国鉄9600形蒸気機関車

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9600形蒸気機関車
9600形蒸気機関車
梅小路蒸気機関車館に保存される9633
動力方式 蒸気
製造所 川崎造船所(川崎車輛)汽車製造鉄道省小倉工場
三菱造船所日本車輌製造日立製作所
製造番号 別記
製造日 1913年 - 1941年
総製造数 828両
軸配置(ホワイト式) 2-8-0
軸配置(アメリカ式) コンソリデーション
軸配置(日本式) 1D
軌間 1,067 mm
先輪 840 mm
動輪 1,250 mm
固定軸距 4,572 mm
全長 16,551 mm
全高 3,813 mm
動軸重 52.73 t
総重量 59.82 t
炭水車重量 94.32 t
燃料種別 石炭
燃料容量 6.00 t
水容量 13.00 m³
ボイラ 過熱式
ボイラ圧力 12.7 kg/cm²
火格子面積 2.32 m²
大煙管寸法本数 133 mm×4039 mm×22本
小煙管寸法本数 51 mm×4039 mm×126本
煙管伝熱面積 108.4 m²
火室伝熱面積 10.0 m²
全蒸発伝熱面積 153.6 m²
過熱器形式 シュミット式
過熱伝熱面積 35.2 m²
気筒 単式2気筒
気筒寸法 510 mm×610 mm
弁装置 ワルシャート式
最高速度 65 km/h
出力 870PS
単独ブレーキ 空気ブレーキ
列車ブレーキ 真空ブレーキ自動空気ブレーキ
運用者 鉄道省日本国有鉄道
形式 9600形
同一形式両数 770両
車両番号 9600 - 79669(番号は連続しない)
愛称 キューロク、クンロク
運用地域 全国
最終走行 1976年3月2日
保存 別記
運用者 樺太鉄道樺太庁鉄道→鉄道省
形式 80形 → 9600形
同一形式両数 9両
車両番号 80 - 89 → 79680 - 79689
運用地域 樺太
運用者 樺太庁鉄道→鉄道省
形式 D50形→9600形
同一形式両数 5両
車両番号 D501 - D505 → 9600 - 9604 → 79670 - 79674
運用地域 樺太
運用者 台湾総督府鉄道台湾鉄路管理局
形式 E800形 → D98形 → DT580形
同一形式両数 39両
車両番号 800 - 838 → DT581 - DT619
運用地域 台湾
運用者 三菱鉱業大夕張鉄道
形式 9600形
同一形式両数 2両
車両番号 No.3, No.4
運用地域 北海道
運用者 三菱石炭油化工業専用鉄道
形式 9600形
同一形式両数 2両
車両番号 21, 22
運用地域 樺太
運用者 夕張鉄道
形式 21形
同一形式両数 1両
車両番号 21, 22
運用地域 北海道
形式図 (9600 - 9617)
形式図 (9618 - )

9600形は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道院1913年大正2年)から製造した、日本で初めての本格的な国産貨物列車牽引用のテンダー式蒸気機関車である。「キューロク」、「クンロク」と愛称され、四国を除く日本全国で長く使用された。国鉄において最後まで稼動した蒸気機関車ともなった、長命な形式である。

9600形という形式は、1912年明治45年)度に12両が試作された2-8-0(1D)型過熱式テンダー機関車が最初に使用(9600 - 9611)したが、本形式に形式を明け渡すため、落成後わずか3か月で9580形(9580 - 9591)に改められた。従って、本形式は9600形の2代目である。

目次

[編集] 性能

本形式は、1913年3月に先行製作された軸配置2-8-0(1D)型の過熱式テンダー機関車初代9600形(9580形)の欠点を改良すべく設計されたものである。

明治末期の大型輸入機の設計を参考にし、独創的な発想で日本の国情によく合致する性能の機関車となった。狭軌鉄道向け機関車としては従来不可能と信じられてきた巨大なボイラーを、台枠の上に火室を載せてしまうことにより可能にした。そのため出力は上がったが、ボイラー中心高さは当時の狭軌用蒸気機関車最高の2591mmとなり、重心位置が非常に高く、小輪径の動輪もあって常用最高速度は65km/hと高速走行は苦手であった。

このような構造を採用すれば、重心位置が高くなるのは設計段階から明らかであったが、あえてこの構造を採用したのは、同様の構造を採用していたドイツボルジッヒ社製の8850形の使用成績が良好で、さらに同社の確信ある提言があったからに他ならない。実際、9600形の使用上、それが問題になることはなかった。

設計当初は8850形のように圧延鋼板を切り抜いた棒台枠を採用する予定であったが、国内では製造することができず、やむなく従来どおりの軟鋼板製の板台枠式となった。初期の製造車では、ピストンバルブをシュミット社から輸入し、軸バネも川崎造船所が輸入した貯蔵品を使用したため、厳密にいうと標榜したような純国産とはいかなかったが、9618号機以降は看板どおりの純国産となり、設計も変更された。外観上、運転台下部のラインが、S字形屈曲から乙字形屈曲に変更されたのが目立つ。

9600形の特徴としては、左右動輪のクランクピンの位相が、通常の右先行型に対し、逆の左先行型となっていることがあげられる。これは、動輪の釣合錘の位置をドイツ製機関車に倣って、回転軸を含む平面で動輪全体の回転質量のバランスを取るクロスバランシングを取り入れ、クランクピンから180°の位置からわずかにずらす設計変更を行なった際に、右先行の場合は後ろに、左先行の場合は前にずらすのを設計者の太田吉松が逆向きに間違え、それが当時の車両局長・朝倉希一をも素通りしてしまったのが原因である。つまり、本来右先行で設計されたものが、釣合錘のずらし方を間違えたのを救済するために左右動輪の位相を逆にセットし、左先行型として活かされたというのが真相である。しかし、こうしたことは最初の18両を製造した段階でわかっていたと思われるが、それを是正せず770両も生産してしまったのは、現在の日本では不思議に思えるが、基礎技術力が低く、経済的にも恵まれていたとは言いがたい当時にあっては、おいそれと設計変更に踏み切れなかったと推測できる。後に、朝倉は左足から歩を進めるというので若干の皮肉も込め、「武士道機関車」と名付けている。

また、製造当時は標準軌への改軌構想があったため、標準軌への改造を考慮した設計がされていたというのが通説であるが、朝倉や島秀雄はこれを明確に否定している。「満州事変中に内密に指令があったとき、軸守箱と担バネを台枠の外側に移せば、台枠をくずさずにすむ簡単な方法を偶然発見した。これは日支事変まで伏せてあり、実施のとき役立った。」と2人は自伝中で述べている。蒸気機関車研究家の臼井茂信はこれについて、広軌改築論を偏執的に耳にしていた原設計者の太田がここぞの「隠し設計」として胸三寸に収めていたのではないかとも指摘しているが、真相は藪の中である。

[編集] 9600 - 9617のテンダーについて

一般的な9600形のテンダー(炭水車)は、台車が3軸固定式の水タンク13m³、燃料6t積載のものであるが、最初に製造された9600 - 9617の18両については、小型の水タンク9m³、燃料2.5tで2軸固定式台車であった。これは、東海道本線(当時)山北駅 - 御殿場駅間、沼津駅 - 御殿場駅間の箱根越え区間の推進(補助機関車)用として設計されたためである。しかし、予定どおり箱根越え用に配置されたのは9610 - 9617の8両のみで、9600 - 9609の10両は神戸鉄道局に配置された。その後に製造された9600形は前述のように3軸テンダーとして石炭と水の積載量を増加したため、2軸の小型テンダーでは、別運用を組まねばならないなど、運用に不都合が生じるようになっていた。

しばらくの間は、そのままで凌いでいたものの、1923年大正12年)2月から3月にかけ、鷹取工場で9600 - 9605の6両について標準タイプのテンダーと交換された。その時余剰となった2軸テンダー2両は、同時期に鷹取工場で組み立てられていたロータリー式雪かき車ユキ300形(後のキ600形)2両に連結されたが、後年不足を生じて大容量のテンダーに交換されたという。残りの4両分については、水運車ミ160形となった。

残りの12両についても、引き続いて交換が計画されていたようであるが、これらについては1925年度までずれ込んだ。この遅れは、1923年9月1日に発生した関東大震災によるものと推定されている。つまり、それどころではなくなった、ということである。これらの改造(交換)については、テンダーを新製せず、既存の6700形のテンダーとの振り替えによって実施された。テンダーを供出したのは、6704 - 6708, 6728 - 6734であったが、その後の6700形/B50形同士のテンダー交換によって乱れを生じている。

また、9608は戦前、2軸ボギー式テンダーを連結していたことが知られており、テンダーの交換、振替が長期間かつ広範囲に行われていたことが推測される。

[編集] 製造

メーカーは大半が川崎造船所(686両)だが、汽車製造会社(69両)、国鉄小倉工場(15両)で製造されたものもある。1913年大正2年)を製造初年とし、1926年大正15年)までの間に770両(9600 - 79669。ただし、百位への繰り上がりは万位に表示され、数字的には連続していない。付番法については後述)が量産された。このほかに三菱大夕張鉄道夕張鉄道美唄鉄道の自社発注や、樺太庁鉄道台湾総督府鉄道向けなどに断続的に同形機が生産され、最終製造年は実に1941年(昭和16年)である。樺太庁鉄道に納入された同形機5両(D501 - 5)は、1943年昭和18年)の南樺太内地編入にともない鉄道省籍となり、79670 - 79674に、樺太鉄道向けに製造された細部の異なる準同形機80形9両(80 - 88)も、樺太庁鉄道を経て79680 - 79688(79675 - 79679は欠番)となっている。

製造年度ごとの番号と両数は次のとおり。

  • 1913年度(18両)
    • 川崎造船所(18両) : 9600 - 9617(製造番号73 - 90)
  • 1914年度(40両)
    • 川崎造船所(40両) : 9618 - 9657(製造番号127 - 166)
  • 1915年度(30両)
    • 川崎造船所(30両) : 9658 - 9687(製造番号167, 196 - 226)
  • 1916年度(30両)
    • 川崎造船所(30両) : 9688 - 9699, 19600 - 19617(製造番号253 - 282)
  • 1917年度(60両)
    • 川崎造船所(54両) : 19618 - 19671(製造番号292 - 296, 313 - 361)
    • 小倉工場(6両) : 29638 - 29643(製造番号1 - 6)
  • 1918年度(98両)
    • 川崎造船所(59両) : 19672 - 19682, 29613 - 29637, 29653 - 29675(製造番号362 - 397, 421 - 443)
    • 汽車製造(30両) : 19683 - 19699, 29600 - 29612(製造番号280 - 289, 297 - 316)
    • 小倉工場(9両) : 29644 - 29652(製造番号7 - 15)
  • 1919年度(126両)
    • 川崎造船所(111両) : 29676 - 29699, 39600 - 39612, 39628 - 39699, 49600, 49601(製造番号444 - 554)
    • 汽車製造(15両) : 39613 - 39627(製造番号359 - 373)
  • 1920年度(73両)
    • 川崎造船所(73両) : 49602 - 49674(製造番号555 - 627)
  • 1921年度(90両)
    • 川崎造船所(90両) : 49675 - 49699, 59600 - 59664(製造番号674 - 766)
  • 1922年度(101両)
    • 川崎造船所(101両) : 59665 - 59699, 69600 - 69665(製造番号767 - 867)
  • 1923年度(88両)
    • 川崎造船所(68両) : 69666 - 69699, 79600 - 79633(製造番号906 - 981, 1041 - 1044)
    • 汽車製造(20両) : 79638 - 79657(製造番号788 - 807)
  • 1924年度(4両)
    • 川崎造船所(4両) : 79634 - 79637(製造番号1045 - 1048)
  • 1925年度(12両)
    • 川崎造船所(8両) : 79658 - 79665(製造番号1093 - 1100)
    • 汽車製造(4両) : 79666 - 79669(製造番号866 - 869)

[編集] 樺太鉄道80形

80形は、樺太鉄道に納入された鉄道省9600形の準同形車で、9両全車が汽車製造で新製された。ボイラー容量がやや小さく、テンダーは2軸ボギー台車を2つ履いており、運転台は耐寒構造の密閉式となっており、当初から除煙板を装備しているのが鉄道省のものと異なっている。また、樺太の鉄道の仕様として、自動連結器の取付位置が低い。樺太庁鉄道に買収された後、1943年、鉄道省に編入され、79680 - 79688となった。

  • 1928年(4両) : 樺太鉄道80 - 83 → 樺太庁鉄道80 - 83 → 鉄道省79680 - 79683(製造番号1019 - 1022)
  • 1930年(1両) : 樺太鉄道84 → 樺太庁鉄道84 → 鉄道省79684(製造番号1140)
  • 1935年(3両) : 樺太鉄道85 - 87 → 樺太庁鉄道85 - 87 → 鉄道省79685 - 79687(製造番号1265 - 1267)
  • 1936年(1両) : 樺太鉄道88 → 樺太庁鉄道88 → 鉄道省79688(製造番号1392)

[編集] 樺太庁鉄道D50形

D50形は、樺太庁鉄道に納入された鉄道省9600形の同形車で、5両が製造された。煙突前側に給水加熱器を装備している。運転台が耐寒構造の密閉型で連結器の取付け高さが低いのは、80形と同様である。1943年、鉄道省に編入され、79670 - 79674となった。

  • 1936年 : 樺太庁鉄道D501 → 9600 → 鉄道省79670(川崎車輛・製造番号1642)
  • 1937年 : 樺太庁鉄道D502 → 9601 → 鉄道省79671(日立製作所・製造番号780)
  • 1938年 : 樺太庁鉄道D503 → 9602 → 鉄道省79672(川崎車輛・製造番号1908)
  • 1940年 : 樺太庁鉄道D504 → 9603 → 鉄道省79673(川崎車輛・製造番号2275)
  • 1940年 : 樺太庁鉄道D505 → 9604 → 鉄道省79674(川崎車輛・製造番号2276)

[編集] 台湾総督府鉄道E800形

E800形は、台湾総督府鉄道に納入された鉄道省9600形の同形車で、1923年(大正12年)から1939年(昭和14年)にかけて、39両(800 - 838)が製造された。こちらは、鉄道省籍に編入されたことはない。1937年にD98形に改められたが、番号は変更されなかった。太平洋戦争後にこれらを引き継いだ台湾鉄路管理局では、DT580形DT581 - DT619)と改められた。

台湾の「9600形」について特筆すべきは、E800形に先立つ1920年(大正9年)にアメリカン・ロコモティブ(アルコ)社スケネクタディー工場で、同系機(E600形)が製造されていることで、14両(600 - 613)が輸入されている。原型の板台枠を棒台枠に変更し、火格子面積も増大されており、乗り心地や投炭の楽さは、E800形に優っていたという。細部の設計もアメリカナイズされていたが、原設計を日本で行なった機関車をアメリカで製造した唯一の例である。戦後は、DT560形(DT561 - DT574)となった。

  • 1923年 : 台湾総督府鉄道800 - 802 → 台湾鉄路管理局DT581 - DT583(3両・川崎造船所・製造番号868 - 870)
  • 1924年 : 台湾総督府鉄道803 - 806 → 台湾鉄路管理局DT584 - DT587(4両・汽車製造・製造番号741 - 744)
  • 1925年 : 台湾総督府鉄道807 - 810 → 台湾鉄路管理局DT588 - DT591(4両・川崎造船所・製造番号1068 - 1071)
  • 1926年 : 台湾総督府鉄道811 - 815 → 台湾鉄路管理局DT592 - DT596(5両・川崎造船所・製造番号1150 - 1154)
  • 1927年 : 台湾総督府鉄道816 - 820 → 台湾鉄路管理局DT597 - DT601(5両・日立製作所・製造番号257 - 261)
  • 1928年 : 台湾総督府鉄道821 - 824 → 台湾鉄路管理局DT602 - DT605(4両・川崎車輛・製造番号1273 - 1276)
  • 1929年 : 台湾総督府鉄道825 - 829 → 台湾鉄路管理局DT606 - DT610(5両・汽車製造・製造番号1098 - 1102)
  • 1930年 : 台湾総督府鉄道830 - 833 → 台湾鉄路管理局DT611 - DT614(4両・日本車輌製造・製造番号241 - 244)
  • 1937年 : 台湾総督府鉄道834 - 835 → 台湾鉄路管理局DT615 - DT616(2両・日立製作所・製造番号808 - 809)
  • 1939年 : 台湾総督府鉄道836 - 838 → 台湾鉄路管理局DT617 - DT619(3両・三菱造船所

[編集] 私鉄の同形機

9600形は、北海道の炭鉱鉄道を中心に同形機が製造されている。これは、軸重が軽い割に牽引力が大きいという本形式の特徴が、炭鉱鉄道の要求に合致したものといえよう。後述の払下げ機とともに石炭輸送に従事した。

  • 三菱鉱業大夕張鉄道
    1937年8月にNo.3(製造番号876)、1941年1月にNo.4(製造番号1300)がいずれも日立製作所で新製された。この機関車はバック運転に適するよう、C56形に似た、炭庫の周囲を削り、その後端を低くしたスロープ型テンダーを装備している。No.4は、当初から美唄鉄道に貸し渡されていたが、1947年昭和22年)12月に大夕張鉄道に戻った。
  • 1959年から1960年にかけて、美唄鉄道の5が貸し渡されてNo.15として使用され、1969年10月に同機が転入してNo.2となった。No.2とNo.4は1974年1月、No.3は同年3月に廃車となった。
  • 三菱鉱業美唄鉄道
    前述のように、1941年日立製作所製のNo.4が借入れられたが、1947年に大夕張鉄道に戻っている。また、1940年川崎車輛製のNo.5(製造番号2393)が三菱石炭油化工業から転入しているが、1974年に大夕張鉄道で廃車となった。
  • 三菱石炭油化工業(樺太庁本斗郡内幌村)
    1940年に2両(21,22)が川崎車輛で製造された。1両(22)は、後に美唄鉄道に移ってNo.5となっている。21のソ連接収後の消息は不明。
  • 夕張鉄道
    開業以降9600形の縮小版である11形を使用してきた夕張鉄道には、1941年7月に川崎車輛製の1両(21。製造番号2530)が入線している。この機関車が、9600系蒸気機関車の最終製造車である。1975年の夕張鉄道廃止時まで在籍し、同鉄道の一部を引き継いだ専用線で行われた、映画新幹線大爆破の撮影でSL+貨車+DLの推進運転での爆破シーンに登場。その後、整備され栗山町に保存された。

[編集] 運用

製造当初は東海道本線などの幹線でも用いられたが、より牽引力の強いD50形などが出現すると全国各地に分散した。昭和4年に30t積み石炭車の走行抵抗を測定[1]した上で、1930年(昭和5年)に室蘭本線の運炭列車で単機牽引の2000t列車が設定された。[2]

標準軌上で運用中の供出機。
" 79632 " の番号が判読できる
(杭州 - 上海、1938年4月17日)

出力の割には軸重が軽く運用線区を選ばないのが特長で、このため1937年(昭和12年)に日中戦争が始まると、陸軍の要請により、鉄道省の工場で標準軌に改軌のうえ中国華北交通華中鉄道)に送られた。改造は1938年(昭和13年)2月から1939年(昭和14年)4月にかけて6次にわたって行なわれ、実に本形式の総両数の3分の1弱にあたる251両が供出されている。詳細は不明であるが、150両が華北交通でソリホ形(1501 -)、残りの一部が華中鉄道でソリロ形と称したとされる。戦後、華中鉄道からは中華民国へ引き継がれたのは80両であった。そのうちの10両が華北交通に貸し出されており、これら以外については、日本陸軍が管理した線区で使用されていたと推定されている。

さらに、1941年(昭和16年)に4両(9620, 9622, 9639, 9659)が廃車となっているが、これは海南島に送られたものと推定されている。1944年(昭和19年)には、6両(29619, 29655, 59660, 59677, 69626, 69687)が輸送力増強のため樺太鉄道局に転属した。いずれも日本の太平洋戦争敗戦とともに中国およびソ連に接収され、帰還したものは1両もない。中国に接収されたものはKD5型と改称され、さらに一部は1,000mm軌間に改軌されKD55型となった。KD55型は昆明鉄路局昆明機務段(機関区)に配属されベトナム国境に続く昆河線にて1980年代まで運用されていた。

本形式で、軍に供出されたものの番号は次のとおりである。

  • 9600 -9605, 9609, 9611, 9618, 9623, 9635, 9650 - 9653, 9655, 9656, 9664, 9668, 9669, 9671 - 9676, 9679, 9683, 9689, 9690, 9692(31両)
  • 19618, 19621, 19623 - 19625, 19628, 19631, 19632, 19635, 19637, 19639, 19641 - 19644, 19646, 19657, 19658, 19677, 19679, 19681, 19682, 19685, 19689, 19693, 19694 , 19698, 19699(28両)
  • 29606, 29610, 29616, 29624, 29632, 29637, 29640, 29644, 29646 - 29650, 29653, 29658, 29662 - 29667, 29671 - 29673, 29677 - 29679, 29684, 29686, 29693(30両)
  • 390603, 39604, 39606 - 39608 - 39610, 39611, 39613, 39614, 39622, 39623, 39643 - 39646, 39648 - 39652, 39657, 39660, 39665, 39666, 39675, 39678, 39684, 39691, 39693, 39698(31両)
  • 49609, 49611, 49614, 49623 - 49625, 49628 - 49630, 49633, 49646, 49647, 49661, 49667 ,49668, 49677, 49680, 49682 - 49684, 49689, 49697(22両)
  • 59605, 59606, 59608, 59620 - 59625, 59628, 59629, 59631, 59633, 59637 - 49646, 59649, 59651, 59662, 59664 - 59668, 59671, 59673, 59675, 59676, 59678, 59682, 59685 - 59687, 59697 - 59699(43両)
  • 69604, 69606, 69609, 69611, 69612, 69617, 69631, 69639, 69641, 69643, 49645, 69647, 69651, 69654, 69655, 69662, 69666, 69668, 69669, 69671, 69672, 69674 - 69676, 69679, 6968, 69682, 69688, 69691, 69695 - 69698(34両)
  • 79603, 79612, 79614, 79621 - 79623, 79625, 7962, 79628 - 79632, 79634, 79637, 79638, 79640, 79641, 79644 - 79651, 79654, 79656, 79660, 79662, 79663(32両)

華中・華北向け供出(特別廃車)年月別両数は次のとおり

  • 第1次 - 1938年2月 - 100両
  • 第2次 - 1938年3月 - 2両
  • 第3次 - 1938年5月 - 43両
  • 第4次 - 1938年8月 - 35両
  • 第5次 - 1938年9月 - 40両
  • 第6次 - 1939年4月 - 31両


名寄本線 上興部駅に停車中の49699 (1973年3月15日)

戦後北海道九州石炭輸送路線や米坂線など、貨物輸送量が多かったり急勾配を抱えていたりするにもかかわらず、路盤の弱い路線を中心に使用された。特筆すべき点は室蘭本線にて牽引力テストが行われた際、3000トンの超重量列車の引き出しに成功したことだろう。使い勝手の良さ、レールへの粘着力、列車の牽引力において決定的な代替能力を有する機関車がなかなか開発されなかったため[3]、古い形式でありながら蒸気機関車の末期まで残った。

歴史が長いだけにその形態は変化に富んでいる。キャブ裾や窓の形状、自動連結器への改造工事跡のバッファー穴や、空気制動化への改造によるエアータンクの位置など、個体ごとの特徴が多い。さらに四国を除く、北海道から九州まで数多くの機関区に所属。これらの地域や事情に適合するために様々な改良、改造が行われた。テンダーの形状、デフレクターの有無や形状、煙突や蒸気ドームの形状や高さ、前照灯の増設など、そのスタイルは実にバラエティに富んでいる。

最後に残ったのは室蘭本線追分駅近くにあった追分機関区の入換用に使用されていた39679、49648、79602の3両で、1976年(昭和51年)3月2日に最終仕業となった。なお79602に関しては3月25日まで有火予備で残っていた。これを最後に国鉄の蒸気機関車は保存用を除いてそのすべてが姿を消した。実働63年、最初の国産蒸気機関車として登場し蒸気機関車の終焉を見届けた最も長命な蒸気機関車であった。

この後39679は、苗穂工場に長期留置されたものの、保存されずに解体され、49648は中頓別町の寿公園に保存された。また79602も保存のため追分機関区扇形庫内に保管されていたが、1976年(昭和51年)4月13日の追分機関区の火災により焼損し、解体されてしまった。 なお39679、49648も火災により消失したとの記述も見られるがこれは誤りである。

[編集] 譲渡

三菱大夕張鉄道のNo.8

本形式は、その特性上重量貨物列車の運転される北海道の炭鉱鉄道を中心に払下げられた。最初は1942年(昭和17年)に三菱鉱業美唄鉄道に払下げられた69603であるが、その後、1964年(昭和37年)までに21両が9社に払下げられている。

  • 三菱鉱業美唄鉄道(2両)
    • 69603→6(1942年12月譲受、1945年6月改番。1972年廃車。静態保存)
    • 9616→7(1958年7月譲受、1958年9月改番。1971年三菱大夕張炭砿大夕張鉄道に転出)
  • 夕張鉄道(21形・7両)
    • 9682→22(1948年8月11日譲受、1971年廃車、北炭真谷地鉱業所に譲渡)
    • 9614→23(1956年1月5日譲受、1970年廃車)
    • 9645→24(1960年10月19日譲受、1969年廃車、北炭真谷地鉱業所に譲渡)
    • 49694→25(1961年8月8日譲受、1975年廃止時まで在籍)
    • 29674→26(1962年6月19日譲受、1975年廃止時まで在籍)
    • 49636→27(1963年6月17日譲受、1975年廃止時まで在籍)
    • 49650→28(1964年9月7日譲受、1975年廃止時まで在籍)
  • 天塩炭礦鉄道9600形・2両)
    • 9617→3(1949年4月20日使用開始)
    • 49695→9600-3(1959年9月30日譲受、1950年3月8日三菱芦別鉱業所専用鉄道に譲渡)
  • 三井芦別鉄道9600形・2両)
    • 39694→9600-1(1949年譲受、1960年7月27日廃車)
    • 59616→9600-2(1952年譲受、1965年5月18日廃車)
  • 三菱鉱業大夕張鉄道→三菱大夕張炭砿大夕張鉄道(4両)
    • 39695→No.5(1950年6月譲受、1974年3月廃車)
    • 9600-3(旧49695)→No.6(1962年三菱鉱業芦別鉱業所専用鉄道から転入、1974年3月廃車)
    • 9613→No.7(1963年1月三菱鉱業芦別鉱業所専用鉄道から転入、1974年3月廃車)
    • 7(旧9616)→No.8(1971年6月美唄鉄道から転入、1974年3月廃車)
  • 東洋高圧北海道工業所専用鉄道(1両)
    • 49640(1951年譲受)
  • 三菱鉱業芦別鉱業所専用鉄道(2両)
    • 9613(1955年譲受、1963年1月三菱鉱業大夕張鉄道に転出)
    • 49695→9600-3(1950年3月天塩炭礦鉄道から譲受、1962年10月三菱鉱業大夕張鉄道に譲渡)

[編集] 保存機

動態保存機はないが、静態保存機は青梅鉄道公園の9608や梅小路蒸気機関車館の9633、大井川鐵道の49616、九州鉄道記念館の59634をはじめ、全国各地に見られる。

  • 東北地方
    • 9625 - 岩手県宮古市「磯鶏公園」
  • 中部地方
    • 29622 - 新潟県新潟市「新潟県立自然科学館」(保存前の管理不備で三笠鉄道記念館の59609と入れ替わってしまっている)
    • 29657 - 新潟県魚沼市「自然休養村守門温泉SLランド」
    • 9628 - 富山県富山市富山城址公園
    • 49616 - 静岡県榛原郡川根本町・大井川鐵道千頭駅構内
    • 9646 - 長野県長野市「豊野町中央公民館」
    • 19648 - 岐阜県高山市「昭和児童公園」(飛騨体育館)
  • 四国地方
  • 現存しない保存車両
    • 49678(日曹炭鉱天塩鉱業所49678) - 北海道豊富町「森林自然公園」 - 2004年6月に解体
    • 9644 - 新潟県北蒲原郡聖籠町「聖籠町公民館」 - 1998年9月に解体
    • 59670 - 熊本県阿蘇市「阿蘇簡易保険保養センター」 - 2000年11月に解体
    • 69608 - 佐賀県唐津市・東港埠頭(唐津港開港百周年記念碑横) - 2007年2月に解体
    • 9632 - 山形県酒田市「日和山公園」 - 2007年夏に解体

[編集] 模型(乗車可能)

東京都目黒区にある日本工業大学付属東京工業高等学校の機械科では、9600形の1/10スケールのライブスチームを実習教材として製作している。それも本格的なもので、ボイラーは労働基準監督署認可のものであり、寄贈されたり、貸し出されたりした車両は、全国の施設で運用されている。学校生徒による運用は主に目黒SUN祭りや学校のオープンキャンパス等で、貸出車では碓氷峠鉄道文化むらのミニSLが有名。また寄贈車も存在して、ホビーセンターカトー東京の2階入口に旧仕様の9600形が展示されている。

[編集] 9600形の付番法

9600形の製造順と番号の対応は、1番目が9600、2番目が9601、3番目が9602、…、100番目が9699となるが、101番目を9700とすると既にあった9700形と重複するので、101番目は万位に1をつけて19600とした。その後も同様で、下2桁を00から始め、99に達すると次は万位の数字を1つ繰り上げて再び下2桁を00から始め…という付番法とした。したがって、100番目ごとに万位の数字が繰り上がり、200番目が19699、201番目が29600、…となる。

このため、ナンバーと製造順を対応させる公式は、

万の位の数字×100+下二桁の数字+1=製造順

となる。

例えば59634であれば万の位の数字が5、下二桁が34となるので、製造順は5×100+34+1=535両目となる。

[編集] 出演した映画

吹雪の名寄本線 天北峠に挑む9600

[編集] 脚注

  1. ^ 石炭集結列車は貨物の密度が高く一般雑貨列車に対してトン当り走行抵抗が小さいことが判明、ために牽引定数を大きくすることとなった。
  2. ^ 後にD50形単機で2400t列車を運転、戦後にはD51形単機で3000tの試験が行われ、2400t列車が設定された。
  3. ^ 軽軸重のD形テンダー機は、余剰となったD50の従台車を2軸に換え、軸重を軽減したD60で賄われたが、機関車単体で20トン以上重くなっている。その後のD62では、さらに大きく重くなり、運用に制限が出ることが予想されたことから、改造両数を最少限としたものの、電化の進展に伴い次第に適当な転属先が無くなり、短命に終わっている。D61も、引く手あまたのD51をあえて改造する理由が希薄で、わずか6両で計画そのものが中止されている。このように、60台形式はどれも余剰車の有効活用に重きが置かれて誕生したものである。この用途で唯一の新設計となったC58も、旅客機と貨物機の中庸を狙ったあまり、やや非力で、重量列車や入替で無理の利く9600を置き換えるには至らなかった。このように、低規格線区に合わせた小柄で強力な蒸気機関車の新規開発は全く行われていなかったと言ってよく、DE10登場までの長い空白こそ、大正生まれの9600の天下が続いた理由である。

[編集] 参考文献

  • 臼井茂信「日本蒸気機関車形式図集成 2」1969年、誠文堂新光社
  • 臼井茂信「機関車の系譜図 4」1972年、交友社
  • 臼井茂信「機関車の系譜図 落穂集」鉄道ファン 1979年7月号 (No.219)
  • 川上幸義「私の蒸気機関車史 下」1978年、交友社刊
  • 金田茂裕「形式別 国鉄の蒸気機関車 IV」1986年、エリエイ出版部 プレス・アイゼンバーン
  • 川崎重工業株式会社車両事業本部「蒸気機関車から超高速車両まで」1996年、交友社刊
  • 汽車会社蒸気機関車製造史編集委員会「汽車会社蒸気機関車製造史」1972年、交友社刊
  • 高砂雍郎「鉄道広報による国鉄車両台帳〔機関車編〕」1991年、鉄道史資料保存会刊
  • 高田隆雄監修「万有ガイドシリーズ12 蒸気機関車 日本編」1981年、小学館
  • 寺島京一「台湾鉄道の蒸気機関車について」レイルNo.23(1988年)エリエイ出版部 プレス・アイゼンバーン刊
  • 鉄道ピクトリアル
    • 1962年3月臨時増刊(No.128) 私鉄車両めぐり第2分冊
    • 1965年9月号(No.175) 9600形機関車特集

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ

最終更新 2009年11月11日 (水) 13:49 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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