土屋正忠

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日本の旗前衆議院議員 土屋 正忠
生年月日 1942年1月13日(67歳)
出身地 東京都
出身校 早稲田大学
学位・資格 法学士
前職 武蔵野市長
所属委員会
総務大臣政務官
世襲
当選回数 1回
所属党派 自由民主党(無派閥、改革フォーラム「新しい風」メンバー)
党役職 政調、文部科学部会・文教制度調査会・党国会対策委員・衆議院総務委員
東京都連副幹事長・第18選挙区支部長
会館部屋番号 衆・第2議員会館231号室
  

土屋 正忠(つちや まさただ、1942年1月13日 - )は日本政治家自由民主党所属の前衆議院議員

目次

[編集] 略歴

早稲田大学法学部卒業。東京都武蔵野市に育ち、市立の小・中学校、都立武蔵高校に通う。1966年から9年間、武蔵野市役所に勤務し、武蔵野市職員組合の委員長などを務める。1975年に武蔵野市議会議員に立候補し初当選、1983年まで2期務めた。市議会議員時代の所属は保守系無所属会派の市議会市民クラブであった。その後、1983年に高額退職金の是正を掲げて武蔵野市長選に立候補し(自由民主党新自由クラブ推薦)、前職の革新系市長を859票の差で破り初当選した。以降1987年1991年1995年1999年2003年まで6期連続当選する。6期目就任時の武蔵野市報での挨拶の文章に「2万2千人以上の方が多選について批判しているということを念頭に入れ、さらに身を引き締めていきたいと思います。」との文言を入れ、批判票に配慮する姿勢も忘れなかった[1]。土屋の市政選挙での最大得票は1991年(平成3年)4月21日執行の市長選挙であり36,891票を獲得している。保守系無所属だった市長在任途中、小泉内閣のいわゆる郵政解散により自民党から立候補を打診され自民党公認候補となり、2005年9月11日には第44回衆院選東京18区から出馬し民主党代表経験者菅直人に敗れるも小泉フィーバーの恩恵により比例復活により初当選を果たす。東京比例区での自民党の名簿順位は上智大学教授猪口邦子に次ぐ2位であった。しかし、その2ヶ月後に行われた自身の後任を選ぶ武蔵野市長選挙では、菅の推す候補者に土屋陣営は敗れ、政治基盤は弱まったとの推測がなされている。しかしながら、土屋個人の人気が波及されなかったとも考えられている。2006年現在、83会の会長を務めている。2006年9月安倍内閣で、総務大臣政務官に任命され、安倍内閣退陣までの約1年間務めた。2009年8月の第45回衆議院議員総選挙で落選。重複比例による復活もならなかった。

北京オリンピックを支援する議員の会所属。日韓議員連盟所属。

[編集] 市長としての実績

  • 市長としての初期の仕事は荒療治と言えるものが目立った。革新市政の名残で1980年代初頭の武蔵野市では職員に高額の退職金が支給されていたが、当時悪化していた財政建て直しの一環として切下げを断行した。全国の自治労から2000人の組合員が集結し、市長室前での抗議や市役所前広場でのジグザグデモが行われ、土屋に対して警視庁SPがつくなど喧騒の中での改革だった。当時、武蔵野市の高額退職金是正は地方行革の先駆けと評価された。交渉相手の職員組合にはかつての自分の同輩や先輩もおり、身を切るような思いでもあったという。これらのことから当時土屋はファイティング・メイヤー(戦う首長)と呼ばれた。
  • 初期のもう一つの実績が吉祥寺駅北口駅前広場の用地取得である。吉祥寺駅周辺都市計画事業は、1969年に完成した吉祥寺駅の高架化に合わせて構想され、1964年に都市計画決定・1966年に事業決定されていた。この都市計画事業に含まれる北口駅前広場の計画自体は、以前からあったものの中央部には古くからの地権者が10数件軒を連ねており、立地の良さから牛丼店などを営み盛業していた。また一部市議へ政治圧力もかけており[要出典]取得交渉は完全に停滞、当初完成予定とされた1972年から10年以上の歳月が流れていたが、いまだ完成を見ずにいた。駅前は人・バス・自転車で溢れる状態が続いていた。この一因には行政一般に土地収用法に基づく強制収用を伝家の宝刀と見なす風潮があり、武蔵野市もその例外ではなかった事がある。しかし、土屋が市長に就任してからこの問題の解決のために交渉体制を強化、強制収用も辞さない姿勢に転換したため1980年代末までには強制収用を行う事もなく決着をつけることが出来、1987年にバスターミナルの拡張が実現した。また、人口密度が高くまとまった公共用地の取得が困難といわれる吉祥寺駅周辺において(武蔵野市の人口密度は東京23区埼玉県蕨市についで全国第3位)、土屋市政22年の間に約9000台分の駐輪場が整備され、駅周辺の違法駐輪ランキングナンバー1の汚名は返上された。さらに、塩漬け土地との批判もある中、駐輪・駐車場や共同荷捌き場など将来に向けた地下利用のための種地も購入され、邑上守正市政になった現在でも地下利用は検討されている。なお、南口駅前広場も1962年頃に北口とともに構想が発表されたが、当時、都市計画決定の前段階で民間開発を止める手立てがなくターミナルエコーという民間会社による駅ビルが建つに至った(現在のユザワヤ吉祥寺店)。しかし、将来的な見地から2000年に南口広場築造の都市計画決定が行われ、現在も事業中である。また、ターミナルエコーは近年全館京王電鉄所有となり、建て替えが予定されている。2004年には、吉祥寺の総合的なまちづくりの方向性を定めるため「吉祥寺グランドデザイン委員会」が武蔵野市によって設立され市長として委員長を務めた。
  • その一方で市東部の井の頭公園付近が計画地になっている東京外環自動車道については、国家事業と言えども負担の押し付けは許さず、高架案が凍結されていた状況下では前任者同様反対し、議会のほぼ全会派と共に住民運動に応じた姿勢を貫徹した。現在、国・東京都は東京外環自動車道の高速道路部分を高架から大深度地下に変更して推進しようとしている。
  • 武蔵境駅北口の都市計画事業については、1976年に既に北口駅前広場や取り付け道路など再開発事業の都市計画決定の手続きが踏まれていたが、地元の意向が入っていないなどの反対が強くまったく進まずにいた。土屋市政になると、武蔵境のまちづくり市民委員会を組織し、そこに地元の商業者、大学、PTAなど、また南口側からも市民を入れ、反対している人々の代表者からも3人加わってもらい協議を進めた結果反対ゼロになり、1986年に都市計画の線引きを見直し都市計画決定の手続きも再度やり直すなど北口再開発事業も軌道に乗った。また、1973年に市民有志からの買取要求があり、取得に向けて動き出した農林水産省食糧倉庫跡地については、土屋市政以前から「青少年のための施設」と位置づけられながら、長い間の調査・検討期間、食糧庁との折衝を経て、新しいタイプの公共施設建設が熟慮され、2003年10月から翌年2月にかけて施設の計画づくりの段階から参画し、計画を練り上げていく設計者を公募型プロポーザル方式により選考するなど正式な段階を踏み、図書館機能を含んだ複合文化施設「武蔵野プレイス」用地として買収されるに至り、2011年には完成予定である。なお、三鷹駅北口・武蔵境駅南口の駅前広場はそれぞれ三鷹駅南口・武蔵境駅北口に比べて開設が遅かったこともあってか、地権者も少なく、三鷹駅北口は1953年、武蔵境駅南口は1979年という早い時期に再開発事業を伴わずに駅前広場を完成していた。1995年には三鷹駅北口地区において駅前交通広場に通過交通が流入しないよう2本の補助幹線区画街路が計画され、2009年現在、梅林跡地開発等にあわせて、総合設計制度を利用するなどし、区画街路も整備されつつある。
  • JR中央線三鷹立川間の連続立体交差化事業を東京都や沿線自治体との連携のもと強力に推進した。JRがまだ国鉄だった時代の1966年中野荻窪間が、1969年に荻窪・三鷹間の連続立体交差高架複々線化事業が完成していた。中野から三鷹までは国主導のもとに地元負担なしの国家事業として進められたが、国鉄の分割民営化等に伴い三鷹・立川間はなかなか進まずにいた。連続立体交差化・複々線化が行われる背景として、三多摩の人口は1965年頃からの40年間で200万人から400万人へと倍増したにも関わらず、中央線の輸送力は1.1倍に留まっていたことが挙げられる。通勤5方面作戦により、東海道線が1.7倍、常磐線が3.3倍、総武線が3倍、東北線が2.4倍の輸送力になっていたが、三多摩格差の成せる業か、東京西部方面への大動脈である中央線の輸送力増強は進まずにいた。沿線自治体による地元負担への拒否姿勢も進まずにいた一因とされる。しかし、土屋のリーダーシップのもと沿線自治体の首長、当時の鈴木俊一都知事と協力し、現状打破のためには地元負担止む無しということで足並みがそろい、1989年に鈴木都知事が調査費をつけるなど事業化に向けて動き出した。三鷹・立川間の在来線連続立体交差化により、18の開かずの踏切が解消され、南北交通がスムーズになることが期待されている。このように開かずの踏切解消のための道路事業として行われる三鷹・立川間在来線連続立体交差化事業には、国からの補助としてガソリン税を主体とした750億円が投入され、その他に東京都負担分が550億円、地元沿線自治体負担分が200億円(武蔵野市負担分は高架橋ができる距離に応じて約50億円=中央線41億円、西武多摩川線9億円)、JR東日本の負担が300億円であり、総事業費はおよそ1800億円である。なお、複々線化事業(線路増設)に関しては1994年に高架の地下部分に地下方式で都市計画決定がなされており、こちらは基本的にJR東日本の単独事業となるので着工までにはまだ時間を要するようである。
  •  木の花小路公園やむさしの自然観察園、吉祥寺西公園など地域住民が計画段階から参画し維持管理も行なう市立公園づくりや、都市マスタープラン[2]など市の重要施策で市民によるワークショップ方式を取り入れた。それまでは行政が勝手に公園をつくり市民がそれを利用するという時代だった。また、御殿山通り拡幅整備のような都市計画道路築造でもワークショップ方式を取り入れる試みを行なった。その他にも、戦時中に米軍の爆撃対象となり関連敷地も含め66万㎡の敷地を有していた中島飛行機武蔵製作所の西工場があり、戦後は米軍宿舎グリーンパークが建てられた場所である都立武蔵野中央公園用地については、地元の強力な返還運動もあって美濃部亮吉都知事時代の1973年に日本に返還され、1975年には都立公園用地として東京都に買収されていたが、米軍宿舎が取り壊された1976年以降長期にわたり原っぱのままで暫定解放されていたため、原っぱのまま残そうよという市民運動がおこった。東京都では敷地内に日本庭園も設けるなど既に整備構想を作成していたが、原っぱのままの公園にとの市民運動を受け、土屋もそれに呼応し当時の鈴木俊一都知事に面会するなど東京都に強力な働きかけを行なった。武蔵野開村100年のメモリアル・イヤーだった1989年に都立公園としては異例の市民の要求をほぼ全面的に取り入れた10万㎡の原っぱのままの公園は開園した。加えて土屋は都市公園整備促進協議会会長を務めた。
  • 体験教育に力を入れ、都市に生きる子ども達を自然の豊かな地方に長期滞在させ、農業や自然を体験させ、人間は自然の営みの中で生き生活してきた生物であることを実感してもらう、生産の仕組みを知る、労働の意味を知るなど、普段の学校生活(ファーストスクール)では不可能な体験学習を正規の授業のカリキュラムの一環として行うセカンドスクールの充実に努めた。2003年、セカンドスクールは第1回「オーライ!ニッポン」の大賞を受賞した。
  • 「都市は単立できない。都市と農山漁村は対立するのではなく協力すべきだ」と主張した。10年ほど前、吉祥寺で土屋と意見交換をおこなった鳥取県選出の石破茂農林水産大臣(当時、農林水産政務次官)は、土屋の都市と農村に対する主張やセカンドスクールなど教育に対する意見に感銘を受け、「農の未来は都市にあり」の言葉を使わせてもらうと語っている[3]2003年には、鳥取県片山善博前知事と「都市と農山漁村との相互交流元気・活力宣言」に調印した。基礎的な自治体の市と広域的な行政の県がパートナーシップを結ぶというのは、それまで例を見ないことであった。関連して、片山前知事の主宰する「鳥取自立塾」講師を福嶋浩彦我孫子市長、石田芳弘犬山市長らとともに務めた。
  • まだ東西冷戦影響下にあった1987年に始まった日ソ間を行き来する渡り鳥の研究に関する民間交流がきっかけとなった極東ロシアハバロフスク市との交流を市長として進めた。土屋は武蔵野市としての正式な交流を始める前年の1991年、15人の子供たちに付き添い、アムール川を始めとした現地を訪れ実地調査をしている。その他、中国北京市、テキサス州ラボック市等の青少年海外相互派遣交流、ルーマニアブラショフ市との市民交流、大韓民国ソウル特別市江東区との職員相互派遣交流などが行なわれるようになった。土屋市政22年の間に、市民の理解・協力もあり、武蔵野市の国際交流事業は大幅に拡充された。武蔵野市は、現在でもセカンドスクールや民泊事業など、国内においても姉妹友好市町村を中心に積極的に交流事業を続けている。関連して、武蔵野市長としてのシベリアとの野鳥観察交流や寒帯林保護などの実績が評価され、2006年から小杉隆文部大臣の後任として、日本野鳥の会の理事の1人に就任し、主に環境省への橋渡し役を務めている[4]
  • 市民の満足度を重視する政策を採り、日本経済新聞社と日経産業消費研究所が行う行政サービス評価の全国調査で全国トップの常連になるなど、結果を残している。
  • 全国初のコミュニティバスムーバス」を導入した。今までのバスにはない、きめ細やかなバスサービスを実現し、これを手本に日本全国のコミュニティバスの基本的なシステムが構築され、関連法案も整備された。路線開設までには紆余曲折があり、路線バスの許認可官庁だった運輸省は、不特定多数を対象とする新しいマイクロバスによる路線は前例がないし、通しても需要面・経営面で成り立つのかどうかを問題視し、警察庁は幅8m以下の道路に路線バスを通すのは安全面から認可できないとの見解を示していた。武蔵野市では需要調査や高齢者の実態調査を行い、グループヒアリング調査も実施し、住民の意見を聞いたところ、「そういうバスがあれば利用したい、210円のバスなら乗らないが100円ならば乗る」などの答えが多いことがわかり、当落線上は150円だった。その後、それらの調査を元に委員会を立ち上げ、運輸省や警察庁の若手官僚を派遣してもらい、交通専門家・バス会社・車両メーカーにも加わってもらい4年間の議論を重ねた。土屋は「最後にできないという結論が出てくるのはやむを得ないけれども、最初からできないということはいわないでほしい、どうしたらできるのかを考えて欲しい」と注文をつけていた。結果、運輸省・警察庁ともに認可を出し、バス会社も赤字が出た場合の補填を条件に運行委託を受入れる会社があった。こうして1995年11月から、都市の路線バス空白地域解消を目的としたムーバス1号路線が走り出すに至り、数年後には黒字化を達成した。この時の委員会に参加した運輸省の若手官僚は、その後、国会議員となり活躍している赤澤亮正である。1998年、ムーバスは日本生活文化大賞の大賞を受賞した。(『ムーバスの思想 武蔵野市の実践』参照。)
  • 「一部の団体利益より全体の市民益」として西多摩郡日の出町にある多摩地区のゴミ最終処分施設設置に関して、地権者や環境団体の理不尽な要求や圧力を拒否し続けている。
  • 青梅市二俣尾での森林の活用(農林漁業の第五次産業化の実践)や鹿害で悩む西多摩郡奥多摩町での植林事業も推進した。多摩地区の市で構成するゴミ最終処分組合が、日の出町の二ツ塚処分場で焼却灰の埋め立てをしてきた一方で、植林などで森林を守り育てる行動によって、人間が生活していく上において、バランス感覚が非常に大切だということを知る市民も多いようである。現在、武蔵野クリーンセンターで中間処理(焼却処理)された可燃ゴミの焼却灰は、二ツ塚最終処分場に埋め立てられず、すべてエコセメント化されている。関連して、武蔵野市では1999年から旧公団住宅建て替えを契機に、大型の生ごみ処理機をUR都市機構と協力して設置し、生ゴミの堆肥化を図り、主にその堆肥は農地やガーデニング用に循環利用されている。また、一般住宅でも生ゴミ処理機導入の際に申請すれば3万円を限度に助成金が支給される。生ゴミの堆肥化・焼却灰のエコセメント化それぞれに課題はあるが、エコセメント化施設の稼動によって、現実として多摩地区において、自治体やゴミ処理組合の可燃ゴミ焼却施設がいくつも稼働している中で、何もしないでいると2013年〜2014年頃までには満杯になり、その後のメドはまったく立たないといわれた日の出町の二ツ塚最終処分場は大幅に延命化されるに至り、三多摩地域廃棄物広域処分組合(現・東京たま広域資源循環組合)の管理者として役割を果たした。多摩地区の自治体では、ゴミの最終処分場を引き受けてくれている日の出町に感謝の意を表すため「三多摩は一つなり」交流事業を実施し、各種催し物に日の出町民を招待したりしている。なお、武蔵野市における家庭用生ゴミ処理機に対する助成金は、助成金を交付したうちの6割以上で資源化が行われていないことを背景に、2009年3月をもって打ち切られることになった。
  • 市長時代、2000年から新たに導入が検討されていた介護保険制度について、国民的論議がなく現場無視で政策決定がされている、家族介護の負担増、行革への逆行、要介護認定や財源の効率的な配分、民間・NPOとの連携のあり方など地域福祉を踏まえた問題点を指摘し、改革を提言していた。公的介護の充実は図られるべきであり、国民はそのための必要な財源も新たに負担すべきだということには変わりがないとしながらも、新たに導入される介護保険制度は、保険という形を取りながらも市町村が保険者になり、公費との折衷という形で運営され、コンピュータによる認定といった国の関与も隅々まで行き渡っていて、公費でもなければ保険でもないという歪んだ形になっているが、制度は簡素・明快・公平なものにして、その公的サービスは血の通った温かいものでなければならないとした。(『介護保険をどうする 市長からの「改革」提言』参照。)
  • 中学校給食を新たに始めることに関しては一貫して慎重な姿勢を取り続けた。武蔵野市では、戦後間もない1948年2月からミルク給食を開始、その後、同年9月におかずのみの給食、1955年には小学校での完全給食が実施されていたが、中学校給食については、1969年にミルク給食を開始して以降、完全給食は実施されて来なかった。その後、社会状況の変化から、1970年前後に中学校給食の議論が始まり、武蔵野市における小学校給食の評価や今日の食生活との関わりなど、多岐にわたって議論され、武蔵野市では学校教育の一環として教育的な見地から中学校給食をやらないという方針が続けられて来た。歴代市長も中学校給食に関して難しく捉え、土屋市政以前の市議会でも与野党を問わず反対意見も多かった。土屋市政になってからの市議会において、「給食はまだ社会全体が貧しくて自分たちの食糧を個人の力で確保できない時代に始まった。しかしながら、時代が移り、今日では誰もが自由に食糧を確保できる時代になったのだから、その中で給食の持つ教育上の意味を問い直そうというのが最近の出来事であり、中学校給食を行わないのも1つの懸命な措置として評価される部分もある。」と土屋は発言しており、それまでの方針を踏襲する意思を示していた。この発言の背景として、共働きの家庭が増えたりして弁当を持ってこない家庭が増えていることなどに理解を示しながらも、「子供に食事を与えるのは親の責任である、戦後、給食が始まったのは、せめて、小さな子供たちには、きちっと栄養のあるものを食べさせようとの主旨から始まったのであり、現在は戦後の貧しい時期に比べて飢えていないので、むしろ個人個人の問題として位置づけるべき」などの反対意見も大きかったことや、これらの議論が1970年以降3代の市長に渡って繰り返されてきた経緯などがある。市議会において、中学校給食実施に関する陳情が採択されたりもしていたが、市民へのアンケートで中学校給食は高齢者・障害者に対する給食の充実に次いで3番目であったこと、1992年2月に執行機関である教育委員会が中学校給食は実施しないとした答申、それを受けた1992年6月の議決機関である市議会での実施への決議、中学校給食検討委員会が示した3つの条件(1.委託なしの単独調理校方式、2.複数メニューでの選択給食ができる、3.ランチルームでの食事ができる)、個ができないことを公がやるという原則など、様々な角度から総合的に判断する市長としての立場から、現段階で中学校給食はやらない、武蔵野市の長期的な方向性を定める長期計画を策定する過程で検討していくとの立場を土屋は取り続けた。また、市議会では「愛情弁当」や「親子の絆」などの言葉が議員も含め使われた。
  • 市の資産や負債の状況を表わすバランスシートの作成を市長として進めた。武蔵野市のバランスシートは、賃借対照表だけではなく、行政コスト計算書、資産収支計算書、外郭団体も含めた武蔵野市全体のバランスシートを体系的に作成しているのが大きな特徴となっており、自治体が取り組んだ先進的なバランスシートとして、日本公認会計士協会の公会計のテキストにも採用された。バランスシート作成のみに終わるのではなく、バランスシートを最大限利用し、行政評価システムへの情報提供、長期計画や予算制度への情報提供へと発展させ、武蔵野市で働く職員が常にコスト意識を持って経営改善に取り組むことが期待された。
  • 元市議の開業祝いに市長交際費を支出したことで住民訴訟され、支出した一部が違法であると最高裁判所において判断された。このことは、市長交際費の民間交流支出の使い道に関しての初の判例となった。
  • 政治主導で始まった多選問題に批判的であり、地方自治の本旨(住民自治、団体自治=自治体のことはその自治体の住民が考え判断し決めていく、そして必要限度を超えた国の関与は受けないということ)にかかわる問題として捉え、更なる議論が必要であり、多選を法律で制限するという国の関与は地方分権と多様な地方自治の保障という時代の潮流に反すると主張し、「多選禁止は合憲か」というレポートを研究機関に提出している。関連して、最近民主党が政策として掲げている地域主権に関して、かつて土屋は、石原慎太郎都知事が行政文書で地方主権という言葉を使ったことに驚き、地元の都議を通して石原都知事に地方主権ではなく地方分権という言葉を使うべきではないかと質問してもらっていた。地方主権が地方分権の運動論のための言い回しに過ぎないとすれば、地方主権や地域主権も時代的な意味があるが、地方主権という言葉や地域主権という言葉が一人歩きすれば国民をミスリードすることになると警告していた。主権とは立法司法行政の三権を指すのであるとし、アメリカイリノイ州知事が死刑囚の刑の執行を差し止め減刑し、終身刑にするとの報道を例に挙げ、内容の評価についてはさまざまな意見があるにせよ、司法が下した判断、死刑という極刑を知事の行政命令で減刑するというのは、まさにイリノイ州知事は主権者そのものであり、アメリカはユナイテッドステーツ、連邦国家であると思い知ったとの感想を披露し、世界の中にはもう少し緩やかな連邦制もあるにはあるが、日本の道州制はユナイテッドステーツオブニッポンを目指すものではないことは明らかであるとし、その意味で地方主権という言葉には地方分権を強調するあまり、国民におもねり、国民をミスリードする響きがあり、地方分権をどう進めるかは大いに論議すべきであるが、共通の認識を得るためにも言葉の定義を厳密にしなければならないと市議会で発言していた。また、選挙区内に貼られた土屋のポスターには「地域の力 つくる日本」と書かれていた。
  • 全国市長会理事、東京都市長会会長、49歳までに当選した市長で構成される全国青年市長会会長(土屋は設立時のメンバー)、中央教育審議会義務教育部会臨時委員などを歴任。

[編集] 衆院議員として

  • 民主党の政策を「20兆円を超えるバラマキ」[5]として厳しく批判した。しかしながら、自身の所属する自民党は民主党よりも大きな額である26兆9000億円にも及ぶ経済政策を発表。
  • 子供が被害者となる事件が多発していることから、2006年10月、自民党政務調査会の中に、当時の中川秀直政調会長の特命で「子どもの犯罪防止対策に関するプロジェクトチーム」が発足し、中山成彬委員長の下で事務局長を務め、子育て・教育など地方自治の現場での経験をもとに発言し、まとめ役のひとりとなった。
  • 総務大臣政務官としては、主に旧自治省の所管である地方自治の面で当時の菅義偉総務大臣を補佐し、財政再建団体となった夕張市の財政再建プロジェクトチームのリーダーとして役割を果たした。2008年度決算時からは、自治体の財政状況の悪化を予見し早期健全化をはかる目的の「財政健全化法」が機能し始める。また、子どもを犯罪から守るための「携帯電話フィルタリング」でも携帯電話3社の社長に強く協力を要請するなど菅義偉総務大臣の下、役割を果たした。
  • 市長時代の2004年、課税額総額を変えない前提で、第二住民登録・第二住民税制度の創設を自著の中で提言し、お笑いグループの爆笑問題が活用して話題になった現行のふるさと納税制度につながる提案をしていた。2008年、増田寛也総務大臣のもとでふるさと納税は制度化された。
  • 公務員制度改革では、天下りや渡りといったキャリアの問題がマスコミなどでもクローズアップされているが、ノンキャリアを中心とした現場の労働組合が合理化反対闘争を繰り返したことが現在の社会保険庁地方農政局の状態をつくりだしたと指摘、制度改革の検討事項の一つである労働協約締結権 = 団体交渉権を国家公務員に付与することについては百害あって一利なしと主張し、地方自治体に与える影響も甚大だとしている。トヨタなどの民間会社は、労使が共に協力して利益・富を生み出し、その利益・富を労使や株主でどのように分配していくかという交渉、分配論になるのに対して、公務員には市場の淘汰や倒産・破産が無く、国民から徴収した租税が給与の原資になっているのだから、仮に、労働協約締結権を付与するならば、行政の中立性・継続性を保障するために公務員に与えられている身分保障の撤廃とセットで検討されなければいけないことだと主張している。そうでないと、身分だけはガチガチ、その中でヌクヌクと自分達の利益を追求する場面が必ず出てくるだろうとし、結局、そもそも行政とは何かという根源的なことに行き着くのではないかと、武蔵野市長時代に経験した労働争議を引き合いに出しながら、衆議院予算委員会分科会の場で発言した。同時に、最近の公務員バッシングは行き過ぎだと批判し、頑張っている職員のやる気を引き出すのも政治家の役割だと土屋は述べている。
  • 前項に関連して、2009年3月に自由民主党内に立ち上げられた「公務員の違法就労撲滅プロジェクトチーム」(通称・ヤミ専従撲滅PT、委員長・原田義昭)が、公務員による違法な組合活動、就労実態を正す目的で、国家公務員法で認められていたが拡大解釈され、ヤミ専従の温床になっていたといわれる「短期従事」制度を削除する「公務員違法就労禁止法案」(通称・ヤミ専従撲滅法案)を2009年7月1日に議員立法で衆議院に提出し、国会で審議されることになった。土屋も6人で構成されたヤミ専従撲滅PTのメンバーに新人議員からは唯一選ばれ役割を果たした。
  • 2009年1月より、事故米流通や中国餃子事件などがきっかけとなり、省庁ごとにバラバラだと批判の多い消費者行政を一元化するための省庁横断的な消費者庁設置に向けて、消費者庁設置関連3法案を審議する「衆議院消費者問題特別委員会」(船田元委員長・定員40名)の特別委員に自ら希望して加わり、地方自治の現場経験を元に発言している。
  • 2008年1月、政府が提出していた平成20年度予算に関して、翌年度予算成立の前提となる税法が予算とセットになって毎年3月末まで議了されることが恒例になっているにも関わらず、参議院を通過しないことが予想されたため、4月1日以降各方面に多大な影響が出て国民生活が混乱することを回避するため、現行税制を2ヶ月間延長するという内容で、ガソリン税をはじめとした税制は時間をかけしっかり議論しましょうという趣旨の法律「国民生活等の混乱を回避し、地方団体における予算の円滑な執行等に資するための地方税法の一部を改正する法律(セーフティネット法)」の提案者となった。

[編集] 著書

  • 『ムーバスの思想 武蔵野市の実践』 ISBN 4492222529
  • 『武蔵野 草の根からの行革』 ISBN 4492220607
  • 『武蔵野から都市の未来を考える』 ISBN 4492221492
  • 『介護保険をどうする - 市長からの「改革」提言』 ISBN 4532163226
  • 『ムーバス快走す - 一通の手紙から生まれた武蔵野市のコミュニティバス』 ISBN 4324050376
  • 『青年よ故郷に帰って市長になろう 地方から日本の変革を』(共著) ISBN 4643940107
  • 『学童保育ここに始まる - 武蔵野市の「ともだちの家」』 ISBN 476340329X

[編集] 外部リンク

先代:
藤元政信
武蔵野市市長
第4代: 1983年 - 2005年
次代:
邑上守正
先代:
吉野和男
東京都市長会会長
第22代:1996年 - 1998年
次代:
臼井千秋

最終更新 2009年11月19日 (木) 08:54 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【土屋正忠】変更履歴

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