルに取り替えられた(ただし、「あけぼの」・「ゆうづる」についてはピンク地のものが白色地のものと混用された[9])。
1978年より国鉄が導入した「絵入りサイン」は、すでに本系列が置き換えの対象となっていたため特急列車については導入されず、定期列車に関しては急行「銀河」が1980年に使用したのを皮切りに「かいもん」「日南」が採用している(その他の定期急行運用では文字の「急行」表示のみであった)。このほか、1980年代に運行された臨時急行「おが」や1990年代に運行された臨時急行「あおもり」(臨時「日本海」の格下げ)・「玄海」(臨時「あさかぜ」の格下げ)・「霧島」(臨時「明星」の格下げ)・「雲仙」(臨時「あかつき」の格下げ)にはそれぞれ専用の絵入りのサインが使用されていた。
[編集] 主要機器
[編集] 電源システム
編成の一端に連結された電源車[10]により、編成内の冷暖房や食堂車調理設備等の電源の一切を供給する集中電源方式を採用する。
このため、国鉄としては初の、従来型客車が装備した蒸気暖房や車軸駆動冷房、石炭レンジなどをすべて排除した「完全電化」車である。
電力を供給する電源車には、基本的にはDMF31S-Gディーゼルエンジンと三相交流600V電源を供給するPAG1発電機を2セットずつ搭載するが、パンタグラフからの集電による架線電源を利用する、大容量電動発電機を併設して区間ごとにこれらを切り替えて運用するカニ22形や、九州島内での編成分割運転に対応してDMH17C-G・DMH17S-GディーゼルエンジンとPAG7発電機を2セット搭載する簡易電源車のマヤ20形も存在した。
[編集] 冷房装置
冷房装置はAU21と呼称する集中式ユニットクーラーを各車の床下に2基ずつ搭載し、電源車から給電される電力でこれらを駆動する。このため各車の床下には発電装置は搭載されておらず、また14系以降の集中式冷房装置を屋根上両端部に搭載した各系列とは異なり、屋根は凹凸のない連続的なシルエットを形成する。
[編集] 台車
電源車以外の各形式については10系で開発・実用化されたTR50を基本としつつ、乗り心地改善のために枕ばねをベローズ式空気ばねで置き換えた、鋼板プレス材溶接組み立てによるペデスタル式の軸ばね式台車であるTR55を装着する。もっとも、最高速度が110km/hに留まったためか、同時期の特急形電車や特急形気動車では採用された、2次蛇行動を抑止するためのボルスタアンカーの装着は見送られている。
これに対し、新造電源車は乗り心地に対する配慮が特に必要なく、また荷重も大きいことからばね定数を大きくとったコイルばねによる枕ばねを備えるTR54・54A・66の各形式を装着する。特に自重の重いカニ22については軸ばねの定数の問題から単列コイルばねによるTR54系では支えきれず、複列のコイルばねによるウィングばね台車となっており、この台車は後の24系客車でも一部仕様を変更の上で電源車に採用されている。
[編集] ブレーキ
新造開始当初は山陽本線の電化区間がようやく姫路に到達したばかりで、非電化区間ではC62形などの蒸気機関車が牽引を担当した。このため、在来型客車と同様に通常のA動作弁に対するブレーキ管指令によるAS自動空気ブレーキを装備し、最高速度は95km/hに制限されていた[11]。
その後、1967年の常磐線全線電化完成で本系列の幹線系での蒸気機関車牽引による運用が消滅し、さらに1968年9月をもって最後まで残っていた佐世保線内のC11形による本系列牽引運用のDD51形への置き換えが決定したことから、1968年10月1日のダイヤ改正に向け、ASブレーキに中継弁(Relay valve)と電磁給排弁(Electro-pneumatic valve)、それにブレーキ率速度制御機能を付与したAREB増圧装置付き電磁指令式自動空気ブレーキへの改造工事を実施[12]し、110km/h運転に対応している。
もっとも、この改良により、以後の営業運転時は原則として牽引機関車がEF65形500番台(P形)ならびに1000番台(PF形)など110km/h運転に備えて編成増圧ブレーキ装置[13]や電磁指令ブレーキ回路[14]等を追加搭載された機関車[15]に限定されることとなった。しかも、95km/h以下での運転の際にも増圧圧縮空気や空気ばねへの空気圧供給源として元空気溜管(MR管)の引き通しが求められたため、この段階では全ての運用について牽引可能機関車が限定[16]されるなど、その牽引機には取り扱い上様々な制約が伴った。
この問題は後年の急行列車への転用に際し、カニ21形の荷物室に空気圧縮機を搭載してそこから元空気溜管への空気圧供給を可能としたカヤ21形(後述)が竣工するまで、本系列の運用を制約し続けることとなる。
[編集] 形式
[編集] 新造形式
原則として車両番号は製造メーカーで区別され、下2桁が1 - 49は日本車輌製造、51 - 99は日立製作所となっていたが、のちに例外が生じた[17]。なお、日立製作所は1963年の「みずほ」用を最後に客車製造から撤退したため、大部分が日本車輌製造製である。
これらはおおむね共通の設計とされたが、食堂車と個室寝台車のナロネ20については内部デザインを両社に委ねる形となった。日立製作所製の食堂車は社内デザイナーによる斬新なデザインで外部からの評価は高かった。
寝台車・座席車・食堂車・その他の順に記述する。
[編集] ナロネ20形
1958年に製造された1人・2人用一等個室寝台車。下り方は中央に通路を挟んで1人用個室「ルーメット」が10室あり、内部は腰掛と補助腰掛があり、寝台は壁に垂直に埋め込んであるものを腰掛上に倒して用いる構造。上り方は2段式2人用個室が4室設けられていた。そのうちの東京よりの2室は仕切り壁を折りたたむことにより4人用として利用できた[18]。
各室とも洗面台・電気カミソリ用コンセントが設置されており、さらに洋式トイレが2カ所、荷物保管室、給仕室が設置されているなど、「走るホテル」の名にふさわしい設備を誇った。登場時の等級は全車2等A寝台。1・2・51の1次車3両が製造されたのみで、終始品川客車区(後の品川運転所。現在は閉所)所属で博多「あさかぜ」に専用された。
1975年のダイヤ改正で運用を終了、1976年までに形式消滅となった。
[編集] ナロネ21形
1958 - 70年にかけて製造されたプルマン形開放式一等寝台車。通路を挟んで2段の寝台が線路方向に28人分設置、喫煙コーナーも設置されていた。そのほかに、給仕室・荷物保管室・和式。洋式トイレが設置されていた。
一等寝台としては標準的な仕様であり、1 - 4・51 - 55・101 - 147・151 - 153の59両が製造された。100番台は「みずほ」にナロ20形の連結がなされなくなったため、基本番台からレイアウトを変更し、給仕室を専務車掌室に、荷物保管室を給仕室へ変更したものである。また、荷物保管室の給仕室への変更に伴い、730mmの小窓を設置した。後に基本番台もナロ20形の寝台車への改造で車掌室の設置が必要となったことから、1969 - 1970年にかけて大船工場にて100番台と同様に専務車掌室の設置などの改造が行われ、500番台に改番された。のちに一部が座席車ナハ21形に改造されている。
ほとんどが国鉄分割民営化までに廃車され、ごく一部がカートレイン用として残存したが、それも1996年には廃車となり、同年に形式消滅した。
[編集] ナロネ22形
1959 - 63年にかけて製造された1人用個室・開放式合造一等寝台車。1959年の「平和」を改称した「さくら」の運行開始にあたり登場。下り方はナロネ20形と同じ1人用個室を6室設置し、喫煙コーナーを挟んで上り方には開放式の寝台が16人分設置されていた。1 - 3・51 - 55の8両が製造され、「さくら」のほか、東京 - 九州ブルトレ各列車に連結された。
ナロネ21形と同様、1969 - 1970年にかけて乗務員室を専務車掌室に、荷物保管室を乗務員室をハシゴ置き場に、乗務員室に730mmの窓を新設する改造が大船工場にて行われた。改造によって、その全車、原番号+100となった。
ナロネ20形同様、終始品川客車区所属であったが、最後の連結列車であった「あさかぜ(下り)1号・(上り)2号」が新造の24系25型客車に置き換えられた際に、オロネ25形で代替され、1978年に形式消滅となった。
[編集] ナハネ20形
1958 - 70年にかけて製造された二等寝台車。基本的なレイアウトはナハネ11形に準じ、車内は側廊下式の3段式寝台が9ボックス54人分並ぶ。寝台の幅はナハネ10形などと同じ520mmであるが、当初より冷暖房完備で、また各段寝台の上下間隔が大きく取られ快適性に優れていた[19]。固定窓となったため窓下に格納スペースが生まれ、通路側下部には折りたたみ式座席が設置された。車端部の和式便所が2室と洗面台は3基が、出入り口付近に給仕室が設置されている。
1 - 49・51 - 91・101 - 149・201 - 249・301 - 364と本系列中最多の253両が製造された。1968年にナロ20形のうち6両を小倉工場と幡生工場にて当形式へ改造(車体は新造)、501 - 503・506 - 508と区分された。また、1971年には土崎工場にてナハフ20形のうち3両を当形式へ改造、510 - 513に区分された。1972年にはナハフ20形2を改造し、513とした。1978年には急行用として12系との併結を可能にするために改造を実施し、1000番台・2000番台が誕生した。
1000番台は、1978年に幡生・高砂・月崎の3工場で改造が行われ、変圧器の取り付け・ジャンパ連結器の交換などが実施され、改造された車両は原番号+1000とされた。2000番台は、1978年に大宮・高砂・幡生の3工場で改造が行われ、戸締め装置と車側灯が新設された。改造された車両は原番号+2000とされた。
1984年には、団体臨時列車「ホリデーパル」用に幡生で5両が改造され、700番台に区分された。(701 - 705)
これらの車両は、JRに継承されたが1997年までに形式消滅した。
[編集] ナハネフ22形
1980年代 川尻客車区
1964 - 70年にかけて製造された二等寝台緩急車。全車寝台化の方針変更により、ナハフ20形に代わって製造が開始された。ナハフ20形と同様に非貫通式となっており、車掌室と展望室が設けられている。寝台はナハネ20形と同様の3段式が8ボックス48人分設置されており、トイレ・洗面所もナハネ20形と同じである。車掌室とは別に乗務員室も設置されている。1 - 26が日本車輌製造のみで新造されたほか、ナハフ20形から5両が改造され500番台に区分された。なお、ナハフ20形からの改造車は車体を新製しており差異はない。
1978年には急行用として12系と併結するための改造が、大宮・高砂・幡生の3工場で行われた。改造された車両は、原番号+1000とされ、1000番台として区分された。ナハネ20形と同様に戸締め装置と車側灯が新設されたほか、車掌室と業務用室に車掌スイッチを取り付けた以外変化はない。
1984年には、団体臨時列車「ホリデーパル」用に幡生工場にて1両が改造され、701と改番された。
JRに継承された車両も1996年には廃車となり、同年に形式消滅した。
[編集] ナハネフ23形
1964 - 70年にかけて製造された二等寝台緩急車。ナハフ21形同様、編成分割を前提としているため切妻・貫通式となっている。寝台はナハネフ22形と同様の48人分だが、ナハフ21形にあった売店はない。1 - 20が日本車輌製造のみで新造された。
1968年にはナハフ21形(54 - 56)を高砂工場にて改造し、500番台とした。(501 - 504)500番台は、切妻貫通型の部分を新製しており、基本番台と外見はほとんど変わらない。1978年には、「だいせん」用として12系と併結するための改造が大宮・高砂・幡生の3工場で行われた。改造された車両は、1000番台として区分されたれ、ナハネフ20形1000番台と同様に戸締め装置と車側灯が新設、車掌室と業務用室に車掌スイッチを取り付けられた。
JRに継承された車両も1997年までに廃車にされ、同年に形式消滅した。
[編集] ナロ20形
1958 - 60年にかけて製造された一等座席車[20]。20系は当初全車寝台ではなく一部を座席としていたため設定された。当形式はナロ10形の座席レイアウトを踏襲しており、全席がリクライニングシートを備え、定員48名。床下空調の風道とするため座席部分の床が通路よりも100mm高くなった構造になっていたほか、白熱灯を使ったスポットライト式の読書灯を1席分毎に設けていたのも特徴である。出入り口付近に、洋式便所・洗面台・荷物保管室・車掌を、前位よりに和式便所・洗面所が設けられていた。
1 - 5・51 - 54の9両が製造されたが、1968年に3両を残してナハネ20形に改造され、ナハネ20形501 - 503・506 - 508となった。残った3両はナロネ20形とともに博多「あさかぜ」に1975年まで連結され、1976年に形式消滅した。
[編集] ナハ20形
1958年に製造された二等座席車。ナロ20形と同様の座席車。回転式クロスシートを装備、定員は64名。座席部分の床はナロ20形と同じく100mm高くなっている。また当形式は、国鉄としては初の売店設置車両。売店にはショーケースが設置され、弁当・土産・新聞などを販売した。また、その向かいには電気式のジュースクーラーと物置を設置した。また、ホームからの物品の搬入の便を図るために、物置と売店の側面に鋼鉄製の扉が設置された。
回転式クロスシートは車両基地などでの転換を想定していたもので、デビュー当時は乗客が任意に回転させることはできなかった。1・51・52の3両が製造されたにとどまり、「あさかぜ」以降は1964年運転開始の「はくつる」に連結された。運用移管によって、1966年に尾久客車区(現・尾久車両センター)に異動。
1971年にナハネ20形 510 - 512に改造され、形式消滅した。
[編集] ナハフ20形
1958 - 59年にかけて製造された二等座席緩急車。最後部に連結される非貫通式・流線型の緩急車で、最後部は半分が車掌室、半分は展望室として乗客に開放されていた。客室はナハ20形に順じており、定員は68名。1 - 6・51 - 53の9両が製造されたが、1 - 3と51・52は当時の製造技術面の問題で妻部の窓ガラスが平面4枚窓、それ以降は曲面ガラス2枚窓が採用された。「あさかぜ」用では腰掛けを単独で回転させることはできなかったが、「さくら」用からは背ずりをおこすことにより回転させることができる構造になった。
後半は新設の「ゆうづる」などに連結されたが、1965年以降寝台列車の全席寝台化の方針に従って順次寝台車に改造され、ナハネフ20形に3両、ナハネ20形500番台に1両、ナハネフ22形500番台に5両が改造され形式消滅した。
[編集] ナハフ21形
1959 - 63年にかけて製造された二等座席緩急車。編成中間に挟み分割併合に対応するため、切妻・貫通式とした形式。「さくら」「はやぶさ」「みずほ」の基本編成に使用された。客室はナハ20形に準じ、定員は60名。売店も設置された。1 - 4・51 - 56の10両が製造されたが、1965年以降ナハネフ21形に6両、ナハネフ23形500番台に4両が改造され形式消滅した。
[編集] ナシ20形
1958 - 70年にかけて製造された食堂車。基本レイアウトはオシ17形に準ずるが、厨房は完全電化され、冷蔵庫や電気レンジが設置されるなど近代化された。食堂部分は通路を挟んで片持ち式の4人掛けのテーブルが設置され、定員は40名。1 - 29・51 - 57の36両が製造された。
食堂満席時に待合室となる喫煙室は、営業終了後は座布団と背ずりを引き出して従業員用の寝台とした。また、車端部には公衆電話設置のための準備工事が行われ電話室が設置されていた。1968年以降に製造された車両(17 - )は、電話室を車内販売準備室に変更し折りたたみ式のテーブルを設置した。
日本車輌製造製と日立製作所製で内装に違いがあるのが特徴である。
- 日車製は、照明は中央と窓側にカバー付の蛍光灯を照らす方式、冷房の吹出口は連続タイプ、食堂と厨房の仕切りは営団地下鉄6000系などで採用されたキノコ形貫通路に似た形状の比較的シンプルなデザイン。
- 1968年以降の増備車である17 - 29では、食堂部分のテーブルがサシ581同様跳ね上げ式になり、椅子のFRP化、蛍光灯が中央部のみになるなどのモデルチェンジが行われた。外観では厨房部の業務用扉が外吊り式になり、将来の列車電話の使用を見越して設置されていた電話室が実際の使用実績がなく、以後の計画もないため車販準備室に変更された。そのため該当部分の窓が廃止された。
- 日立製は照明は間接照明とダウンライトを使用、冷房の吹出口はビルに多く見られる円形のもので、食堂と厨房の仕切りは円弧を描いたモダンなデザインであった。
1978年の「あさかぜ」編成の置き換えにより定期列車から撤退し、24系などの増備により1980年前後には全車が休車となった。しかし財政管理の都合上、国鉄分割民営化直前まで車籍を残していた車両もあった。1987年に全車廃車となり形式消滅した。
[編集] マニ20形
電源荷物車。1958年に最初に製造された電源車。全長17,500mm、自重40.6t。250kVAのディーゼル発電機を2基搭載している。計画段階では、スニ20形とされていたが防音対策の強化による重量増のため、マニ20形となった。荷重3tの荷物室を設置していることから、形式の分類は荷物車を示す「ニ」が与えられている。荷物車用扉は、一般的な引き戸ではなく、カニ38形で試用された上昇式の巻き上げシャッターを採用している。台車はコイルばね式枕ばねを備えるTR54である。
全長が短く、新聞輸送に対して荷物室も小さいためカニ21形に置き換えられ、1・51・52の1次車3両のみの製造にとどまった。主に荷物需要の少ない「はやぶさ」、「富士」、「あかつき」で使用された。1968年に青森に転属した際には、寒冷地仕様への改造・荷物室への明かり窓の追加などの改造工事が施工されている。1977年に全車廃車で形式消滅。
[編集] カニ21形
電源荷物車。1959年の2次車から登場。新聞輸送の急増のためマニ20形の全長を20,000mmに延長し、荷物室を5t積みに拡大。自重が43tになったため、記号も「カニ」となった。機関室にも明かり窓が設けられている。また、燃料タンクも700L×1個に変更されており、自重増に対応して台車もTR54Aに変更されている。
1970年増備の3両(123 - 125)は電源装置の無人運転に対応するため遠隔自動制御装置が装備されており、基本番台の続番+100という車番に変更され、100番台に区分された。この3両での制御装置の試験結果が良好だったため、1971年から翌年にかけて基本番台にも同装置が取り付けられた(改造に伴う改番は実施されていない)。そのため基本番台と100番台との差異はなくなっている。1 - 21・25 - 27・51・52・122 - 124の29両が製造されたが、一部は後述するカヤ21形に改造されている。
1985年に形式消滅した。
[編集] カニ22形
電源荷物車。1960・63年に製造。カニ21形と同様のディーゼル発電機を2基搭載しているほかに、電動発電機(MG。MH100電動機・DM64発電機)を併設しており、直流電化区間では屋根上に2基設置したパンタグラフ(PS18)から集電してMGによって給電を行っていた。
切り替えは、同乗している技術員によって手動で行われた。また、パンタグラフの上昇・降下などはKE59ジャンパ線の引き通しを行ったEF58形やEF60形500番台、あるいはEF65形500番台から遠隔操作することができ、特にEF58形の対応車両では電源装置の遠隔制御機能も搭載されていた。
後述する51以外は主に「さくら」「みずほ」に使われたが、自重が59t(荷物・燃料満載の場合は、64t)にも達し軸重が最大16tとなるため、この軸重を許容する線路規格の高い区間でしか最高速度で運転できないという制約があった。このため速度制限を受けずに走行可能なのは東海道本線、山陽本線、鹿児島本線の熊本駅以北のみという状況であり、長崎本線では応急的な軌道強化工事を施して速度制限を緩和する有様であった。また、荷物室の荷重も2t[21]と小さいことから充当可能な列車が制限され、1 - 3・51 - 53の6両が製造されたにとどまった。
台車は自重が増加したことから軸ばね式のTR54系では不十分と判断され、電車用のDT21系と同様のウィングばね式台車であるTR66が新規設計されて装着されている。
線路規格が高い区間でしか使用できないという問題から、新製直後にマニ20形・カニ21形と共通の予備車扱いとされた51は軸重軽減のためMGを撤去[22]、52・53は1965年に「さくら」運用での佐世保線入線に備えてMGとパンタグラフを撤去、「みずほ」でMGを使用していた1・2・3も1968年の向日町運転所転属時までにMGとパンタグラフを撤去、以後は全車ともディーゼル発電機のみ使用となり、カニ21形と共通運用となった。なお、旧MG装備位置にはディーゼル発電機用の燃料タンクが増設されている。MG撤去後は荷物積載量が少ないため、関西 - 九州の列車や上野発の列車に転用された。
1975年に2両が24系に編入改造されてカニ25形1・2となった。詳細は後述。
1979年に形式消滅した。
[編集] 改造形式
ナハ21形を除き1960 - 69年の二等級制による表示とする。また、登場順に記述する。
[編集] マヤ20形
簡易電源車。1963年(昭和38年)6月に「みずほ」を20系化する際、付属編成を門司駅 - 大分駅間で分割併合運用が生じたことから、分割された付属編成の電源確保のため供奉車460号の改造実績を参考に旧型客車のオハシ30形を小倉工場で改造したマヤ20形1・2が門司客貨車区(現・門司機関区)に配置された。塗色は20系に合わせられたが、車体の大部分は種車であるオハシ30形の状態を残す一方、屋根にはラジエターファンが付くという特異な外観で、旧食堂・調理室側は全て撤去の上電源室と技術員室とし、DMH17CG機関とPAG7発電機が2基搭載され、床下には燃料タンクが2基設置された。短区間用なので荷物室は省略され、形式は職用車記号の「ヤ」となっている。
台車は種車のものが流用され、平軸受のTR23を装着する。
「みずほ」時代には事故対応で東京まで臨時編成の電源車として使用した実績もあり、1964年(昭和39年)10月に「みずほ」の付属編成が「富士」として独立した際は、定期運用から外れ1を休車とし2は予備電源車として門司に待機[23]させた。
1965年(昭和40年)10月ダイヤ改正で早岐客貨車区に転属し、長崎本線・佐世保線で「さくら」・「あかつき」の付属編成用としての使用が廃止されると、スハ32形丸屋根車から3が追加改造された。
さらに1968年にも増発により、スハ32形丸屋根車から3両が改造されている。この時の車両は電源室を車体中央部に設置することにより重量配分の適正化が図られ、発電用エンジンが過給機付きDMH17S-Gへ変更され、出力が向上した。また、前位となる機関車連結側に荷物室が設けられたことで扉が2カ所とも残る窓割となったため、10 - 12に区分された。
1972年3月15日国鉄ダイヤ改正で長崎客貨車区に転属したが、「さくら」が14系に置き替えられ、「あかつき」も運用数減少で1974年までに2・3・10が廃車された。その後も「あかつき」・「はやぶさ」用の付属編成用として1・11・12が使用されたが、1975年3月10日国鉄ダイヤ改正で運用を失い、同年4月末には小倉工場で順次解体された。1975年に形式消滅した。
- スハ33044→スハ32 381→スシ31 2→オハシ30 4→マヤ20 1
- スハ32907→スハ32 244→スシ31 5→オハシ30 5→オハシ30 2005→マヤ20 2
- スハ32941→スハ32 278→マヤ20 3
- スハ33275→スハ32 612→マヤ20 10
- スハ33450→スハ32 787→マヤ20 11
- スハ32860→スハ32 197→マヤ20 12
[編集] ナハネフ20形
二等寝台緩急車。1964・65年にナハフ20形2 - 4の3両を改造した形式。車体を流用しているため、2窓分で1ボックスとした窓割から寝台の1ボックスあたりの幅が従来車の1,560mmより230mm広い1,790mmとなっている。寝台はナハネフ22形に比べ1ボックス6名分少ない42名分。便所・洗面所・物置・乗務員室が競ってされていた。以後の改造は車体を載せ変えたナハネフ22形500番台に移行。1975年に形式消滅した。
[編集] ナハネフ21形
二等寝台緩急車。1964・65年にナハフ21形を改造した形式。ナハネフ20形同様、車体を流用している。売店は撤去し、7ボックス42名分の寝台を設置した。1964・65年に小倉工場で1・3・4・51 - 53の6両が改造された。改造方法はナハネフ20形とほぼ同じ。「さくら」「日本海」「つるぎ」で使用された後、青森へ転属し「ゆうづる」などで使用された。晩年には尾久に転属し「天の川」で活躍した。やはり残りはナハネフ23形500番台に移行。1978年に形式消滅した。
[編集] カヤ21形
電源車。1976 - 78年にカニ21形を改造した形式。20系の急行列車への格下げにより、一般型の荷物車を連結する事情により機関車からの増圧圧縮空気の供給に支障が生じ[24]たことと、P形改造未施工の機関車(主にEF58形[25])での牽引が想定されたことから[26]、これを補うため電源車の荷物室に空気圧縮機を搭載する改造が行われた。18両が改造された。
改造には、同時期に廃車となったクハ181形から、C3000形空気圧縮機が流用された。改造対象により荷物車を示すカニから職用車を示すカヤに改められた。番号は原番号を引き継いでいる。
1998年に形式消滅した。
[編集] ナハ21形
二等座席車。1977 - 79年に国鉄大宮工場と高砂工場でナロネ21形を改造した形式。急行「十和田」および「だいせん」が20系化される際に座席車が必要になったため、中央通路式であった開放式A寝台の寝台部分と上段部分にあった小窓を撤去。座席は固定し1ボックスを増やした。洋式トイレは1箇所のみとした。寝台車からの改造[27]のため、天井が高く、またシートピッチもゆったりとしている。改造は車種の車体はそのままに、下段寝台は固定し座席に、上段寝台と寝台仕切りを撤去し荷棚を新設している。当形式の改造工事の遅れで「十和田」の置換え時には寝台を座席に戻したままのナロネ21形が使用され、網棚がないなどの苦情が多発した。
全車とも1987年までに廃車となり、同年に形式消滅した。
[編集] オニ23形
ファイル:JR PC oni23-1.jpg 1988年(昭和63年)に来日した「オリエント急行」の連結器変換用控車[28]として、国鉄時代に除籍され日本国有鉄道清算事業団が所有していたナハネフ23 8を改造、復籍させた車両である。編成片側端部、スタッフカー側に連結され、ハイビジョンシアターカーとして使用された。
日立製作所笠戸工場が改造施工し、塗色はプルマン車をイメージして上半分が白、下半分が紺に塗り分けられ、また他車と釣り合いを取るべく金色のロゴが書き込まれていた。「オリエント急行」と連結する洗面室側の連結器がねじ式となり、あわせてバッファーも装備された。車内は当時日立製作所が試作していたハイビジョンテレビのデモンストレーションコーナーとなっており[29]、そのため床下は水タンクおよび冷房装置1台が撤去され、ディーゼル発電機が設置された。
日本国内での「オリエント急行」の走行が終了したことで、以後使用されることなく廃車された。
[編集] 未成形式
[編集] オニ22形
直流電化区間用のパンタグラフを搭載した電源車として計画され、図面作成まで終了していたものの、製造は中止された形式。図面では一見してカニ22形に類似した部分があるが、カニ22形と比較してディーゼルエンジンを搭載していないこと、車体長が短いなどの相違点がある(車体長はマニ20形よりもさらに短い13,500mmで計画されていた)。
直流電化区間でしか使えないため、効率性の面でオニ22形の必要性が疑問視されたことなどから、20系客車で唯一計画のみの車両となり、製造はされなかった。
[編集] 備考
- 等級については、一等車・二等車の項を参照のこと。
- 1960年以前の三等級制時代においては、一等→二等、二等→三等と読み替えのこと。
- 1969年のモノクラス制以降、座席一等車はグリーン車・座席二等車は普通車に相当。
- 寝台車については、A寝台・B寝台の項も参照されたい。
[編集] 改造
[編集] 国鉄時代の主な改造
1964年の東海道新幹線開業後、夜行特急列車の寝台専用列車化が推進される事となり、同年度以降車内の改修を行い、1968年から1972年にかけて車体新造に近い形で寝台車への改造が行われた。詳細は上記の各形式も参照されたい。しかし、例外的にナロ20 4・5・54は1975年3月まで「あさかぜ」用として一等車→グリーン車として使用され、そのまま廃車となった。
また、1972年に発生した北陸トンネル火災事故後にとられた防火対策によって重量増となり、ナ級からオ級となった。ただし形式・表記の変更は行わず、形式の前に白三角を追加する事で対応した。
1970年代後半には急行列車への格下げに伴い、カヤ21、ナハ21の両形式が誕生している。詳細は上記の両形式を参照されたい。
また、B寝台車の一部は、老朽化した10系寝台車に替わる急行列車用として、三相交流440V電源の12系客車と併結可能なよう変圧器搭載などの改造を施され、1000番台・2000番台車となったが、こちらは12系との一括操作可能な自動ドア仕様になっている。
[編集] カニ25形
なお、カニ22形のうち2両は24系の電源車カニ25形に改造された。発電機の巻き替えにより電圧を600V→440Vに変更、ジャンパ連結器を交換している。外観は屋上パンタグラフ跡にベンチレーター(通風器)が追加された他、車両番号標記がペンキ塗りとなった以外は原型を留めていた。長崎客貨車区に配置され、1975年3月から「あかつき」付属編成分割運用に用いられた。先に2が1978年4月20日に廃車。1は同年向日町運転所(現・京都総合運転所)に転属し「彗星」、「明星」等でも使用された後、1984年9月29日に廃車された。
- カニ22 53・2→カニ25 1・2
[編集] ジョイフルトレイン「ホリデーパル」
「ホリデーパル」は、1984年(昭和59年)に当時の広島鉄道管理局が、幡生工場(現・下関総合車両所)で改造したジョイフルトレインである。改造内容としては、寝台の下段の間をスペーサーで埋められるようにしてフラット化し、モケットの色をオレンジ色に変更して簡易個室として使用できるようにした程度で、スペーサーを外して通常のB寝台として使用することも可能であった。電源関係は元の20系のままであり、当然ながら未改造の車両との混結も可能であった。
- ナハネ20 325 - 329→ナハネ20 701 - 705
- ナハネフ22 21→ナハネフ22 701
この編成は、B寝台車6両とオシ14 1改造のラウンジカーオハ14 701[30]からなり、これに電源車のカヤ21形を連結して運用された。当初は20系標準色を纏っていたが、民営化後の1990年12月に白を基調としたオリジナル塗装に変更された。
ホリデーパルは登場から分割民営化後しばらくは団体専用列車だけでなく、多客時の臨時列車として上京する事もあった。そのため、カヤ21 123・ナハネフ23 14・ナハネ20 331・335が車内無改造のまま「ホリデーパル」新色に変更され、臨時寝台急行「玄海」などで運用された。その後は、老朽化のため1997年(平成9年)3月31日に全車廃車された。
[編集] 保存車両
- ナロネ21 551・ナロネ22 153・ナハネ20 132…北海道新得町の新内駅跡で、SLホテルとして利用された後、保存。
- ナハ21 8…群馬県伊勢崎市のカフェレストランで利用。
- ナハネ20 347…天竜浜名湖鉄道の天竜二俣駅構内に保存。
- ナハネ20 352・355・363…岩手県雫石町の小岩井農場で、SLホテルとして利用後、保存。
- ナハネ20 2237…三重県亀山市の国民宿舎関ロッジ[1]で利用。
- ナハネフ22 1…さいたま市大宮区の鉄道博物館に保存。
- ナハネフ22 1007…福岡市東区の貝塚公園に保存。
- ナシ20 24…大阪市港区の交通科学博物館に保存。休日は食堂として営業。
- ナハネフ22…大阪府豊中市の履正社学園豊中中学校に生徒の学校内合宿用として1両存在したが、解体されて現存しない。
[編集] 参考文献
- 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』
- 1985年3月号 No.444 特集・20系固定編成客車
- 2005年7月号 No.763 特集・20系固定編成客車
- 交友社『鉄道ファン』
- 1993年11月号 No.391 20系特急形客車最後の特集
- 中村光司「門鉄の簡易電源車 マヤ20」
- 鉄道友の会 編『車両研究 1960年代の鉄道車両』(電気車研究会『鉄道ピクトリアル』2003年12月号臨時増刊) P.84 - P.95
- JTBキャンブックス『幻の国鉄車両』(オニ22の図面と簡単な記述がある)
- JTBキャンブックス『国鉄鋼製客車II』
[編集] 脚注
- ^ その他形式からの改造編入6両あり、最終的には19形式479両となった。
- ^ JR東日本でも1996年までに廃車されたが、さよなら運転は行っていない。
- ^ 電源車については全車金属ばね台車を装着した。
- ^ 初期の車両(ナハフ20のみ)は平面ガラス2枚の組み合わせ、また電源車は3枚の平面ガラスを使用。
- ^ 同時に寝台車の天井内張板も穿孔板から一般の化粧板に変更されている
- ^ 戦前の鉄道院基本形客車などでは政府高官用として特別室と称する個室を備えた車両が存在したが、これは通常の営業には使用されておらず、一般向けは1等寝台室であっても定員2名以上となっていた。
- ^ 国鉄の正式な役職としては廃止されたが、OBは関連会社に再雇用されて引き続き乗務していたため、実態としては一斉に全廃されたわけではない。
- ^ 『車掌裏乗務手帳』坂本衛 1998年11月、山海堂
- ^ 両列車に青森運転区所属と秋田運転区所属の運用が混用していた事から区別を図るために色分けされた(秋田区の車両がピンク地)。
- ^ これにより、牽引・走行性能が確保されていれば、暖房供給装置を持たない機関車でも20系列車の営業運転に使用できることとなったが、のちにブレーキ改良による制約が新たに生じている。
- ^ このため一時は最高速度100km/hで運転される高速貨物列車の方が寝台特急より高速という逆転現象が発生しており、牽引機となるEF65形500番台車も高速貨物列車牽引用のいわゆるF形の方が旅客用のP形よりも高機能なブレーキ制御機構を搭載していた。
- ^ ASブレーキ装置は新造当初より、この改造を想定した機器配置とされていた。また、後年になってブレーキの緩解不良防止対策として、制御弁をA動作弁からKU1制御弁に換装したことによりCREBへ称号変更されている。
- ^ 95km/h以上の高速域でブレーキ圧を1段増圧することで応答性能を向上させる。元々は高速貨物列車用のEF65形500番台(F形)に搭載されていた機能である。
- ^ これにより、通常のK14弁などに電気接点を追加してブレーキ指令が通常のA動作弁に対するもの以外に各車の電磁給排弁に対して伝達されるようになり、空気圧指令で問題となる最後尾車への指令到達までの遅延時間が大幅に短縮された。
- ^ ED73形1000番台・ED75形1000番台・ED76形1000番台・EF70形1000番台といった1000番台の番号を与えられた改造車が主だが、EF81形やED75形300番台といった製造当初から本系列の牽引を前提としてこれらの装備を搭載して新製された形式も存在する。もっとも、一部の線区・形式では軌道条件あるいは車両性能の問題から最高速度は100km/hに制限された。なお本来は本系列の牽引用途ではないが、10000系高速貨車牽引のために元空気溜管と編成増圧機能を備えるEF66形を牽引機とする場合にも空気元溜管は機関車に接続される。
- ^ 本系列を牽引する定期運用への充当に際し、元空気溜管引き通しを新たに設置したEF58(P形)や九州地区転属後のED74形、EF80形、DD54形、それにDD51形0番台といった各形式と、DD51形500番台以降やDF50形、ED75形0番台のように重連総括制御に対応する必要から、当初より元空気溜管引き通しが設けられていた形式の2グループが存在し、両者とも95km/h以下での牽引運用の際にはブレーキ管に加えて元空気溜管を接続するだけでそのまま対応した。なお、非常時の迂回運転や車両基地・工場への回送等の際には、元空気溜管引き通しを持たない機関車の牽引例も存在するが、この場合はブレーキの取り扱いに制限があった。
- ^ ナハネ20 350 - 364は、車番下2桁が50番以降だが日本車輌製造が製造を担当。
- ^ 本車使用当時、2人用個室であっても寝台券は1人分ずつ別個に発売されており、いわゆる「相部屋」の状態がしばしば発生した。
- ^ このため中段寝台は昼間上方部に格納され、下段座席の背ずり部は固定されている。
- ^ 旧特ロ。のちグリーン車。
- ^ 1960年製造分は荷重3tであったが実際には2t積みで運用され、63年製造分では設計が変更されたため2tとされた。
- ^ MGの再装備を想定し暫くパンタグラフを残していたが、後年に撤去された。また、荷物室の荷重は3tとして運用された。
- ^ 予備車時代に数回故障した電源車の代車として使用され、品川から下り列車で手配される電源車と岡山辺りで交換されたこともあり、その後も1968年(昭和43年)頃に新大阪まで代走した記録がある。
- ^ 本系列の増圧圧縮空気は元空気溜め管によって機関車から供給されていたが、荷物車には元空気溜め管の引き通しがないため、荷物車を連結すると元空気溜め管から増圧圧縮空気を取ることができなくなる。
- ^ 変わったところでは山口線でのイベントの際にC57 1の牽引を受けたことがあるが、これが実現したのもカヤ21形への改造が行われていたためである。
- ^ なお、カヤ21形を連結した編成でも、20系のみでの編成、MR管を持つ機関車が牽引に当たる場合は、カヤ21形の空気圧縮機は使用せず機関車のMR管が引き通される
- ^ この手法は後に583系の419・715系化改造にも引き継がれている。
- ^ さらに控車にはマニ50 2236が使用されたが、オリエント急行の荷物車にあわせ、青15号に塗られていた車体に金色の帯が巻かれ、レタリングが施された。
- ^ 日立製作所は「オリエント急行」来日に際してのメインスポンサーであった。
- ^ 形式が示す如く14系そのものであって、サービス電源回路やブレーキ装置は14系のままで20系との変換装置を搭載しており、改造種車である14系や12系とも連結可能だった。
[編集] 関連項目
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最終更新 2009年11月22日 (日) 07:31 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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